16 麻薬は火種(モテ2/4)
火のないところに煙は立たない。
それが意味するところは、どんな噂であれそこには真実が含まれているということだ。
更にもう一つ。
詐欺師は嘘に真実を混ぜ込んで人に夢を見させる魔術師であるということ。
王城には魔術師が溢れている。そして王に近づくほど優秀になるのは部下だけではないらしい。
だから今日もトーリは王に遠い場所で噂を集めるのである。
「お久しぶりです、補佐官様。またお仕事ですか」
鈴を転がすような声に振り返れば、蜂蜜色の瞳と目が合った。
以前薬草園で会った調合士の女性だ。
作業用ローブを着ていないせいではちきれんばかりの胸元が主張しているが、トーリは視線を下にやらないように笑みをつくる。
「いえ、執務から抜け出してきました」
ここは薬草園ではなく中庭。
ここにいる言い訳に仕事を出さなくてもいいだろうとトーリは判断した。
「まあ、だから変装していらっしゃるんですか?」
「うちの秘書はサボりに厳しくてね」
おどけてみせると、女性はころころと鈴を転がすような可憐な声で笑う。
「サラさんにはいつもお世話になっています。いただいたブレンド茶のレシピのおかげで肌の調子が良いんです」
そう言って頬をぷにっとつまむ様子は可愛らしく、自分も触ってみたいという考えがよぎる。
「触ってみますか?」
まるで以心伝心、渡りに船。
すすっと近寄ってきた女性は爽やかな甘い香りを漂わせ、トーリの正面に立つと目を閉じた。
白くふっくらとした頬に薔薇色の唇。
キスを待つようなその姿に急に恥ずかしくなって、でも意を決してその頬を指先で触れる。
さらりとなめらかな肌は少し押すと吸い付くようで、そのまま首やその下に手を滑らせたらどんな感触なのだろうと想像をかきたてる。
たわわに実る果実はきっとこの頬のように白く張りがあり、中心にはこの唇のように赤く誘うものがあるのだろう。
「補佐官様?」
はっと気付くと、調合士が切なげな目でトーリを見ていた。
「失礼した。あまりに柔らかいものだから驚いてしまって」
「まあ……ふふっ。私ったら、口付けをされるのかと期待してしまったのが恥ずかしいわ」
「期待……?」
トーリの喉がこくりと鳴る。
「どうかお忘れくださいな。それより、サラさんは大人気でいらっしゃいますね。サラさんがご結婚となれば補佐官様は新しく秘書を雇われるのですか?」
サラが、結婚?
先ほどまで感じていた甘い心地よさが消え、トーリは目をしばたく。
「ご存知なかったですか? メッセンジャーのトムがサラさんにラブレターを渡して、それから毎日サラさんに会いに行っているって有名ですよ。サラさんに好かれるために王城周りを走ったり、先週かしら、サラさんが薔薇を好きだとおっしゃったのを聞いて庭園の薔薇を切って衛兵に捕まった、なんて話もありますよ。サラさんったら食堂でも溜め息をついていらして、あれは絶対恋の病だーってみんな噂してますの」
メッセンジャーのトム・コリンズ。
トーリの頭の中をつい最近調べた情報が流れる。
トムは男爵家の三男でプレスクールを出てすぐに王城の下働き枠へ就職した、勤続四年の16歳。
勤務態度は真面目であり配達事故歴はなし。ひょうきんで明るい性格のため下級官吏からの指名が多い。
上級学校を卒業しているサラには物足りないかもしれないが、サラの抜けているところとトムのひょうきんなところはきっと相性が良いだろう。
結婚可能年齢までまだ二年あるが婚約や婚儀の準備に追われていれば二年などあっという間だ。
下手に伯爵家長男と見合いさせるよりサラを好いている男に任せた方がサラも幸せになるかもしれない。
たとえそれが経済的基盤の確かでない男であったとしても。
「補佐官様、どうなされたのですか? 酷いお顔……もしかしてお疲れでしたか」
「いえ……僕はそんなに酷い顔を?」
「ええ。まるでこの世の終わりに悪魔を恨むような顔でした」
