第117話「波に消える足跡」(1)【挿絵あり】
悪魔グラシャラボラスを宿したアビー・サマーベル。彼女は如何にして悪魔と出会い、身体を奪われたのか。
改稿(2020/10/23)
どこまでも真っ青な空の下には、潮風の心地よい白浜。透き通った海は、陽の光を乱反射させて、青い空を映している。打ちつける波が、頬を撫でる潮風が、白浜に夏の香りを運ぶ。
空も海も白浜も、果てなく広がっていた。周りには建物や山などは見えない。そこにあったのは、ただひたすらに広がる夏の海だった。
そんな浜辺に、真っ白なワンピースに身を包んだ赤毛の少女が佇んでいる。
少女は、空に聳え立つ白い城を眺めていた。城はゆっくりと風に乗って動き、ゆっくりと形を変えていく。それは夏の空にだけ聳える雲の城。
「これが夏のにおい……」
赤毛の少女は、暑さを和らげる柔らかな風を全身で受けながら、そのにおいを嗅いでいる。この果てしない砂浜には、彼女以外に誰も居ない。
真っ白な浜辺に1人佇むのは、今大テントの中にいるはずのアビー・サマーベルだった。彼女は2度と自分の脚で歩く事は出来ないはずだった。
ところが、彼女は裸足で砂浜に立っている。彼女自身の2本の脚で。白い砂浜には、小さな足跡が無数に残っていた。すでに彼女は砂浜を走り回ったのだろうか。
ここは、余命幾ばくも無いアビーが1番行きたかった場所。彼女が見たかった“夏”を感じる事の出来る場所。ここがどこの浜辺なのかは分からないが、確かに彼女は夢見た海の目の前にいた。
サーッ、サーッ…
透き通った波が、静かに浜辺に押し寄せる。押し寄せた波はやがてアビーの足元まで到達し、彼女の両足を濡らす。
「冷たい……」
足にまとわりつく海水に、思わずアビーは声をあげる。浜辺に打ち寄せる波の音は、彼女の想像したよりも小さなものだった。彼女が頭で思い描いていたより、ずっと穏やかな浜辺の景色がそこには広がっている。
絶え間なく押し寄せる波の音。時間を忘れてゆっくりと流れる雲。陽の光を反射して宝石のように輝く海面。潮の香りを運ぶ風。その全てが、この時間が永遠に続くものだとアビーに思わせた。
しばらくゆっくりと夏を感じていたアビーは、これまでに見せた事のないような笑みを浮かべる。
そして、彼女は自身の両脚の感覚を確かめるように、走り出した。波しぶきをあげながら、元気いっぱいに走り出した。アビーは押し寄せる波の中を駆けて行く。
バシャ!バシャ!
これまでの車椅子生活が嘘だったかのように、彼女はしっかりと自分の脚で走っていた。その脚は力強く踏み出され、その足が大きな飛沫を生み出している。
やがて飛び散った海水が、アビーの頬に付着した。
「……しょっぱい」
アビーの頬に付着した海水は、重力に従って彼女の口に流れ込む。それは、彼女が初めて感じた海の味だった。彼女は時間を忘れて、夏を体験している。多くの人が経験する夏とは違う所もあるかもしれないが、これが彼女にとっての夏だった。
夏が見たい。海に行きたい。砂浜を裸足で歩きたい。それがアビーの望みだった。車椅子の少女の願いは唐突に叶えられた。
しかし、アビー・サマーベルは今、大テントの中にいて、ジョーカー団長と対峙しているはず。なぜ彼女は誰も居ない砂浜に1人で居るのか。
「…………」
アビーは夢見心地で水平線を見つめている。ここに広がるのは、彼女にとってまさに夢のような光景だ。
「………?」
しばらくアビーが水平線を見つめていると、彼女の視界に突如何者かの姿が映った。
それは黒い人影のようなもので、あり得ない速さで砂浜に近づいて来ている。“それ”は一体何者で、なぜアビーのいる砂浜に向かっているのだろうか。
数分もしないうちに“それ”は砂浜に到達し、アビーの前にその姿を現わす。“それ”は近くで見ても、ただひたすら真っ黒だった。遠くで見ても、近くで見てもあまり変わらない。
ただ、“それ”の身体から、無数の触手のようなものが揺ら揺らと蠢いているのが確認出来た。
「御所望の海は楽しんでいただけたかな?」
