第六話 皆が持つ物それは様々
「おーねーえーさーまー! おーきーてー!」
「ひぇっ!!」
突如耳元で叫ばれたのは愛しい愛しい……今だけ少し恨めしい妹の声。窓からは日差しが室内に入り込みもうすっかり日が高くなっている。私より二日早く目覚めたとはいえジュリアが元気すぎて困る。
今も私が起きないと寂しいからこうやって起こしてくれたのだろう。妹の愛は時に厳しい。
「おはようございます。お目覚めの支度をお手伝い致します」
続いて聞こえてきたのはシュメイの声だ。今日も隙の無い立居振舞いである。だが今日はそれだけでは終わらなかった。
「おはようございまっす!!」
ジュリアと同程度の高音と音量の主は、初めて見る女の子だった。恐らく私と同年代の彼女はシュメイと似た女官の衣装を身に着けている。彼女もやはり黒髪で、前に聞いた「国民全員皆黒髪」というのはどうやら本当らしいと察せられた。
「……もう少し声を抑えなさい。失礼致しました、彼女は新しく後宮専任となった女官でこれからはお二人の身の回りのお世話を担当する者です」
「梨里です! よろしくお願いします!」
「あ、はい……よろしく……」
「……まだ女官として経験が浅い為ご不便をおかけするかもしれませんがご容赦下さい。」
シュメイが申し訳なさそうに頭を下げる。昨日の今日で人材を用意するのは厳しいものがあるのだろうか。まだ初々しい彼女、リリはシュメイと共に洗顔から着付けまでこなしていくがどうも手付きが恐る恐るといった感じで危なっかしい。
支度が整うと食事のワゴンが室内へ運ばれてきた。大きめの壺にはスープが、小さな器には各種料理が少量ずつ盛られている。
「リリ、わたしそのスープがほしいです」
「こちらですね……ああっ!」
「失礼致しました。こちらをどうぞ」
リリがやらかしかけるのを寸前ですかさず手助けするシュメイがすごい。今のは器が積まれた山から一つを取ると連鎖して崩れそうになり、それをシュメイが倒れないよう支えていた。シュメイには予知の奇跡でもあるのかと聞きたくなる。
ある意味で緊張感のある食事を終えると今日の予定が伝えられた。
「この後は紅真様を教師としてお招きし昼食まで勉強会。午後も引き続き勉強の時間としておりますが八帰様から茶会に招かれる事を考慮して時間を短くしております」
「コウマが教師? どうして……」
「ええっ! 紅真殿下がいらっしゃるんですかっ! それに国王陛下とのお茶会も!? すごい! 後宮に来て良かった!!」
コウマが教師と聞いて驚いた。昨夜会った時にはそんな話は全然していなかったし。
でもそれ以上に驚いたのはリリの大声だ。先程までは慣れない給仕をしようとしては失敗し注意されてしょげていたのが、今は目を輝かせ異様な興奮で鼻息が荒い。その変わりように内心引いてしまう。
「リリは紅真さまと八帰さまに会ったことがないの?」
ジュリアは臆することなくそんな状態のリリに話し掛けているのは子供ゆえの怖いもの知らずか。
うっとりと浸っている当人は話し掛けられたことで再び興奮したのかジュリア相手に力説しはじめた。
「だって今までは遠くでお見掛けするだけだったんですよ! 王家が途絶える寸前に現れた絶世の美形兄弟! 故郷の村で聞いてからずっと憧れていたのに側に侍る事を許されるのは限られた者だけだというんですから! そんな高貴な方とお会いできるなんて……妻にと見初められたらどうしよう」
最後の方はほとんど独り言だ。夢を見るのはいいけどそろそろ現実に戻って来るべきじゃないだろうか。怖くてシュメイの顔が見れない。
「梨里! 静かにしなさいはしたない」
ぴしゃりと叱責が飛ぶがあまり効いているように見えない。今度はシュメイ相手に語り出す。
