最期の想い
彼は医者にもう助かるまいと言われた。そう言われた時、彼は黙って一言も発さず、口を結んだままだった。もうすぐ泣き出してしまいそうな顔をして、膝の上に置いた手を握りしめた。医者は禿げ上がった頭を照明に晒してカルテに目を向け、ひたすら同情しているようだった。
その後の医者の説明はよく覚えていなかった。もってあと半年とか言われたような気がしたが、彼にはもはやどうでもよかった。どうせ死ぬなら、半年も一年も変わるまい。そう思った。況やそれが何十年となろうが、今の彼にとっては全て同じに見えた。
一通り説明を聞き終え、彼は形だけのお礼をして出た。会計までの間、今まで過ごしてきた人生を顧みてもみた。隣に座る脚にギプスをした老人や、点滴と歩く若者などを横目で見てみた。口をずっと開けたままの阿呆らしき老人もいた。しかし、これといって感興が湧くでもなく、「こんなものか」というような考えばかりが頭を占めた。
「……全体、人には終わりがある。死という形でそれはやって来る。いつ来るかは分からない。遠い未来かもしれないし、明日かもしれない。しかし人はどういうわけかそれを自分に関係のないことだと思って暮らしているらしい。死が、自分とは遠い存在だと思い込んでいるようだ。これはおかしい。生きていることと死んでいることはいわば表裏一体である。生きていなければ、それは死んでいることと変わらない。理屈家はそこに異論をはさむようだが、これは永遠の真理である。その理論が分かっていれば、生きている限り死を思わずにはいられないはずだ。どうもおかしい。滑稽だ……。」
彼は直近死んだ親族を思い起こした。曾祖母と祖父の二人だった。曾祖母とは全く疎遠だったから、彼女が死んで初めて対面した。祖父とは親交が深かった。お盆や大晦日には必ず家に遊びに行ったし、それ以外にも定期的に来訪していた。彼は祖父が嫌いでなかった。父方の祖父である。母方のは、彼が物心づく前にがんで死んでいた。
祖父の遺体を見た時、彼は死を知った。ほんの一週間前に会話した人間が、もはや物言わぬ青ざめた肉塊となった。口を水でぬらす時、唇は意外と柔らかかった。だが、水は口に入ることなく、間から垂れていった。彼は死人の顔を見た。顔を凝視しても、瞬きも呼吸も感じられない。それでもいまいち死んだとは思えない。それほどきれいな顔だったのである。今に起きるかもしれないと思った。だがついに火葬されて骨になったのを見て、ああ、死んだのかと分かった。分かると、急に空々しい気持ちになった。もう死人に対する同情は消えていた。彼にとって生と死とは相いれないものだった。
それだけに、今の心境が彼自身意外に思えた。自分は生きている。あとわずかの命だとは分かっていながら、それでも一応生きている。しかし自分は死を他人事とは思えない。親しみさえ感じられる。いや、実はもう自分は半分死んでいるのかもしれない。半分死んで半分生きているからこそ、生と死の両方を理解しているのかもしれない。そもそも生きているとは何か? 死んでいるとは? 疑い出すときりがない。やがて彼は自身が生きているのかも怪しくなってきた。ここはもう冥府で、ここにいる患者は全員死んでいる。皆天国行と地獄行の審判を待っているだけである。……
そこまで考えたところで彼は自分の名前が呼ばれるのを聞いた。診療代を払って病院を出る。外は長く続いた雨が上がり、雲間から太陽が顔を出していた。コンクリートの地面は湿っている。蒸発した空気で蒸し暑い。タクシーの行列が見えた。向こうにある交差点の信号が青に変わるのが分かった。彼は歩き出した。




