第七話 如何にして彼は彼女はここへ来たか
「相理」
少しの間を置いて紅真が、決まったばかりの私の名を呼んだ。呼ばれても違和感が無くすんなり受け入れられる。
これが私がここで生きていく為の名前、そう思うと愛着も湧く。流れで急に決まったことだけど目上の人が付けることもあると言っていたから彼が決めたことに異論はない。
「話が逸れたがそれよりも続きだ続き。俺は外から来たからといっていつまでも甘やかすつもりはないからな」
確かにまだ憶えるべき事はいくらでもある。その場の空気を切り替えるべく紅真が言うと私もジュリアも用意された課題に手を付け始めた。
……しばらくは真面目に勉強をしていた。が、元々こういう勉強よりも身体を動かす方が好きで机に向かう気力が続かない。顔を上げると紅真がジュリアの書き取りの添削作業をしているところだった。
「どうした、何か分からないところでもあったのか」
すぐに気が付きこちらへ近づくと手元の本のページを覗き見る。彼は真面目で熱心な先生だ、だから飽きてきたとは言い辛く他に理由を探し始める。
「……そういえばどうして紅真が教師役なのかなって思って。王弟だし色々と忙しいんでしょう?」
初対面で事情を知らないであろう他の教師より彼が来てくれるのは気楽で話しやすいからこちらとしては助かる。けれど彼もその地位なりに忙しい身であるはずなのにこんなことをしていていいのだろうか。無理をさせているのなら申し訳ない。
「……兄上が」
「ああ、うん。そういうこと」
「言わせろよ」
言いかけた時点でもう察してしまった。そうでもなければ仕事と、会ってそう日も経っていない居候、どちらを優先するべきか分かり切っている。
「兄上が、普段から働き過ぎだから客の相手でもしながらゆっくり休めと。それに迂闊に外から教師を引き入れるのも良くないと、そうも言っていた」
「ああ、分かる気がする」
紅真の派遣は兄から弟への思いやりだった。現に昨夜も遅くまで起きているのが当たり前のようなことを言っていたのだ。これまでも休めと言われても仕事をするようなことがあったのだろう。それをさせない為の教師役、と。ゆったりと椅子に腰掛け私達の監督をする彼は随分とのんびりしているように見える。
……八帰も弟のことが大事なんだなぁ。紅真の一方通行でないことにほっと安堵する。もしそうだったら悲し過ぎるから。
しかしここまで彼の話を聞いて「兄」は何度でも出てくるがそれ以外の家族……「父」「母」と出てこないのが不思議に思える。それに以前に後宮が使われていたなら他に兄弟姉妹がいたっておかしくない。
紅真の興味が兄にしか向いていない異常な性質なのかそれとも既にこの世に存在しないのか。どちらであってもまた彼の逆鱗に触れてしまいそうで私は疑問を口に出さずに飲み込んだ。
「兄上は即位から一人で国を支えているんだ。俺もやっと成人したから兄上の助けになれると思っていたんだが……」
……やはり他の血族はもう生存していないのだと察した。八帰が何歳で王になったかはさっきまで読んでいた歴史書最新版にも書かれていなかった。即位後何年経ったかは分からないけどまだ二十代くらいの彼が今よりもっと若かった頃なら相当苦労したのだろうと思われる。
そんな彼らが働いた上で私達は後宮に匿ってもらい平穏に暮らしている訳だ。
……どうしよう、ものすごく申し訳ない気分になってきた。せめて迷惑を掛けないよう早くこの国のことを覚えよう、薄れかけていたやる気を取り戻し再び手近な本に目を通した。
…………
「よし、午前の分はここまでだ」
あれからしばらく、私は必死にジュリアはのんびりと勉強を続け気が付けば昼食の時間を過ぎていた。朝食はすっかり消化されきって空腹を訴えかけている。紅真の言葉で梨里が部屋を片付けて外へ出ると朱明が昼食を運んできた。今回もとてもいい匂いがして食欲をそそる。
「紅真様はご昼食はどちらで召し上がられますか? こちらでお召し上がりになるのでしたら今すぐご用意致しますが」
「俺は兄上に声を掛けて、そのままそちらで食べてくる。放っておくと昼食を抜きかねないからな」
「かしこまりました」
てっきり紅真もここで食べていくかと思えば違った。私とジュリアと梨里、こんなに可愛い女の子三人との空間よりも兄を選ぶのか。……まぁ私もどれ程素敵な男性がちやほやしてくれたって比べるまでも無くジュリアを選ぶけど。
「紅真さま、またね」
ジュリアの見送りで紅真と朱明が部屋を後にする。すると給仕を一人任された梨里が深々と溜息をついた。
「はぁぁ……緊張したぁ」
胸を抑えて安堵する様子は微笑ましい。王族の前で粗相をしないようにと相当気を張っていたのだろう、途中で名前を聞かれた時なんてこっちがハラハラしたくらいだ。
「噂に聞いていたよりも、ずっとずっと格好良かったぁ!」
「そっちなの!?」
予想外の方向に思わず突っ込んだ。そうしたら彼女は信じられないといった表情で愕然としている。
「相理様は何とも思わないんですか!? 端正で整った顔立ち、優雅な立居振舞、知識の造詣の深さ、聞いた話では武術も相当の腕前だとか。おまけに王族だなんて非の打ち所がありませんよっ!」
「うん、紅真さまかっこいい」
力を込めて語る梨里にジュリアまで同意している。ここまで持ち上げられる程だったか、紅真の顔を思い出すと確かに美形といっていい範疇だ。短めの黒髪に見え隠れする紅玉のような瞳は常に対象に鋭く向けられ、時折僅かに微笑む時だけ目付きも柔らかくなる。
