ショスタコービッチ、波乱のリハーサル
本番までの4週間、俺は週に一度、泊りがけでフランクフルトに練習に出かける事になった。
列車で午後に着くと、事務局のフランツが迎えに出て、練習場まで送ってくれる。ちなみにクラリスも送迎あり。一日目で迷子になった彼女のために考えたのだろう。交通費が少し浮くし。
宿泊はホテルではなく、ホームスティのような形だ。クラリスは、チェリスト首席で中年の女性のミルラッカさんの家で、俺はビオラ首席のアドルフの家でお世話になった。
アドルフ一家と過ごす夜は楽しかった。アドルフは、彼の祖父母、奥さん、子供3人と、大家族で、それなりに気を使ったけど、ちょうどフェリックスと同い年の男の子がいて、彼に懐かれた。俺ってやっぱり保父さんが天職だったかも。
練習では、”ショスタコービッチが曲中にひそませた有名な旋律”は、なかなか見つからなかった。そこまで追求する余裕がなかったというのが、本当の処かな。
ピアノソロのクラリスと指揮者のバウマンさんとで、ちょっとした論争が始まった。どうもテンポの処で意見が合わないようだ。
”1楽章は、もっと緩急をハッキリしたい。モデラートのところは、弦楽は重めの音で入ってほしい。”
”最初の処はOK。でもアレグロの処は、君のテンポは速すぎる。確かにメリハリがつくけど、君自身の演奏が粗くなってる。”
まだヒアリングは自信がないので、だいたいのところ、こんな趣旨の事を言ってたと思う。それにしても、クラリスは、大学2年生の20歳。よくベテラン指揮者相手に自分の要求を伝えられるもんだ。その論争の間、10分ほど、オケと俺は、黙って聞いてるだけだった。
”ソリストと指揮者の意見があわない”と、悲痛な顔をしてる団員はいない。
”またかよ”みたいな、苦笑いをする人はいたが。
俺は、コンマスに聞いてみた。弓順の最終チェックをしてた所で申し訳なかったけど。
「大丈夫なんでしょうか?意見が食い違って。」
「はは、毎年のことさ。例え、新人の若者でも、自分の意見を主張する事はいい事だ。君も何かあれば、ちゃんと言ったほうがいい。日本人はおとなしいからな。言いなりのままになるぞ」
そんなもんなのか?大学オケでやってた時は、指揮者絶対だった。協奏曲もソリストは大学の生徒が演奏する場合が殆どだったし。エキストラとしてプロオケへ行った時は、パート内で微調整ぐらいで、お互い妥協してた雰囲気だ。もちろん俺は、それについていった。パートのハーモニーを乱したら、怒られる。
結局、論争は”事故(演奏が止まる、ズレる)がおきたら大変なので”という指揮者の意向が、勝ったようだ。再開した練習は、アレグロの部分もテンポの速い4楽章も、アレグロでもややゆっくりだった。ただし、演奏最中のクラリスの顔は、不機嫌そのもの。
練習が終わり、アドルフの家で さんざんリンゴ酒を飲まされた。この街の名物だそうだ。甘くておいしかったけど、俺は普通の日本の缶ビールが飲みたいな。ドイツのビールもおいしいけど、日本のあの透き通ったビールが恋しい。
「カイトが23歳だなんて、知らなかったよ。1回目の時、飲み会に繰り出すんだった。」
「いえいえ、俺、酒は弱いほうで、すぐ寝ちゃうんですよ。ところで、奥さんの料理、おいしいです。先生の処では俺がよく料理をつくるけど、もっぱら野菜をゆでただけでおわりです。」
”それが基本だからいいのよ”と奥さんに慰めてもらい、”ゆでるだけなら僕にもできる”と末の男の子に、自慢された。はは。
ここの家の料理はなんていうか、食べて満足して体がホッコリする。家族が仲が良いので雰囲気がいいせいだろうか。
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2回目の練習から帰ってきてみると、セリナちゃんからメールが来てた。エキストラが決まった時、すぐにメールした、その返事なのあろうけど、なんだか動画をアップしたんで見てと書いてあった。
スカイプで話せなくもないけど、時差やコンクールを控えてるセリナちゃんを気遣い、メールでのやり取りが中心。それにしても、動画って何?題名は”ショスタコの注意点”と書いてあるけど。
