第45話「月の教え」(2)
「……私です」
リリだ。彼女は申し訳なさそうに、作り笑いしている。今までずっと空腹を我慢していたのだ。ゴーファー邸に侵入して以来、彼女は何も口にしていなかった。ベルは逃亡生活に慣れていて、多少の空腹は我慢出来る。なぜアレンが空腹を我慢出来ているのかは分からないが、今空腹に耐えられていないのはリリだけだった。
「皆お腹空いてないの?もうずっと何も食べてないでしょ?」
リリは至極当然の疑問を抱いた。もう24時間以上食事をしていない。普通の人間ならとても耐えられないはずだ。
「そりゃあ腹は減ってるけど、そんなこと気にしてる場合じゃないだろ」
「僕は平気だよ!」
実際はベルも空腹だったが、何度も言うように彼にとっては逃亡が最優先事項だ。
一方で、アレンはまだ幼い子ども。お腹が減ろうものなら、すぐに駄々をこねて食べ物を欲するはずなのに、嫌そうな顔は一切していない。ベルに嫌われたくない一心でお腹が減っていないフリをしているのだろうか。だが、幼い子どもが24時間も食事を我慢出来るとは、到底思えない。
「え…えへぇ〜、そう。そうなんだぁ〜……」
ベルの返事は、リリも予想していた。
ところが、アレンの返事は、彼女にとって全く予期せぬものだった。リリは動揺を隠せなかった。アレンも空腹を訴え、今から何か食べるものを探しに行く。それが、リリが思い描いたシナリオだった。
だが当てが外れた。自分よりも幼い子どもが我慢出来ると言っているのだ。こんな状況で自分のワガママを通すことは、リリには出来なかった。
「何だよ、そんなに腹減ってるのか……じゃあ、飯食うか」
「へ?」
ここで、今度はベルが、リリが予期せぬ発言をする。
「食える時に食っとかないと、いつ食事にありつけるか分からないからな。今がちょうど良いタイミングかもな」
追手から何とか逃れ、今は束の間の安らぎを得ている。それは本当に束の間かもしれないが、ベルは少しだけ普段より落ち着いていた。
「そ、そうよね!」
リリは心から笑顔になった。正直言って、すでにリリのお腹は限界を迎えていたのだ。もうお腹と背中がくっついてしまうのではないかと言うほど、彼女は空腹だった。
「やったー‼︎」
アレンも喜んでいる。結局は皆空腹だったことに、疑いの余地はなかった。
「ここ食堂とかあるのか?」
「あるけど…暗くなったらすぐお店閉めちゃうみたいだから……」
3人の中で、1番この町について知っているのはリリ。リリの言葉を証明するように、町中の明かりが消えている。
「そっか……なら、忍び込むか」
ベルは仕方ないとでも言わんばかりに、そう言った。それも、溜め息を吐くのと同じように。
「は⁉︎」
「は?」
リリには、ベルの発言が信じられなかった。リリの“は⁉︎”には、到底理解出来ないと言う意味が込められている。それに対するベルの“は?”には、リリが驚いていることを理解出来ないと言う意味が込められていた。
「何言ってんの?私たちは無実の逃亡者なのに、わざわざ本当の犯罪者になる必要がある?」
「じゃあ、何も食べなくていいのか?お前が腹減ってるせいで逃げ遅れたりするんなら、忍び込んででも何か食った方がマシだ」
ベルは至って真剣だ。これも、大事な成長期を牢獄で過ごしてきた影響なのだろうか。当たり前とされる感覚が、彼には少し欠如している。
「ほら、行くぞ」
ベルはリリの反応を見ることもなく進み始める。
「ちょっと待ちなさいよ!こ〜らぁ〜っ!」
勝手に行動するベルのシャツの裾を、リリは必死に掴む。
そして、両手を使って全力で引っ張った。断じて、間違った行動はすべきではない。
「うるせーな」
そんなリリの努力も虚しく、ベルはどんどん進んで行く。食堂を目指して進んでいるベルたちを見て、アレンも慌ててその後を追った。
「ちょ、ちょっと!本気なの?余計なことして人に見られたらどうするの!」
それでもリリは必死にベルを止めようとしているが、全力でベルを止めようとすればするほど、なおさら空腹を実感することになるのだった。それに、お腹が減りすぎて次第にその力も弱くなっているように感じられる。
「鬱陶しいな。黙ってついて来いや」
必死に止めようとするリリのことなど、ベルは一切気にしていなかった。そうしているうちに、ベルの目にはある文字が飛び込んで来る。
“Lady Barbara’s Diner(バーバラ婦人の食堂)”
「食いもん見つけたぞ」
ベルは食堂の前で足を止めた。
「うわぁっ!」
ずっと進行方向とは逆にベルを引っ張っていたリリは、そのまま後ろに尻餅をついてしまった。
「もう!」