次の瞬間、アビーの耳に誰かの声が届く。それは彼女の目の前の黒い人影から発せられたものだった。“それ”は触手を動かしながら、真っ赤な目を光らせてアビーを見つめている。
「時間だ。約束通り、お前の身体を渡してもらうぞ」
今から11ヶ月ほど前…
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あの悍ましい事件が起きた館で、未だにサマーベル家は生活していた。事件の直後はサマーベル夫妻はすぐにこの場所を離れようとしていた。
しかし、あれからしばらくして恐ろしい現象はぴたりと止んでいた。ロッテルバニアの過酷な環境もあって、サマーベル夫妻は歩けないアビーを移動させるのを躊躇ったのだ。
アビーは毎晩悪夢にうなされていた。最初の方はサマーベル夫妻は彼女の悲鳴を聞いて、彼女の元に駆けつけていたが、両親に迷惑を掛けたくなかったアビーは無意識の間に声を押し殺すようになっていた。
あれから半年ほど経った今でもアビーは苦しみ続けていたが、必死にそれを家族に悟られまいとしていた。未だに潜む悪魔の影に、アビー以外の家族は気づかずにいたのだ。
ある日の夜の事。アビー以外の家族が寝静まった頃。いつもは兄ダミアンと同じベッドで寝ているアビーだったが、この夜は違った。
サマーベル家の後継になるべく勉強をするため、ダミアンはロッテルバニアを1人離れていた。
アビーはぼんやりとした表情で、窓を見つめていた。窓の外には真っ白な雪景色と、真っ黒な空。白と黒のはっきりとしたコントラストが少女の瞳に映っている。空気が澄んでいる分、星も輝いて見えるが、彼女がその景色に心を奪われる事はなかった。
ふとアビーが視線を動かすと、窓際に何かがある事に気づく。それは彼女にとって見覚えのあるものだったが、それは今この場所にあるはずがないものだった。
「リーガン……ちゃん?」
アビーが瞳に捉えたのは、あの悍ましい夜に独りでに動き出した悪魔の人形だった。雪のように真っ白なドレスに金髪の映えるリーガン人形は、新品同様汚れひとつ付いていない。
アビーの両脚の自由が奪われた夜、一家を恐怖のどん底に陥れた不吉な人形は、とっくの昔に捨てられていたはずだった。もちろんアビーも2度とリーガン人形など目にしたくなかったはずだ。
「ひゃっ‼︎」
その直後、リーガン人形の首がくるりと回転し、アビーの方へ向いた。あの夜が思い起こされるようなその光景に、アビーは思わず悲鳴を上げる。
「静かにしろ、小娘」
「…………⁉︎」
そして、リーガン人形は低く、図太い男性のような声でアビーに話しかけた。得体の知れない恐怖を感じたアビーは、声を押し殺すために口を両手で覆う。
「小娘、俺と………………取引しないか?」
「?」
次にリーガン人形の口から出た言葉は、アビーを困惑させた。リーガン人形はアビーに襲い掛かる事はせず、なぜか取引を持ち掛けて来たのだ。
「俺はずっと前からこの屋敷に棲みついてる悪魔だ。グラシャラボラス!それが俺様の名前だ。あの時は少しばかり脅かしてやろうと思っただけだったんだが、悪い事をしてしまったな」
リーガン人形を使ってアビーに語りかけて来たのは、悪魔グラシャラボラスだった。ジョーカー団長によれば、グラシャラボラスは殺戮を好む悪魔。
ところが、この時のグラシャラボラスはアビーに謝った。悪魔が人間の下手に出る事など、まず有り得ない話だ。
「あなたのせいで、私は歩けなくなった。取引って何?何かお詫びしてくれるの?」
アビーは目の前に現れた悪魔を睨みつけた。グラシャラボラスさえ居なければ、彼女が両脚の自由を失う事はなかった。
そして、深い恐怖を味わう事だってなかった。
「詫びだぁ?ハハハハハハハハ!ふざけるな‼︎そんなもの、この俺様がするわけがないだろ?」
「⁉︎」
しかし、グラシャラボラスはアビーの想像に反して態度を一変させる。さっきまではアビーに謝罪していたのに、今では開き直っている。これが悪魔の思考回路と言うやつなのだろう。
最後まで読んでいただき、ありがとうございます!
アビーの姿は、なぜか憧れの海にあった。
そして語られる、アビーの真実…




