第117話「波に消える足跡」(2)
「言っただろ?俺はお前に取引を持ちかけてるんだ。俺様にお前の身体を渡せ。そうすれば、お前の家族には金輪際手は出さないでおいてやる。俺様はこんな狭苦しい屋敷に閉じ込められてイライラしてるんだ。もう何年も人を殺していない。今すぐにだって殺しまくって、たらふく魂を喰らいたい」
「私の身体?私の身体に乗り移って暴れるつもり?私は殺人の道具になんてなりたくない‼︎」
サマーベル家に危害を加えない事を条件に、グラシャラボラスはアビーの身体を要求する。
悪魔が提示した理不尽な条件に、アビーは当然の如く反論した。悪魔に身体を明け渡すと言う事は、憑依されると言う事。1度憑依されてしまえば、ベルのようなケースを除いて、助かる希望は無い。
「殺されないだけでも有難いと思え。まだ文句を言うってんなら、俺様が1歩だけ譲ってやろう。お前の身体を頂戴する前に、お前の願いを叶えてやる。せめて未練が残らない形で、その惨めな人生を終わらせてやろうじゃないか」
「……………。」
それが無情な条件である事は変わらないが、グラシャラボラスは些か悪魔らしからぬ慈悲を見せた。さっきとほんの少しだけ条件は変わったが、アビーは首を縦にも横にも振らず、黙り込んでいる。
「どうした?それでも、まだ文句を言うか?」
「…………………」
「不満か……それなら、お前ら家族全員まとめて……」
アビーは一向に黙ったまま、何も意思を示さなかった。痺れを切らしたグラシャラボラスは少女との取引を諦めた。悪魔がサマーベル家全員を抹殺する旨を口にしようとしたその時。
「分かった‼︎私、あなたと取引する」
ようやくアビーが口を開いた。在ろう事か、彼女はグラシャラボラスの要求を呑んでしまった。アビーの身体を明け渡さず、サマーベル家全員を守り抜く術は他にあったのかもしれないが、幼い少女にとって、選択肢はひとつしか無かった。
「何だよ、話が分かる奴じゃないか」
「でも、私の身体を奪うのは1年だけ待って。それから、時間切れになる前に綺麗な海に連れて行って。それから、海に連れて行ってくれたら、この脚を治して。それと、それまでは絶対に私の家族に手出ししないで」
グラシャラボラスを宿したリーガン人形はうすら笑みを浮かべる。
だが、アビーが容易く身体を悪魔に明け渡す事は無かった。彼女は、アドフォードで豪炎のロックに出会った時のリリと同じように、多くの注文をつけていた。
「チッ……注文の多いやつだな。調子に乗るな小娘…」
「………………」
アビーの注文は、グラシャラボラスの怒りに触れてしまう。当然彼女もその可能性を考えていたが、契約の延長こそが、今すぐ身体を奪われずに家族を守る唯一の方法だった。
恐ろしい形相をしたリーガン人形に臆する事なく、アビーはグラシャラボラスを睨み返している。
「………まあ、いいだろう。条件はめんどくせえが、ようやく器になってくれる人間が見つかったんだ。良しとしようじゃないか」
しばらくアビーと睨み合っていたグラシャラボラスだったが、最終的には悪魔が人間の条件を呑む形となった。人間よりも悪魔が強い事は赤子にでも分かる常識だったが、人間が提示した条件を呑まざるを得ないほど、憑依の契約は、悪魔にとって魅力的なものだった。
これが、ダミアンの知らないアビーの物語。アビーはダミアンの居ない間に、サマーベル邸に取り憑くグラシャラボラスと契約を交わしていた。アビーの余命が残り少ないと言う話の真相は、悪魔との契約にあったのだ。
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そして現在…
アビーは美しい砂浜で、再びグラシャラボラスと対面していた。美しい海辺に、アビーは自分の脚で立っている。彼女が悪魔に提示した願いは、ほとんどがもうすでに叶えられている。
「でも、まだ時間はあるはずよ?」