「それは酷い顔だ」
この世の終わりといって絶望するのではなく恨む顔だとは、よほど凶悪な顔をしていたのだろう。
口元に笑みを浮かべるとトーリは伊達眼鏡を拭う。
「よろしければこちらをどうぞ。気持ちの楽になる薬です」
調合士は前掛けの内ポケットから紙包を取り出すとトーリの手に握らせた。
「四回分です。一回あたりティースプーン半分。鼻風邪用のお薬みたいに、手の甲に乗せて鼻から吸ってください」
太陽の光のせいか茶色の髪と蜂蜜色の瞳が輝いて見え、絵画の中の天使のような人だ、と詩人のようなことを思ってしまう。
この女性の前だと平常心が迷子になるな、と苦笑したトーリはお礼を言って執務室へと引き返すことにした。
その右手には気持ちが楽になるという薬、ポケットには『王弟派と第二王子派が接近』という情報が握られていた。
◇
「第一王子殿は息災のようだな、マクラレンよ」
「申し訳ございません殿下」
現王の弟であるモルゲンロートは忌々しそうにあごひげを撫でる。
ビロードのマントの衣擦れに彼の怒りを感じながら、マクラレン伯は床に頭を擦り付けるように伏していた。
「あの忌々しいディファインが消えたかと思えば今度はせがれが邪魔をするか……あの家はいつも儂の邪魔をする。
女は子爵家と言ったな? 弱小貴族など潰してしまえば良いだろう、領地を取り上げて儂の物にする、それだけのことではないか」
「ですが殿下、子爵家にはあの天才がおります。あの家を取り潰すとなれば各方面からの糾弾は免れますまい。また、天才を使いこなせば殿下にも益があると存じます」
「ふん、良いだろう。だが、邪魔なものは掃除が必要だ。わかっているな?」
「はい、勿論です」
「それと……あの傀儡王子はどうなった? ヴィルバート国王女は別の国の王子との婚約が決まったと聞いたが」
「はい、それが第二王子殿下はヴィルバート国へ行ったものの王女を気に入らなかったそうで……。あちらに送り込むところまでは順調だったのですが」
白いものが交じるあごひげを撫で続けるモルゲンロート。
その神経質な仕草にマクラレン伯は細い息を吐いて上申する。
「新たな計画をご用意してございます。必ずや殿下に王の座を」
「第一王子は既に立太子したのだぞ? 儂はもはや兄の子に王位をやるつもりはない。即位の前に結果は出せるのだろうな?」
「はい。この身に代えましても」
始まりは20年前、先王が死に際に遺した後継者指定を握り潰し第一王子が王として即位したことに起因する。
正統な王位継承者は自分であると主張する第二王子モルゲンロートに「証拠はありますか」と冷たく言い放ったディファイン卿。
当時国務大臣だった彼は宰相となって現王を支え、王位継承に異を唱える者を十年かけて表舞台から排除していった。
王弟派にとってはまさに暗黒時代。
そんな暗黒時代の終わりを告げるようにディファイン卿が政治から去ったと思ったのも束の間、今度は息子が現れた。
今となってはたとえその即位が後ろ暗いものであろうと既にその瑕疵は治癒されているとみる者も増えてきている。
それでも。
王弟派筆頭として骨身を削り、またエーデルロート同盟の参事として動いてきたマクラレン伯の手は既に多くの罪で染まり、もう後戻りはできない。
◇
サラが異変に気づいたのは夕食後の執務中、お茶でも入れようかと立ち上がったときだった。
トーリの机の上に見慣れない紙包がある。そしてそれが薬包紙によるものであることに気付くとサラは眉をしかめた。
トーリが普段医務室から受け取ってくる薬は粗末な薬包紙に包まれている。それは節約志向の王の意図を汲んだものであり、ザラリとした材質なのが特徴だ。
それと比べトーリの机の上にあるそれはツルリとした光沢を持っており、一見して上質な薬包紙であることが見て取れた。
明らかに王城外の上流貴族が関与しているそれをサラが放置するはずがなかった。
