第36話「幽霊船」【挿絵あり】
絶好の釣り日和に海に出ていたジョーとレイヴンが遭遇したものとは……!?
改稿(2020/08/07)
「レイヴン。君は一体何を見たんだ?」
ジョーはレイヴンの様子が普通ではない事を察知していた。レイヴンが目の当たりにしたものが何なのか、ジョーは気になって仕方がなかった。
レイヴンの頭は真っ白になっていて、掛けられた言葉を理解するのに、しばらく時間を要した。
ジョーの言っている事を理解すると、レイヴンはゆっくりと震える右手を差し出した。その手には何も握られていない。とっくの昔に望遠鏡を手放していた事に、レイヴンはようやく気がついた。
レイヴンは、無言で幽霊船の方向を指差した。
好奇心と恐怖心を抱いて、ジョーは望遠鏡をゆっくりと右目に近づける。その手は震えていた。それは興奮というより、恐怖だろう。ようやく心を決めたジョーは、食らいつくように望遠鏡を覗き込んだ。
やはり、船上に人影は見当たらない。確かに、あんなに大きな3本マストの船に乗組員が見当たらないのは奇妙なことだ。
だが、ジョーには、それがレイヴンを恐怖に陥れた原因ではないと分かっていた。
ジョーはレイヴンと同じように、幽霊船の船上を舐めまわすように覗き込んだ。
ついに、“恐怖の原因”がジョーの右目に飛び込んで来た。操舵輪の真後ろに“それ”は存在した。どこからどう見ても、あの船の船長だ。それはこの世のものとは思えない姿をしていた。
生きているとは思えないほどに瘦せこけたその顔は、骸骨に皮膚が張り付いていると表現した方が良いほどだった。
しかも、その肌は青白く血の気が引いている。皮膚の上からでも、頭蓋骨の形が手に取るように分かるその顔は、誰であろうが恐怖を抱くはずだ。
目は今にもこぼれ落ちそうなほど、飛び出している。髪の毛は半分ほど抜け落ちていて、鎖骨まであるような長い白髪が不気味に揺らめいていた。
その怪物は、船長らしく立派な帽子を被っていた。ただ、帽子はそこら中に穴が空いていて、ボロボロだ。皮膚にはフジツボやゴカイや貝などと言った海の生物がこびりついている。それは皮膚だけではなく、衣服にも広がっていた。
レイヴンがそれを見た途端に目を離してしまったのに対し、ジョーはまるで呪われてしまったかのように、ずっとその姿を見つめていた。
ジョーは、恐怖の原因に詰まった謎めいた魅力に釘付けになっていた。それはジョーの心を掴んで離さなかった。とても危険な魅力だ。このまま魂があの船に持っていかれるのではないか、ジョーは自分でもそう思っていた。
そう思ったのはジョーだけではなかった。ようやく冷静さを取り戻したレイヴンは、あのおぞましい船長を見つめ続けているジョーの手から、強引に望遠鏡を奪い去った。
「あんなもん眺めてるんじゃねえよ‼︎」
レイヴンは、心配そうな顔でジョーを見つめていた。普段から少し変わったところのあるジョーだが、親しい友人の身を危険に晒すことは出来ない。
ジョーは不満そうな顔をして見せたが、納得して舷縁から離れた。ジョーはレイヴンと違って、必要以上に驚いたり、恐怖を身体で表す事はしなかった。
彼はどこかで、変わらぬ日常に変化を求めていたのかもしれない。普通ではありえないような経験をしてみたかったのかもしれない。
ジョーには夢がなかった。だが、それは少し前までの事。今のジョーには夢がある。不気味な船長は、ジョーに大きな変化を与えていた。
存在するはずのない存在。人知を超えた神秘。
ジョーはそれを垣間見たのだ。ジョーは、この世に秘められた謎や神秘を探求したいと強く思った。彼自身、自分にこれほどの探求心があった事に驚きを隠せない。いくら否定しようとしたところで、それは事実だった。この探求心は止められない。
もしかしたら、あの不気味な船長はジョーたちの命を奪うつもりなのかもしれない。たとえ命の危機が迫っていようと、ジョーはついさっき生まれた強い想いを嚙み締めずにはいられなかった。
今の自分には夢がある。ジョーは恐怖のどん底にいるはずなのに、喜びさえ感じている。それはとても奇妙な感情だった。