性格も真面目だし少し口が悪いけどまぁこちらも言い返すからお互いさまだし。
考えてみればみる程女性が憧れる要素ばかりなのだけど、強烈な兄好きのせいでその全てが台無しになっている。
それを知らない梨里からしたら浮かれてしまうのもまぁ、分かる。だけどいつまでもうっとりしていないで食べさせてほしいのだけど……ジュリアが可哀想なので結局自分で取り分けて食べさせてあげた。
今日は小麦粉で作った小さな生地の上に具材を選んで乗せて包んで食べるというものだった。甘辛い味付けの肉や生野菜、チーズなどどれを食べてもおいしくて二回もおかわりしてしまった。
「ふあぁ」
食事を終えて大きく伸びをする。やっぱり私は勉強は苦手だ。淑女としては有り得ない動作だけど今は他人に会う訳じゃなしどうでもいい。午後の勉強会の再開まではのんびり妹と共に過ごす満足な時間だった。
「梨里のおうちってどんなところ?」
昼食後お茶を淹れる梨里へジュリアが尋ねた。これから身近でお世話になる彼女とも仲良くなりたいらしい。ただ、作業している途中に話しかけるのはよくないということまで気が回らなかったのが子供の浅はかさだ。ポットから注ぐお茶が縁から外れてこぼれてしまった。
「ひえっ! すいませぇん……」
「大丈夫だから。ジュリアが急に話しかけてごめんなさい」
「いえ……私が未熟者ですから。お勤めを始めてから全然上手くいかなくて」
確かに事前に経験が浅いとは聞いていたけど想像以上だった。元々宮殿に仕えていたにしてもこれでよく辞めさせられなかったなと不思議なくらいだ。
「梨里は女官になってからどのくらいなの?」
「三ヶ月程です」
「本当に仕事始めたばかりだったんだ」
それならここまで失敗続きも納得がいく。それでも辞めないのは彼女なりに頑張っているからだろう。
「私は山奥の、すっごく田舎の村で生まれたんです。外との交流は半年に一度の行商くらいで宮殿のお話なんて何年も経ってから届くくらいの」
「そんなに遠いところなんだぁ」
ジュリアが感心したように言うと梨里は力なく頷く。彼女の語る故郷の様子は、昔領地で避暑の為に過ごした小さな村を思い起こさせて懐かしくなった。
「本当に何もない村に飽き飽きして、たまたま村に来てた行商さんから宮殿に新しい王様が立った話を聞いたんです。それがとても素敵な王様だとか、まだ独身とか聞いていてもたってもいられなくて」
それで、村を飛び出して宮殿の女官に志願したのだという。
「その時はたまたま女官に大量に暇を出したせいで人手不足だったみたいなんです。それですぐ採用されて王宮の隅で働いていたら……何と女官長直々にお役目を頂いたんですよ!」
「それが後宮で、私達の専任になるって話ね」
「はい。最初は仕事振りや交友関係なんかを尋ねられて、もしかしたらクビを切られるかもと思っていたらある特別なお客様の専任にならないかと誘われて、本当に驚きました! 大出世ですよ!」
彼女曰く、ただ宮殿で働くだけでは先が見えていると。働きながら宮殿を出入りする有力者に見初められて嫁入りをしたり、専任になって出世するのが女官達の目標だとか。
「田舎から出てきて本当によかったぁ……相理様、樹理様、できればこれからも末永くよろしくお願いします!」
丁寧に頭を下げる梨里は感謝の気持ちで溢れている。だからこそ言えない、いずれ私達はここを出ていくだろうということを。微妙に笑顔で頷いてすっかり冷めたお茶を飲んだ。
…………
時間になり、再び紅真がやってきた。午前と比べて調子が良さそうに見える理由は推して知るべきか。教師役の彼の機嫌が良いのならそれに越したことはない。こんなに仲の良い兄弟何て見たことがないから二人の時にはどんな過ごし方をしているのか気になるが答えてくれなさそうだ。
特に問題もなく勉強会午後の部が始まった。
国の成り立ちの他にはこの国での一般的な作法について。例えば初対面の上位の者の前では相手から声を掛けられ許しを得るまでは目も合わせてはいけないとか。相手の地位や気性によってはその場で打ち首もあるとか……恐ろしい。そうなると既にやらかした前科を持つ私はどうなるのかと聞けば、国王である八帰が咎めなかったから何も言えないらしい。
そんな常識や文化の違いに戸惑いながら一つ一つ学んでいると再び朱明が現れた。
「失礼致します。紅真様、八帰様からお声掛かりがありましたがよろしいでしょうか」
そういえば午後からは茶会があるとも言っていた。この時間になったのも八帰の方がやっと手が空いたからだろうか。一応この勉強会を仕切るのは紅真だからどうするのかと様子を伺えば、朱明が現れた瞬間からいそいそと片づけを始めている。どうするつもりか聞くまでもなかった。
「すぐに向かうと伝えてくれ」
「本日は中庭で開催するとのことです。梨里、あなたも一緒に来るのですよ」
「はいっ!」
分かりやすく気合の入った返答をする梨里は微笑ましく思えてきた。朱明の後を追って立ち去る姿を見送りやれやれと視線を戻すと浮足立っていたのは梨里と紅真だけではなかった。
「上手に書けたの、八帰さまに見てもらうの」
ジュリアが、練習した中で最も出来がいいと思われるものの選出作業に入っている。ご褒美がもらえるんだと言っていたからその為なのだろうけど……・どうもそれだけとは思えないのは気のせいだろうか。