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目を開けると、そこは知らない建物の中だった。窓から差し込む日差しが、レースのカーテンに遮られて優しく顔を照らす。
アリアは、ゆっくり体を起こす。右を見ると、そこには1人の人間が座っていた。深藍の髪が、長く前に垂れている。どうやらこの人は寝ているようだ。アリアがベットから出ようとすると、その人はゆっくり顔を上げた。
「ん、起きたのか」
その人はそう口にする。髪と同じ色の瞳が印象的だ。やっぱりさっきの男の人だ。そう思ったアリアは、ふと自分の時間感覚に違和感を覚えた。先程から差し込む窓からの光は赤と言うよりは黄色であり、爽やかな朝を連想する。
「ごめん、今日って何日? 」
アリアは念のため聞いてみた。男の人は不思議そうな顔をすると、何かに思い当たったのか、ああ、と口にする。
「今日は土精期の4月17日だ。お前が寝ている間に1日経ってるぞ」
アリアはそれを聞いてやっぱりと思った。これでは自分が塔を抜け出したことをあいつらに気づかれてしまっているだろう。どうやら大幅な作戦変更を余儀なくされそうだ。ブラフィルドの怒った顔が眼に浮かぶ。
「お前の傷は俺の知り合いに頼んで治してもらったから大丈夫だと思うけど、体力はまだ完全には回復してないと思うから安静にしていた方がいい。とりあえずお茶入れるから待ってろ」
そう言ってその人は部屋を出て行った。アリアは自分の体を見てみる。肩にあったはずの切り傷は綺麗さっぱり消えていた。治療したというのは本当なのだろう。
しばらくして、その人は部屋に入ってきた。ハーブティーのいい香りが、湯気に乗ってやってくる。その人は、ベットのとなりに置いてある小さな台の上にティーポットとカップを置くと、一杯ついでアリアに渡した。
「どうしてあんなところにいたんだ」
アリアが紅茶を飲み終えた頃を見計らって、その人はそう尋ねた。
「どうしてって、たまたま通りかかっただけだよ。危険なところとは知らなかったし。きみこそ、どうしてあそこに行ったの?」
「それは…… 」
その人は困ったように顎に手を当てて下を向く。
「とにかく、お前はあのままじゃ死んでたんだからな。たまたま回復魔術を使える奴がいたから良かったけど、いつもこんな幸運が起きるとは限らない。もうあんなところに行くんじゃないぞ」
その人は顔をあげてそう言う。その時、遠くで来客を告げるベルが鳴った。
「ん、あいつがきたかな。すまない、ちょっと行ってくる」
その人はそう言って部屋から出て行った。
あ、名前聞いてなかった……
今更ながらに、そんなことに気づいた。
「アリアちゃん、大丈夫だった?怪我痛まない? 」
そんな風に聞いてきたのは、昨日会ったエーヴィだった。
「エーヴィ!?どうしてここに? 」
アリアは驚きで目を丸くした。昨日の時点で一生会わないであろうと思っていた少女が目の前にいるという事実に、寝起きの頭がついていかない。
「驚きたいのはこっちよ!お店に帰ってきたらなんかものすごい力が裏町の方から感じられて
、何事かと思って来て見たらユリウスが変な男と戦ってて、倒れている女の子がいるから助けて欲しいって言うし、その女の子はちょっと前まで一緒にいたアリアちゃんだったし。私、パニックでおかしくなりそうだったんだからねっ! 」
エーヴィはまくしたてるように早口でそう言った。
「ごめん、ちょっと興味があって 」
こんなに心配してくれるとは思っていなかったアリアは、少し申し訳なくなってしまう。萎れた声で謝ると、エーヴィは微笑んで、もうやっちゃだめだよ、と言った。
「そういえば、その人、ユリウスっていうの? 」