唯一達成されていない条件。それは時間だった。アビーがグラシャラボラスに自身の身体を渡すのには、まだ1ヶ月ほどの猶予がある。
「状況が変わった。今すぐにでもお前の身体が必要だ。もう十分待ってやっただろう?1ヶ月短くなったくらい誤差の範囲のはずだ‼︎」
「約束は守って‼︎あなたにとって1ヶ月は短くても、人間にとっては長いの!」
その理由は定かでは無いが、グラシャラボラスはアビーが提示した期間の短縮を望んでいた。
「もう文句は無しだ‼︎俺はまだロッテルバニアの屋敷に縛られてる。いつだってお前の親を殺す事が出来るんだぞ‼︎」
最近はずっと穏やかに鳴りを潜めていたグラシャラボラスだったが、彼は我慢の限界を迎えていた。トランプ・サーカスを訪れてから、彼を刺激する何らかの出来事があった事は間違いない。
「黙って‼︎1度交わした契約は変えられないはずよ!」
「黙るのはそっちの方だ‼︎お前が今すぐにその身体を渡さねぇなら、この契約は無かった事にする。今人間の身体が手に入らないんなら、お前諸共サマーベルと名の付く人間を皆殺しにしてやる!」
人間の身体を手に入れるため、グラシャラボラスは約束を破れないはずだった。
しかしアビーの想像以上に、この悪魔にとって“今”と言うタイミングは非常に重要な意味を持っているようだ。アビーの言葉は、グラシャラボラスの神経を逆撫でしたに過ぎなかった。
「………………」
「どうすんだ?渡すのか?渡さねぇのか⁉︎」
アビーは選択を迫られる。怒り心頭に発している今のグラシャラボラスは、本当にサマーベル家を全員殺しかねない。慎重かつ懸命な選択が、アビーには求められていた。
「……分かった。私の身体をあげる」
「よぉし分かった‼︎ならお前の家族をぶっ……」
「?」
意を決したアビーはグラシャラボラスに自身の身体を明け渡す事を承諾する。グラシャラボラスはアビーの言葉をよく聞いておらず、思い込みで会話を進めようとしていた。この悪魔は、アビーが要求を受け入れるとは思っていなかったのだ。
「今何つった?」
「だから、私の身体をあげる。その代わりに条件がある!私の家族だけじゃなくて、リリさんとベルさんとジュディさんも傷つけないで‼︎」
アビーはグラシャラボラスに、新たな条件を提示した。サマーベル一家だけでなく、ベルたちにも危害を加えない事。それがアビーの示す新たな条件だった。
「はぁ?何生意気言ってやがる?殺されないだけでも有難いと思えって言ったよな?」
どんどん増えていくアビーとの契約の条件に、グラシャラボラスは嫌気がさしていた。そもそもグラシャラボラスは11ヶ月前にアビーの身体を手に入れていたはずだった。グラシャラボラスにとっては、もう我慢の限界だったのだ。
「期限を早めた代わりよ!」
しかしアビーは頑として譲らず、決意に満ちた目でグラシャラボラスをしっかりと見ていた。
「……仕方ねぇな。その条件、呑んでやる。ただ、もうこれ以上望むんじゃねぇぞ」
11年前契約を交わした時よりも、今のアビーは凛々しい顔をしていた。周りの人を守るために自分を犠牲にする。それが、アビーの選んだ道だった。
グラシャラボラスの言葉に、アビーは頷いて返事をした。
その直後、グラシャラボラスの目の前にいたアビーの姿は忽然と消えてしまった。だだっ広い真っ白な砂浜には、真っ黒なグラシャラボラスだけが佇んでいる。周りには何も無い。
アビー・サマーベルの姿が消えた後、白浜には彼女の小さな足跡が幾つか残されていた。それは彼女が生きた証。最後に夢を叶えた跡だった。
やがて砂浜に静かに波が押し寄せると、それは残された少女の足跡を呑み込んでしまう。波は寄せては返すもの。次第に押し寄せた波は引いて行く。波が引いた砂浜は、アビーが訪れる前の真っさらな砂浜に戻っていた。
少女の足跡は波にさらわれ、今では跡形も無い。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
今回はアビーの知られざる過去のお話でした。