「ええー? だって高貴な方が女官を見初めて側室にするなんて昔から聞きますよ。私が選ばれないとも限りませんよね? 前の王様の時もそういうことなかったんですか?」
「黙りなさい!」
特大の雷が落ちた。梨里だけじゃなくその場にいただけの私達にも被弾する程の強烈なのが。
あくまで上司として冷静にたしなめていたシュメイも思わず怒鳴ってしまう程だったらしい。ジュリアは涙目になって固まっているし私も口を挟む余地が無い。一番効いたのはリリ本人だ。かたかた震えているのは降格を恐れての事じゃないだろう、多分。
「……失礼致しました。梨里、確かに過去にはそのような事例は存在していましたが己の職分を果たさず色仕掛けを仕掛けるような者はとても陛下のお側には置けません。立派に務めを果たす姿こそ人の目に留まるものと心得なさい」
「は、はいぃっ! すみませんでした!!」
彼女は後宮付きの任を解かれなくて済んだようだ。よかった、もしこれで解任されていたら私のせいなのかと後ろめたくなるところだった。それでもそそっかしいのは変わらず片付ける間もしょっちゅうシュメイに注意されていた。
……あ、何でコウマが教師なのか聞くの忘れた。まぁいいか、本人に直接聞いてみよう。
ワゴンを片付ける女官二人を見送ってぼんやりとそんな事を考えていた。
…………
「こ、紅真殿下がお越しになられました!」
若干上擦った梨里の声で来訪が知らされたが本当に彼が教師役だった。手には何冊もの本や巻物を抱えて現れたから。彼は私を見て何を言うでもなく黙って席に着く。
「すぐに始めるぞ。用意はいいな」
「はい。紅真さまおねがいします」
ジュリアが返事したのを開始の合図として勉強会が始まった。
私より早く目覚めたジュリアは昨日のおさらいらしい。紙の上に絵筆のような道具で奇妙な文字を書いている。私はそれを横目で見ながら歴史書……というより絵本に目を通す。言葉も文字も大陸共通言語が使われているのはありがたかった。
歴史書は国の成り立ちの説明から始まっている。二千年程前、竜を神として信仰する一団が各地に存在し女達はこぞって竜に身を捧げた。やがて女達は竜の子を身籠るがそれは大多数の人間から迫害されてしまうものであった。それを嘆いた竜は己の信徒を保護し、人の住めない荒地の守護となって国を造らせた。その中で生まれた子の一人を気に入り、竜の力の一部を分け与えそれが今も続く王家の始祖であると、そう締め括られている。
……本当におとぎ話のようだ。これが子供向けかというとそうではなく小難しい文体の本ですらそうなのだから驚きだ。私がちょうど読み終えたのと時を同じくしてジュリアの声が上がる。
「できました!」
「どれ、見せてみろ」
差し出された紙を受け取って検分するようにじっくり眺めている。目を通してジュリアに返すと柔らかい雰囲気を纏い微笑んだ。
「よく書けているな。覚えが早い」
「えへへ……」
褒められて照れているジュリアはとても可愛いのだけど悲しいことに私にはそれが紙をインクで塗りつぶしたようにしか見えない。そんな私の視線を察して彼が解説を入れてくれた。
彼が別の紙に書きだした文字はすっきりしていて『樹理』という形が理解できた。
「これは竜文字を使って表わしたこいつの呼び名だ」
竜文字? まずそこからして分からないので更なる説明が追加される。
「この国の一般的な文章は共通語が使われているが、これは名付けに使う文字だ」
竜文字というのはその一語だけで複数の意味と読み方を持ち、組み合わせ次第で何万通りにもなるのだという。名付けの時にはまず音を決め、その後親や目上の者が様々な願いを込めて文字を当てはめるのだそうだ。
「これで『ジュリ』と読む。元の名を聞いて兄上が決めた名だ」
成程、確かにジュリアから樹理なら違和感がない。