「え? うん、そうだよ。ユリウス・クロンヴィーラン。すぐ近くの鍛冶屋で働いてるの。一応武術とかも少し心得があるみたいで、裏町の喧嘩なら負けなしなんだけど……」
そういうことか。自分が勝てなかった相手からどうやって逃げ帰ったと思っていたが、武術ができるのか。しかし、多少の心得であの男を倒す、ないし逃げ帰ることなどできるのだろうか。
「そんなことない。現に、俺はあいつに勝てなかったじゃないか。買い被りにも程があるぞ」
そこでさっきから黙っていた彼、ユリウスが口を開いた。口元には、呆れたような表情が浮かんでいた。
「買い被りなんかじゃないわ!あの時、私を守るために街の悪党たちを10人まとめて倒したの、今でも覚えてるんだから」
「あれはたまたま運が良かっただけだよ。あいつら、女や子供ばかり狙ってるって感じだったし、本気であの路地裏を仕事場にしてる奴らには、一対一だって勝てやしない」
そう言ってユリウスは肩をすくめる。アリアはその様子を不思議な気分で眺めていた。なんて騒がしくて楽しそうな二人なんだろう……
「とりあえず、俺はコップを片付けてくる」
このままエーヴィと話していても埒があかないと考えたのか、ユリウスはティーカップを乗せたお盆を持ち上げて部屋を出ていこうとする。
「くッ……!」
陶器が割れる音が部屋に響き渡った。ユリウスは腕を抑え込み、床に膝をつく。
「ユリウスっ! 」
エーヴィが悲鳴にも似た声を上げて駆け寄って、ユリウスの服の袖をまくる。腕に巻かれた包帯には、紅い血が滲んでいた。
「ごめんね、わたしにもっと魔力があればっ」
「気にするな。アリアのあの傷を治せただけでも、エーヴィの治癒魔術は相当高度だよ。俺は幸い致命傷じゃなかったし、暇な時にちょいと直してくれれば大丈夫だから」
そう言ってユリウスは立ち上がる。ユリウスの額には汗が浮かんでいた。
「ユリウス……」
エーヴィの心配そうな表情にユリウスは笑顔で答えて、部屋を後にした。
「ユリウスはね、いつもああなの」
エーヴィはアリアの隣に腰をかけて、そう口にした。
「誰かが困っているとすぐ助けに行って。危険かどうかなんて考えないで突っ込んでいくの」
「それはいいことだと思うけど?」
アリアはそうエーヴィに返す。誰もが生きるのに精一杯なこの世界で、誰かのために尽くせる人は稀だ。ましてや赤の他人まで助けてしまうなど、どんな聖人君子だとアリアは思う。しかし、エーヴィはそれを聞いて悲しそうに微笑んだ。
「ユリウスはね、自分を許せないんだよ。ほんとは死にたいほど後悔してるのに、周りの人に生きろと言われて。それで、せめてもの罪滅ぼしにって、周りのためだけにその命を使ってるんだ……」
一呼吸置いて、エーヴィは窓の外を見る。
「もう幸せになってもいいのに……」
それは独り言のようで、アリアは相槌を打つのうつのをやめた。
「ごめん、大丈夫だったか?」
しばらくしてユリウスが部屋に戻ってきた。額に滲んでいた汗も少し引いていて、エーヴィはほっとした表情で近寄る。
「ユリウス、怪我はもう大丈夫なの?」
「あ、ああ。さっき片手でティーセットを持ったのがよくなかったみたいだ」
エーヴィはそれを聞いて怒ったように頬を膨らませた。
「もう、そうやって自分を大事にしてないと周りが気を使わなきゃいけなくなるんだからね!」
「うおっ!ごめん!」
あまりの剣幕にユリウスがたじろぐ。それを見たエーヴィは吹き出して、ユリウスのおでこを指で弾いた。
「もう、しょうがないんだから。鎮痛剤買ってきてあげる」
そう言ってエーヴィは部屋を出る。
「あ、ちゃんと大人しくしてるんだよ!」
エーヴィは一度バックしてそう釘をさすと、今度こそ出て行った。