第198話「最後の罠」(1)
アドフォードでは、ハウゼント兄弟にベルゼバブの脅威が迫りつつあった…
Episode 9: The Gorge/狭間
静けさに包まれたアドフォードでは、ハウゼント兄弟と悪魔ベルゼバブの熾烈な攻防が続いていた。
ついに侵蝕を最終段階まで進めたベルゼバブは、じりじりとハウゼント兄弟との距離を詰める。仕掛けられた数々の罠に苦しみながらも、暴食の悪魔は“呪いの椅子の間”へと繋がる階段に差し掛かっていた。
「悪魔の力を舐めるなよ…」
これまで幾度となく罠に掛けられて来たベルゼバブの身体には、何事もなかったかのように傷ひとつ付いていなかった。侵蝕を進めれば進めるほど、悪魔の自己再生能力も高まって行く。
ここからハウゼント兄弟に待ち受けているのは、未知の敵との戦い。侵蝕を最終段階まで進めたベルゼバブの実力は、底が知れない。事前に仕掛けておいたトラップだけで、ハウゼント兄弟は暴食の悪魔に打ち勝つ事が出来るのだろうか。
全身を無数のトゲに覆われた恐ろしい姿のベルゼバブが、下り階段に足を踏み出す。
ハウゼント兄弟やベルは、この階段に苦しめられて来た。このカラクリ屋敷は、天才レオンの手によって新たに生まれ変わった。きっと、この階段にもこれまでとは違ったトラップが仕掛けられているはずだ。
ガクン…
「…………」
ベルゼバブは確実に何かトラップを起動させた。スイッチを押した本人も当然それに気づいていて、これから起こる変化を静かに待っている。
しばらくすると、ベルゼバブが下り始めたはずの階段は、忽然と姿を消してしまった。突如として足場を失ったベルゼバブは、為す術もなくそのまま垂直に落下して行く。
ベルゼバブはどこまでも深く落ちて行った。ハウゼント兄弟がいる“呪いの椅子の間”は階段を下った先にあるが、ベルゼバブが落とされた場所は、目的の部屋があるところよりも、かなり低い位置にあった。長い年月を掛けて、レオンが地道に地下空間を作り上げたのだろう。
「最後の罠がこの程度なのか……?」
ベルゼバブは、言いようのない気味の悪さを感じていた。これまで、数え切れないほどのトラップにベルゼバブは苦しめられて来た。ベルゼバブが掛かった罠には全てエリクサーが仕込んであり、ベルゼバブの身体は何度もボロボロになった。
それなのに、今度は高い場所から落とされただけ。それは、このカラクリ屋敷の中で最も幼稚なトラップだった。レオンとジェイクは、ベルゼバブの手がすぐ届きそうな場所にいる。これが最後のトラップだとすれば、レオンはあまりにも詰めが甘すぎる。
標的はすぐ目の前にいる。気味の悪さを振り払いつつ、ベルゼバブは目の前に立ちはだかる壁を這い上がり始めた。この高い壁を登った先に、憎きハウゼント兄弟が待っている。ベルゼバブはレオンとジェイクをその手にかける瞬間を想像しながら、ゆっくりと壁を這い上がって行く。
「⁉︎………やはり、この程度のはずはなかったか」
しかしその直後、新たなトラップがベルゼバブを襲う。ベルゼバブが這い上がっていた壁が、突如としてエリクサーで真っ赤にコーティングされたのだ。
さっきまでは確かにただの石壁だったはずなのに、今では見渡す限りの壁が全て真っ赤に染まっている。その壁に触れるだけで、ベルゼバブの手足は焼けただれる。手足だけでなく、壁に触れていた腹部までもが真っ赤になっていた。
ところが、そこには大きな変化があった。今までエリクサーのトラップに引っ掛かった時、ベルゼバブの身体の傷は一向に癒えなかった。
だが今は違う。侵蝕を最終段階まで進めたベルゼバブの身体は、治癒の速さも段違いになっていた。
真っ赤になったベルゼバブの手足は、一瞬にして元の緑色に戻った。傷つけられても、瞬く間に再生する。確実にベルゼバブはダメージを負っているが、それはほとんど身体に蓄積されていなかった。
