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夕日が差し込む部屋は、午後の穏やかな時間を感じるような静けさに満ちていた。その静寂を破るように、廊下の先でドアの蝶番が軋む音がする。誰もいない家の中に入ってきたのは、特徴的な白い髪を横に一つに結んだ一人の女性だった。
「ただいま!鎮痛剤が売り切れてて、隣の街まで買いに行っちゃった!遅くなってごめん、ってあれ?」
その女性は驚いたように目を見開くと、ものすごいスピードで奥の部屋へと駆ける。
壊れる寸前の力とスピードでドアを開けると……
火の消えた暖炉と、綺麗に整頓されたシーツ、机の上に、「行ってきます」と書かれた置き手紙。
「ユリウスぅぅぅぅぅぅぅぅぅ!」
夕方の静寂は、女性の叫び声によってかき消された。
・・・
その頃二人は、裏町の細い路地を歩いていた。
「出てきたはいいけど、ユリウスはどうやってあいつを見つけるつもり?」
アリアはユリウスの2、3歩先を歩きながら質問する。ユリウスはそんなアリアの後をゆっくり歩きながら顔を上にあげて考えるような仕草をした。
「そうだな、俺の予想になってしまうんだけど、あいつはこの辺りに根をはっている暗殺集団、『レセルフィア』の頭領だと思うんだ」
「暗殺集団の?」
それはいい駒だと思いつつ、先日の件があったから、そう簡単に仕事を引き受けてはもらえないだろうなとも思った。仕方なかったとはいえ、惜しいことをしたものだ。
「そう。だからお前の目的に合っていると思ったんだが」
ユリウスもアリアの今後を考えて提案してくれていたらしい。ほんと見ず知らずの人によくここまで親切にできるよな、とアリアは呆れた気持ちを抱きつつ、それでも少しは感謝しておくことにした。
「そうだね、でもそいつらのアジトの場所はわかるの?」
「ああ、何だかんだ言って有名だからな。あそこの構成員とは何度か荒事になってるし」
「きみ、結構やばい人だね……」
平然ととんでもないことを言ってのけるユリウスに、アリアは若干引き気味で答える。薄々気づいていたが、ユリウスはどうやら裏の世界の住人だったようだ。平穏な日々を送りたいのであればなるべく避けて通るべきタイプの人種だが、今のアリアにとっては頼もしい限りである。
「そこで作戦なんだが、アリアはどの程度まで魔術を使えるんだ?」
どの程度、と言われてアリアは反応に困る。実際アリアはそれなりに由緒正しき武家の生まれなので、一般の人々とは比べものにならないほどの魔力と魔術の素養を持っている。しかし、生まれてこのかたまともな魔術の使い方を教えられてこなかったアリアは、自分で魔術式を組み立てることができない。今アリアが使える魔術は、足の靴とナイフに埋め込まれた魔術石に刻まれた魔術式の分だけで、それがあの男に通用しないのは、先日の戦闘で確認済みだ。
「ごめん、今使えって言われてできるのは跳躍を助ける補助魔術と、相手を気絶させる程度の威力の雷魔術ぐらいかも。どちらも威力はいまいちだよ」
アリアは成功確率を少しでも高めるために情報を隠さず伝えた。しかし、ユリウスは全く見当違いの答えを聞いたかのような表情で眼を瞬かせる。
もしかして返答を間違えてしまったのだろうか。アリアはそんなことを思った。人生の半分以上を人と隔離された塔の上で過ごしてきたアリアにとって、一般常識というものは家庭教師であったブラフィルドに教えてもらったものだけである。もちろん限られた時間の中で学べる量は限られてくるので、世間の人々と同じだけの常識はアリアには備わっていなかった。
質問の意味を確認し直そう。そう思ってアリアは口を開いたが、言葉を発する前にユリウスが、「ああ」と何かに納得したかのように頷いたので、そのまま口を閉じた。
「ごめん。普通魔術が使えるか、って聞かれたら魔術式の組み立てから発動までの一連のことを言うよな」
「え?違うっていうの? 」
「ああ、発動に限って言えばどこまでできるかって意味だったんだ」
アリアはその質問の意図を理解することができなかった。魔術は魔術式があって初めて使うことができる。だからアリアのように高度の魔術を扱える素質があっても、それを生かせるだけの魔術式の知識がなければ無意味になってしまうのだ。だから「発動に限った」という問いは、全く意味をなさないはずなのだが……
「発動に限って、なら……第一位高位魔術ぐらいまでかなぁ」
それを聞いて、ユリウスが目を丸くする。アリアはユリウスが思ったより驚いていることを内心不思議に思いつつ、勘違いを正すために素早く補足する。
「あ、もちろん発動に限ってだからね!普通に使えって言われても絶対無理だから」
「いや、いいんだ。それだけできれば」
しかし、ユリウスの返答はアリアの予想と反して了承であった。
「いいってどういうこと?全然問題は解決してないと思うけど?」
「いいや、解決しているよ」
言葉の意味が分からず難しい顔をするアリアに、一方のユリウスは変わらぬ表情で衝撃的な言葉を放った。
「魔術式は俺が準備する。その式をお前に発動してほしい」