5
その日は、いつもと違っていた。
廊下の静寂はいつも通りだけど、そこにいるはずの人々は存在せず、遠くから、何かがぶつかり合う音が、鼻をつく匂いとともにやって来る。
世界は、赤に染まっていた。
そんな中、わたしと1人の人間が窓の外を見つめていた。わたしの目の前に立つ人は、こんな時でも闇のような深藍の髪を手でかき回しながら困ったように笑っていた。
「まいったなぁ。これ、どうしようか……」
その人はおちゃらけたようにそう言っていたけど、目は普段と違って険しかった。
「おにいさま、何か起こっているのですか?」
そうだ。この人はわたしのお兄様だった。名前も忘れたしまったけど、それだけまだ覚えている。
「うん、そうだね。ちょっと僕じゃどうにもできないことが起きてるみたいだ」
お兄様はそう答えるとわたしの方を向く。
「いい、これから兄さんが言うことをよく聞くんだよ」
お兄様の真剣な表情に驚いたわたしは、一文一句聞き逃さないように必死に耳を傾ける。
「兄さんはこれから父上と母上のところに行ってくる。」
「はい、お気をつけて」
間髪入れずにわたしはそう返事をする。すると、なぜかお兄様は本当に困ったような顔をしながらわたしの頭を撫でた。
「もう、泣きそうな顔しないの。別にもう二度と会えないってわけじゃないんだから」
「おにいさま、わたしは泣いたりなんてしてません」
そう言いながら、わたしは頰をなにかが伝っていくことに気がついていた。生まれたとき以外一切流したことのない涙がこの時になって出てくるなんて……
わたしは自分が悲しいんだということに気づいた。
「やめてくれよ。僕までもらい泣きしちゃうじゃないか」
お兄様もそう言って涙を流す。本当にお兄様は涙もろい。そういうわたしも、涙を止めることはできなかった。
「ん……」
突然お兄様がわたしを抱きしめる。あまりに強く力を込めるのでかなり苦しかったけど、離してほしいとは思わなかった。いや、本当は、ずっと抱きしめていてほしかった。
「じゃあ、僕はもう行くよ」
しばらく立って、お兄様はゆっくりとわたしを離す。寂しさに耐えられなくなったわたしは、俯いて黙り込む。それを見たお兄様は、わたしの頭を強く撫でた。
「ごめんね、君を一人にして……本当にごめん……」
お兄様はそう言って何かに耐えるような顔をする。そして、決意を固めたのか涙を拭って笑顔を作った。
「きっと君はこれから数えきれない困難に出会うだろう。時には周りが君を追い詰め、君が笑えなくなるときもあるかもしれない。でも……」
一呼吸置いて、お兄様はわたしの顔を覗き込んだ。
「笑ってもいいんだよ。君は1人の人間なんだから」
「……はい、ありがとうございます」
わたしにはお兄様の言っている意味がわからなかった。わたしはある使命のために生まれ、その達成のために生きてきた。わたしにとってその使命に勝るものはなく、命を賭して使命を達成することはわたしの義務であり、存在理由そのものだ。それでも、お兄様はわたしに「笑え」と言う。それは時にわたしの使命に反すこともあるかもしれない。使命に反すということは、許されざること。それは知っている。でも、わたしはお兄様の願いを叶えたいと思ってしまった。唯一の大好きな人。お兄様が命を賭して守ってくれたこの命は、もうわたしだけのものではない。だからお兄様が望むのであれば、わたしは全力で笑おうと思った。無邪気に、大胆に!これはわたしがわたしとして得た、たった一つの罪な望みだった。
「それじゃ、お兄様。いってらっしゃい! 」
わたし、いや「ぼく」は溢れそうな涙をこらえながら、笑った顔で言った。
罪を背負ってでも、お兄様の願いを叶えようと決意を固めながら。