「ククク……最終段階になってしまえば、こんなオモチャどうって事ない」
最終段階は、レオンにとっても未踏の領域。さらなる進化を遂げたベルゼバブの前に、もはやレオンの罠は意味をなさない。痛みを物ともせず、ベルゼバブはどんどん紅い壁を這い上がって行く。暴食の悪魔がハウゼント兄弟の元に到達するのも、時間の問題だろう。
しばらく進むと、ベルゼバブの視界にはロウソクが飛び込んで来た。辺りを見回してみれば、ロウソクは一定間隔で設置されていて、この地下空間を照らす灯りの役割を担っている事が分かる。
それからすぐに、ベルゼバブはレオンの用意周到さを思い知る事となる。ベルゼバブがロウソクの横を通り過ぎたその瞬間、ロウソクの火が紅い壁に広がり始めたのだ。一定間隔で設置されているロウソクの炎全てが壁に広がり始め、あっという間に壁全体を覆ってしまった。
「小癪な。念には念を入れたのだろうが、そんなものでは俺は止められん!」
しかし、これはベルゼバブの想定内の出来事だった。火だるまになりながらも、ベルゼバブはスピードを落とさず壁を這い上がり続ける。ここに来て、とうとうレオンご自慢のトラップが、ベルゼバブに通用しなくなって来た。
ベルゼバブは勝利を確信しながら、着実にハウゼント兄弟の元まで登り詰めようとしていた。背筋の凍るような不気味な笑みを浮かべて、ベルゼバブはトカゲのように壁を這い上がる。
「⁉︎」
もう少しで壁を登り切ろうとしていたその時、ベルゼバブの身体は突然壁から離れ、重力に従って真っ逆さまに落下して行った。突如として壁に出現した大きな突起物が、ベルゼバブの身体を突き落としたのだ。
レオンは、ベルゼバブの思考の幾つも先を読む男。まだまだベルゼバブの行動は、レオンの想定の域を出ていないと言う事なのだろう。あと少しで壁を登り切ろうとしていたベルゼバブを嘲笑うかのように、新たなトラップはベルゼバブを1番下まで突き落とした。
「おのれ人間め‼︎必ず目に物見せてやる‼︎」
ベルゼバブが落下した先には、また新たなトラップが発動していた。さっきまでそこには地面しか無かったはずなのに、ベルゼバブがたどり着いた先はマグマ溜まりだった。
ベルゼバブの治癒速度が追いつかないほど、立て続けにトラップが発動し続ける。用意周到なレオンが、最後の最後で手を抜くはずなどなかったのだ。
レオンが生み出す黒魔術は、まさに変幻自在。悪魔と契約して同等の力を使おうとすれば、想像を絶する犠牲を余儀なくされるだろう。誰よりも優れた知能で黒魔術を再現するレオンの実力は、黒魔術の根源である悪魔にも匹敵するのかもしれない。
「あぁぁぁ‼︎もう我慢ならん!」
レオンが造ったトラップは確実にベルゼバブの動きを鈍らせ、ダメージを与えている。
だが、それと同時にベルゼバブは苛立ちを募らせていた。罠に掛かる度に、ベルゼバブはハウゼント兄弟に対する殺意を強固なものにして行く。
鬼の形相でベルゼバブが再び壁を這い上がり始めると、また新たなトラップが発動した。
今度は、背後にある壁がかなりのスピードで、ベルゼバブに迫り始めていた。いつの間にか背後の壁にも、エリクサーのコーティングが施されていた。紅い壁に押し潰されてしまえば、未踏の領域に到達したベルゼバブでも、一溜まりもないだろう。
いくら執念を燃やして突き進んでも、レオンは何度も何度もベルゼバブを追い詰める。ベルゼバブが呪いの椅子に近づこうとすればするほど、幾つもの罠が連鎖する。レオンは“最後の罠”でベルゼバブから人間の身体を完全に奪うつもりだ。
「畜生めが‼︎」
カラクリ屋敷に入ってから、ずっとレオンの手の平の上で踊らされ続けているベルゼバブは、もはや冷静ではいられなくなっていた。