「トーリ様、こちらのお薬、少しお貸しいただいてもよろしいですか」
なんともないような調子でサラは言い、トーリもそれを拒むことなく手渡す。
後ろめたい事情が無さそうなだけに入手経路が気になってならないが、サラは薬包紙を開くと粉末のにおいを嗅いだ。
ほぼ無臭。
小指に息を吹きかけ、湿度を持たせて粉末を取る。
舐めた瞬間、サラの動きが止まった。
目を見開き、信じられないものを見るようにしてトーリを見、指先を震えさせながら薬包紙を閉じる。
トーリがサラの異変に気付いた時、すでにサラは両目に涙を浮かべていた。
「おいサラどうした? 何があった」
「何かあったのはトーリ様でしょう! なんで言ってくれなかったんですか? 私はそんなに頼りになりませんか?」
両目からボロボロと涙をこぼすサラは鼻声になりながら言い募る。
「私、トーリ様のお役に立ててると思ってました。お支えできてると、思ってきました。完全な仕事はできないまでも、相談だってお聞きしてきたつもりでした! なのに、なんで、なんで言ってくれなかったんですか!」
「おいサラ、何があったんだ? 僕がいつサラが頼りないなんて言った?」
「だってそうじゃないですか、だからこんなものに手を出したんでしょう?」
サラの涙は頬を伝い、顎からしたたってはワンピースの胸元を濡らす。
黒いメイド服が黒さを増し、トーリの困惑を増加させてゆく。
「こんなものって」
「こんなものですよ! だってこれは……アヘンなんですから。いえ、正確にはもっとタチの悪い加工物と言うべきでしょうが」
お返しします、とサラが薬包紙をトーリの机に置く。
その手首をトーリはぱしりと掴んだ。
「僕はこれがアヘンだなんて知らなかった。偶然会った調合士が『気持ちが楽になる薬』だと言ってくれただけだ。自分から求めたわけじゃない」
「気持ちが、気持ちが楽になる薬を必要とするほど切羽詰ってらしたのに、私は……私は何も気づかずに」
「違う、違うんだよサラ」
泣き続けるサラの手首を引き寄せる。
ふらりと前傾になったサラをトーリはぎゅっと抱き締めた。
「散歩してたら噂を聞いたんだ。サラに言い寄ってる男がいるって。思ったんだよ、サラを愛してる男だったらサラが嫁いでも幸せになれるんじゃないかって。でも、それを想像したら……僕は酷い顔になってたらしくてね。それを心配した調合士がくれたんだ」
腕の中にいるサラは柔らかく、頭頂部に口付けるとホワイトローズとカモミールのにおいがした。
離したくない、そう思ってしまって、雇い主が権力をつかうのはいけないことだと分かっていても、腕に込める力は止まらない。
「トーリ様……苦しい……です」
「嫌なら逃げればいい。できるだろう」
サラならこの状況から抜け出すことなどわけもないだろう。
それでも、逃げないでいてくれればいいと願った。
馬鹿みたいに願って腕の中の熱を堪能して、この身体をこのまま自分のものにできたらいいとまで思った。
「サラはトム・コリンズのことが好きなのか?」
サラがぴくりとみじろぎする。
「あの人は自称弟子入り志望の迷惑男で……脅されてるんです。おまけに王城内で罪を犯してそれを私のせいに……」
「脅されてる? どうしてそんな。なんで早く言わない」
ごめんなさい、と消え入りそうな声で言うサラにトーリはその腕を緩める。
一歩引いてサラと目を合わせると、トーリはゆっくりと言い聞かせる。
「サラが僕に頼って欲しいように、僕もサラに頼って欲しいって思ってる。だって僕は……サラの主なんだからね」
「はい。ごめんなさい……」
サラの頭を撫でてやれば、彼女は懐かしいものを見るような目をしていて、なぜかそれに悲しいような気持ちになった。
トーリはしばらくその頭を撫で続け、二人がトム・コリンズの処遇について話し終えたのは日付が変わる間際になってからのことだった。




