第53話「霧の中に見るもの」(2)【挿絵あり】
忘れられないヘレンの姿。父ヨハンが悪魔の研究に没頭する様子を、ヘレンはいつも心配そうに遠くから眺めていた。ベルにはいつも優しい笑顔を見せてくれた彼女だったが、影では暗い顔をしていた。
子どもながら、ベルはそれを見逃さなかった。ヘレンはヨハンをずっと心配していた。年を重ねるごとに研究に費やす時間が増えて行ったヨハンは、反比例してヘレンと話す時間が少なくなって行った。
それどころか、顔すら合わせないようにまでなっていた。冷徹な研究者は、我が子にさえ構わなくなっていった。
毎日、本を読みふけって研究にのめり込むヨハンの姿は、ベルも見ていた。その時のヨハンの顔は、まるで悪魔のようにも見えた。
ヘレンと出会った頃は、ヨハンはきっと今とは違う人間だったのだろう。まともに会話もせず、ただひたすらに研究を続ける男など誰が好きになろうか。その昔ヨハンは、ヘレンが惹かれるほどの魅力を持っていたはず。
だが、何かがヨハンを変えてしまった。ベルの記憶に残るヨハンは父親ではなかった。彼の記憶に鮮明に残るのは、研究に耽る狂人の姿だった。
ベルはヘレンが家を出た日のことを決して忘れなかった。人の記憶は形を変えて移ろうもの。あれはもう13年前の出来事。すでに事実とは遠いものになっているかもしれない。
しかし、ベルの中に強烈にその光景が焼き付けられていた。研究室にこもりっぱなしのヨハンには目もくれず、ヘレンは突然家を飛び出した。
あの日家の中にいたベルを連れ出すこともなく、出て行った。彼女はたった1人で出て行った。
もしヨハンを捨てて、どこか違う場所で新しく生活するつもりだったなら、ベルを連れて行ったはずだ。
しかし、彼女は連れて行かなかった。ヘレンは最初から自殺するつもりで出て行ったのだろうか。
1人取り残されるのはかわいそうだからと、子どもと一緒に自殺する親もいる。
しかし、ヘレンはそうしなかった。彼女はそれが愚かで自分勝手な行為だと分かっていたのだろうか。自分のエゴに、我が子を巻き込みたくなかったのか。
それとも、ベルの知らない秘められた真実があるのだろうか。そこにどんな真相があろうと、ベルの中に残った大きな悲しみは、何があっても拭い去ることは出来ない。
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「おいで、ベル」
ベルが大好きな母親と憎き父親を思い出していた時、再びヘレンの声が届く。ベルは顔を上げた。ヘレンの形をしたものは、ベルが無防備な状態になっても危害を加えることなく静かに佇んでいる。
「母さん……」
ここでベルは1つの可能性を見出した。
「母さんのゴーストなのか……?」
それがベルの考えた1つの可能性。ヘレンがここに存在するはずはない。
しかし、昔アローシャに騙された時、ベルはゴーストの存在を知らなかった。今はゴーストが実在することを知っている。ヘレンのゴーストならば、ここにいても何ら不思議ではない。長い年月を経て、ベルに会いに来てくれたと言うことなのだろうか。
「フフ…………」
ヘレンは絶え間なく微笑んでいる。その笑顔がベルを動かした。
「……………」
ベルは黙ってヘレンに近づく。彼の表情は微笑んでいるようにも、歪んでいるようにも見える。ベルが心の底で何を考えているのかは分からない。
「ベル………」
ヘレンはベルの瞳をまっすぐに見つめている。その時ベルが微笑んだ。今度は誰が何と言おうと微笑んでいる。
その時、ベルの身体に細長い何かが巻きつき始めていた。その細長いものの先にあるのは、獏のような顔だった。ベルに巻きつくのは、獏のような獣の鼻だったのだ。魔獣の鼻は確実にベルに巻きついているのに、ベルは不思議なことにそれに気づいていない。
「何を言ってるの?」
目の前の母親に微笑むベルだったが、この言葉を聞いた瞬間に顔が引きつった。
そして、徐に右手をヘレンに伸ばす。
「やっぱりお前は…………母さんじゃねえ‼︎」
瞬く間にベルの右掌から、渦巻く腐炎が放出された。ベルの目には怒りが浮かんでいた。
この霧の中にレイリーがいるかもしれない。そんなことも忘れさせるほど、さっきのヘレンのひと言はベルを怒らせた。ヘレンの形をしたものが発した言葉。それはあの瞬間に全く相応しくない言葉だった。会話が成立していなかったのだ。
放たれた腐炎は一瞬にして、立ち込める霧全体に広がった。
「⁉︎」
ベルに巻き付いていた獏のような魔獣も、すぐさま腐炎に取り込まれてしまった。
やがて腐炎は霧を完全に焼き払ってしまう。この霧の中にレイリーや他の受験者がいたかどうかは定かではないが、すっかり霧は晴れた。そこに残るのは、鼻が曲がりそうなほど強烈な臭いだけ。
「合格だ」
ふとベルが視線を上げると、目の前に月衛隊の列があった。
「あ………」
それまで抱いていた怒りも霧とともに晴れたのか、ベルは冷静になってレイリーの姿を探す。
しばらく後方を凝視しても、レイリーの姿は見当たらない。それどころか、他の受験者の姿も見えなかった。絶望感に駆られて、ベルが再び前を向き直ったその時。
「どうしたの?誰か死んだみたいな顔して」
レイリーの声が聞こえて来た。彼女はすでに月衛隊の列の向こう側にいた。よく見てみれば、金髪の男も同じくゴールしていた。
「…………良かった」
ベルは胸を撫で下ろす。これほど他人の安否を心配したのは、ベルにとって初めてのことだったかもしれない。
「しかし、よくやった。最後にお前を襲ったのは、ミラージュと言う魔獣だ。身体を霧状に変化させ、相手に気づかせずに捕食する。ミラージュは人間の記憶を現実に映し出す。いわば蜃気楼のようなもの」
ベンジャミンの口から、ベルがさっき味わった不思議な体験の真相が語られる。魔獣ミラージュ。ミラージュと初めて遭遇する者は、その霧自体が魔獣だと気づかない。
「ミラージュは人間の脳髄を好む。迷い込んだ人間に、記憶の中の大切な人を見せて惑わせる。人間が霧の中に留まっている隙に、ミラージュは脳髄を吸い取る。脳髄を吸い取る時は実体が必要なため、ミラージュは鼻の長い獏のような姿を現わすのだ。霧が集まっただけで、ほとんど質量はないがな」
「げっ‼︎」
ベルの身体に虫酸が走った。あのヘレンは本物ではないと最初から分かっていたはずなのに、いざ母親の姿を見ると、惑わされてしまう。ベル自身は知る由もないが、あの時命の危険がすぐそこまで迫っていたのだ。
そんなベルの様子を、レイリーは優しく見守っていた。彼女はほとんど無表情だが、見ようによっては微笑んでいるようにも見えた。
これにて、月衛隊入隊試験が幕を下ろした。無事に試験に合格することの出来たベルとレイリー。
しかし無神論者の同志たちの作戦は、まだ始まったばかり。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
母の幻影に惑わされながらも、ビースト・ロードを突破したベル。何とか月衛隊の一員になることが出来ました。
ルナトでの物語も後半へ突入!吸血鬼の正体を明かすことは出来るのか、そして望まれぬ結婚式を阻止出来るのか⁉︎