倒れたリリはベルを睨みつけているが、ベルはそんなことなど気にせずに、食堂のドアノブを回した。
ところが案の定、扉は開かない。営業を終えた店主が鍵を閉めたのだろう。
「何やってるの⁉︎開くわけないでしょ!」
リリはまだ諦めていなかった。未だにベルの愚行を止めようとしている。まだ遅くはない。
「そっか、じゃあ裏口行くか」
ベルを止めるつもりで発せられたリリの言葉は、全く逆の効果を生んだ。リリが止めようとするよりも早く、ベルは食堂の裏口に回ってしまった。彼女は慌ててそれを追う。
「おい、なんか細長いもん持ってないか?」
やっとリリはベルに追いついた。どうやら裏口も鍵が閉まっていたようだ。
「はぁ?まさかピッキングして忍び込もうとしてるの?私は絶対そんなことに協力しません!大体そんなもので開くわけないじゃない」
「僕持ってるよ!」
黙って2人の話を聞いていたアレンは、ズボンのポケットに手を突っ込んだ。
そして、そこから取り出した針金を、ベルに差し出した。その針金は、ところどころ折り曲げられた痕跡が残っている。どうやら、アレンはこれで遊んでいたようだ。
「持ってるんかーいっ‼︎」
リリは身を乗り出して、心の声を吐き出した。まさか、都合よくアレンが針金を持っているとは、思いもしなかったのだ。
「さんきゅー」
針金を受け取ったベルは、適当にそれを引き伸ばして、鍵穴に突っ込んだ。この時、ベルは大して何も考えていなかった。
「お、開いた」
裏口の鍵はいとも簡単に開いた。ベルはただ、もらった針金を適当に引き延ばして、鍵穴に突っ込んだだけ。
アレンが遊んで折り曲がった針金。引き延ばしても直らなかったその曲げ跡が、運良く鍵穴に上手くはまったと言うことなのだろうか。
「え、えぇぇぇーっ!」
都合の良い偶然の連続に、リリは思わず声を上げる。それはとても大きい声だった。
「デカい声出すな!」
ベルは咄嗟にリリの口を塞ぐ。犯罪に手を染めているという自覚があるのだろう。コソコソしながら他人の家に侵入しようとしている。もうどこからどう見ても、彼らは犯罪者だ。
ドアノブを回し、ベルは“バーバラ婦人の食堂”に忍び込む。リリの口を塞いだまま、彼女の身体を抱えるようにして、ベルは忍び込んだ。アレンもその後を追って、忍び込んだ。
「入っちゃったじゃない‼︎もう私たち犯罪者よ!」
可能な限り感情を乗せて、リリは囁く。ここで大きな声を出すことは出来ない。
「いいじゃないか。これでお前の腹も満たされるぞ」
「もぉ〜っ!」
リリが返事をしようとした時、ベルはすでに食堂の奥へと進んでいた。もはやベルを止めることは出来ない。ベルを止めることを諦めたリリは、アレンを連れて食堂の奥へと進む。
その時、食堂のどこかの1室で、ロウソクの火が消えた。
「うふぉっ!美味そう〜!」
さっそくベルは食べ物を発見した。ベルが忍び込んだのは、食堂の台所。今日の営業は終了したようだが、余った食材や備蓄食材が大量に保管してあった。
明かりがなかったため、ベルは右掌に炎を灯していた。ベルが発見したのは、食欲をそそる、こんがりと焼き目のついたローストチキン。もう営業は終了しているはずなのに、調理済みの料理がそのまま放置されている。誰かが食べた後でもないようで、まるでついさっき作られたかのようにも見える。そこからは、焼き立ての証である、湯気まで見えてきそうだ。
台所に所狭しと置かれている他の食材は、野菜やパン、そしてハムやウィンナーなどの燻製。どこに目線を配っても、調理済みのものはローストチキンだけだった。
「あはぁ〜っ!」
リリとアレンもすぐに台所に忍び込み、視界を埋め尽くす食材に目を輝かせる。
それと同時に、リリの腹の虫がなった。大量の食べ物を目前にして、リリはもう我慢の限界だ。意図せず、リリとアレンは口からよだれを垂れ流していた。そんなことも気にならないほど、空腹なのだ。
「いっただっきま〜……」
こんがり焼けたローストチキン。見つめれば見つめるほど、よだれが湧き出て来る。ベルはそれを掴もうと、左手を伸ばした。何人も、この食堂の料理を前にして、食欲を抑えることは出来ない。
その時だった。
「アタシから盗もうなんて、いい度胸じゃないか黒魔術士」
何者かの手がベルの左手を掴んだ。驚いた拍子に、ベルは右手に灯していた炎を消してしまう。
「いっ……」
そして、ベルは恐る恐る顔を上げた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
ベルを掴んだ手は誰のものなのでしょうか?相変わらず、ベルたちはヒヤヒヤさせる行動を取ります。困ったもんです笑