ジョーとレイヴンが幽霊船の船長の姿を目の当たりにしている間にも、2隻の船の距離は縮まっていた。今では、乗り込むための渡り板が届きそうなほどの距離まで縮まっている。
このままあの恐ろしい船長がこの漁船に乗り込んできて、乗組員を虐殺するのだろうか。
「キャプテン!信じられません!あの船は化け物が動かしています!」
トップマンが青ざめた顔で報告する。アンダーソン船長は一瞬呆気に取られて表情を失った。
「そんな事があるわけ……」
微笑を浮かべながら、アンダーソン船長は自分の望遠鏡で、迫る幽霊船の操舵輪の方を見やる。
アンダーソンの笑顔はすぐに消えた。容赦なく照り付けていた日差しにやられたトップマンの戯言だと信じたかったが、その一縷の望みさえも今消え去った。
一瞬にして、アンダーソンの頭は絶望でいっぱいになった。異形の船長がすぐそこまで迫っている。最早どうすることも出来ない。訪れる絶望を受け入れるしかない。
宝の海は今日死んだ。この海は呪われている。嵐によって生まれる荒波が、漁船を大きく揺らす。絶望の揺れだ。
アンダーソン船長の絶望する顔を見た船員たちは、より一層ざわめき出した。
望遠鏡を持っている者は、手を震わせながら異形の船長を見やる。そのうち数名が、あまりの恐怖に望遠鏡を海中に落としてしまった。
「キャプテン。命令を!」
同じように絶望で頭をいっぱいにした船員のひとりが、すがるように言った。
この言葉に、アンダーソン船長が返事をする事はなかった。これにより、漁船上には一気に不安が広まった。それは疫病のように、船員たちの心を蝕む。
今や、この船は絶望で包まれてしまった。もはや誰もが逃げるのを諦め、死を受け入れる準備を始めている。助かるのならと、船を飛び降りる者もいる。
このまま異形の船長を受け入れるしか道はないのだろうか。誰もがそう思っていたその直後。嵐によって吹いた強風が、広がった帆に大きな推進力を与える。
畳まれていたはずの帆が、目一杯張られた状態になった。帆を畳む役目を担っていた乗組員が、恐怖のあまり、帆をしっかりと固定する前に持ち場を離れていたのだ。
少しばかりではあるが、漁船と幽霊船の間の距離は広がった。
何が起こったのか全く理解していない漁船の乗組員たちは、揃って目を丸くして顔を見合わせている。やがて漁船は速度を増し、2隻は大きく離れて行った。
追おうと思えばついて来れるはずの幽霊船だったが、ある程度距離を離した時にトップマンが確認した頃には、何事もなかったかのように忽然と姿を消していた。
ただ、漁船を大きく揺らす荒波は収まる事はなかった。
「怪物を引き離した!帰港するぞ!」
アンダーソン船長の希望に満ちた声が、船上に希望の連鎖を起こす。さっきまでの絶望が嘘であったかのように、今や船上の誰もが笑顔を見せている。今にも迫ろうとしていた絶対的な恐怖は去ったのだ。
今までより漁獲量は少ないが、乗組員の命が奪われる事はなかった。生きていれば、明日はある。
喜びに包まれた漁船は、無事に港に帰って来た。
波止場に繋ぎ留められた船上から、満面の笑みを浮かべた船員たちが降りていく。異形の船長の姿を見たその時、誰もが生きた心地がしなかった。
しかし、今は自分が生きていると、強く感じる事が出来る。心臓が脈を打つのを実感する事が出来る。それはとても幸せなことだ。
大きな死の危険を味わうこと。それが“生”を1番強く感じる方法なのだろう。
誰もが生きている喜びを噛み締めながら船を降りるが、ジョーとレイヴンは違っていた。
レイヴンとジョーは水平線の彼方を見つめていた。あの時出会った嵐が、ここからでも確認出来る。それは、未だ消えずにそこにあった。
見渡す限り、水平線に黒雲が広がっていて、遠くの空に雷光が見える。2人だけは喜びを感じていなかった。まだ自分たちに迫る恐怖は消えていない。そう思っていたのだ。
湿気を多く含んだジメジメとした風が、2人の頬を撫でた。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
幽霊船が現れてから、港町リオルグは変わってしまった…… 帰港した彼らを待っていたのは!?