「これにはどんな意味が?」
「大樹の様に育てという願いと、理を知る者であってほしい。そう言っていた」
おかしな意味でなくて安心した。まだ勉強を始めたばかりの私には嘘を吐かれていても分からないけど彼はそういう人物ではないと思われたのでその心配は無かった。
「八帰さまが、みんなの名前をきちんと書けるようになったらごほうびくれるって言ってました!」
期待の籠った目でコウマを見上げているが緩やかに首を振ってその訴えを退ける。
「まだ自分の名前だけだからな。後は兄上と俺と朱明と……そこの女官、お前の名は?」
「はっ! わ、わた、わたくしのことでございますでしょうかっ!」
「……女官はここに一人しかいないだろ」
部屋の隅で静かに控えていたリリが急に声を掛けられ、上擦った声でどもりながら返答している。……無理もない。あれだけはしゃいでいたのだ、まさか本当に声を掛けられるなんて思ってもいなかったのだろう。
「これに書いてみろ」
紙と筆を受け取って震えながら丁寧に書いているのが窺える。時間を掛けて書きあがったものには『梨里』とあった。
「これにはどんな意味があるんだ?」
「わ、わたくしは山奥の村で生まれまして! そこでは梨を作る家が多かったので梨の里から梨里と付けられました!」
「成程、もういいぞ」
「はい。ありがとうごじゃいまふっ」
最後噛んでる。会話は終わったのに梨里はまだ夢心地だ。直接声を掛けられて名前を覚えられたことがそんなに嬉しかったのだろう。しかし梨の里で梨里って……そんな単純な決め方でいいのね。
続けて彼は別の紙に二つ、名を書きだす。
「これが兄上、こっちは俺だ」
「へぇ。意味は? あるんでしょう?」
ヤツキは『八帰』、コウマは『紅真』とここでやっと彼らの正式な名を知った。ジュリアはもう知っているのか彼の手本を見比べて再び書き始める。この流れなら当然意味もあるはずで、私は当たり前のように彼に尋ねた。それがいけなかった。
「聞くな」
ただ一言、素っ気ないを通り越して無感情で言われてしまえば引き下がるしかない。目の前で初対面の相手に意味を尋ねる前例を見せられて私はそれがいけないことだと欠片も思わなかった。だがそれが彼の逆鱗だったのだろう、微妙に気まずい思いをする。
「ねぇ、お姉さまは何て書くの?」
それを一気に塗り替えたのがジュリアだ。黙り込んだ私達の間に割って入り問いかける。
「え? 私は……」
そんなものはないから何と答えたらいいのだろう。ちらりと紅真を見るとまた紙に何かを書いている。すぐに書き終えてそれを私達の目の前に差し出した。
相理
そう書かれていた。二文字目はジュリアと同じ字だから分かる、一文字目は何だろうと問う前に彼が口を開く。
「相理、これからこう名乗ればいい」
それは彼が私に名付けたと、そういうことでいいのか。アイリーンだからアイリと。単純だ。
あまり複雑ではなく覚えやすい文字だが肝心なのは意味の方だ。それを聞くと若干得意げな顔をした。
「互いに、という意味を持つ字だ。妹と揃いで止めてやったがどうだ?」
にやりと意味深に笑うが何か含むところがあるのだろうか。互い……お互いさま……昨日の!
私が彼の兄弟愛の深さをからかったのをやり返したのか。言及していなくてもそうとしか思えない。嫌ではないがしてやったりという彼の表情は少しイラッとした。
「お姉さま良かったですね! おそろいです!」
……ジュリアが喜んでいるからいいか。響きも特に違和感がないし。
「決めてくれてありがとう。じゃあこれからは私のことをそう呼んでくれるの?」
アイリーン、という本名を名乗る前はともかく名乗ってからもお前とかそればかりだったのは呼び慣れない名前だったからだろう。それなら今は遠慮なく呼べるはずだ、からかいを込めて聞いてみた。