俺はすぐ、無料動画のサイトにアクセス。アドレスを入れると、セリナちゃんがピアノの前に座ってた。そしてなぜか辻岡が。
”ピアニストから考える、トランペットとの掛け合いの難しいそうだなって処を、やってみました。辻岡君が協力してくれます”
おのれ~~俺のいない間に、健人といい辻岡といい、油断なんねえ。
”この部分は、こうピアノのメロがはいるので、ペットにはそこを意識して入ってほしいです”
と、辻岡の短いフレーズの後、セリナちゃんのピアノの音が。。至福の時だ。やっぱりセリナちゃんのピアノの音が好きだ。クラリスの音も嫌いじゃないけど、ちょっと俺にはキツいんだ。
自己主張強すぎるトガった音色。
それにしてもセリナちゃん、俺のために急いでスコアをみてくれたんだ。9月の日コン控えてるのに、俺、康子先生に怒られそう。”海人のばかたれ”なんて題名の動画を、アップされたら恥ずかしい。
辻岡のペットの音は相変わらずだ。スランプから立ち直ったようだけど。でもいまいちだ。
”辻岡のヘタクソ”と、PC画面に向かって、やじった。(ちなみに、動画は、アップした日から10日で削除するそうだ。)
嬉しくてセリナちゃんの動画を何度も見た。大学の時にもどったようで。でも、これって、ホームシックの一種かな。
その晩はゆっくり眠った。
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フランクフルトでの演奏会のための最後の練習は水曜日の夜。俺は、演奏会の練習が、雰囲気の微妙になってる原因を、クラウス先生に話してみた。
「ピアノ奏者のクラリスちゃんが、どうも自己主張が強くて、指揮者と意見があわないようなんんです。ピアニストはもっと速いテンポで弾きたいらしく、指揮者は慎重で、幾分インテンポより遅めの指示です」
クラリスが自己主張が強い、指揮者のバウマン先生は頑固だ。ただ、後半プログラム、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲の練習を見学させてもらったけど、これといって論争とか、へんな雰囲気はなかった。ごくスムーズだった。頑固でどうしようもない指揮者先生ではないようだ。
先生は、俺の話しを聞きながら、うんうんうなづき、
「ありがちな話しだな。ピアニストが我慢して冷静に演奏すれば、問題はない。但し、我慢できずに自分で走り出し、テンポアップしすぎると、自分で収集つけられなくなるかもしれない。ただ、トランペットの演奏で、ピアニストの目を覚まさせられそうな箇所は、少ない。」
「ええ!まじ・・いえほんとですか?まずいな。」
明日の明後日のリハと当日のゲネプロで、なんとか彼女を納得させなきゃいけないのか?
それって、指揮者の役目の気がするけどな。
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悪い予感が的中した。
本番前日のリハーサルで、のっけの1楽章からピアノと指揮がずれまくり。この1楽章はジェットコースターのような曲で、曲そのものが、荒々しい旋律から急に美しい旋律になったり、急にテンポアップしたりする。俺は、当然だけど、指揮者のテンポについた。クラリスは指揮者完無視。おい、大丈夫か?
指揮者は演奏を止めた。当然だな。バラバラだ。弦楽パートも困惑してる。
「クラリス。私はソリストを尊重するよ。ソロの処は自由に弾き給え。でも他のパートの入る処は、私の注意した事を思い出して。これは、弦楽、トランペット、ピアノが協力して作り上げる曲だ。その事を忘れない事。」
あーあ、基本の基本を注意されちゃったよ。クラリスといえば、顔が真っ赤だ。目がウルウルしだしたと思ったら、ダーっと舞台裏に引っ込んでしまった。
指揮者とコンマス、俺も彼女を追いかけて行った。舞台裏で彼女は泣いてた。それを見て、コンマスと指揮者はお手上げとばかり、ステージに戻っていく。ちょっと待て。このまま放置するのか?
ううむう。プライドの高い子なら、このまま放置したほうがいいのか。でも、クラリスは、プロとはいえない、ひよっこだ。(それは俺も同じ)
「クラリスあの、落ち着いたら練習復帰して。大丈夫。一言、ごめんなさいといえば、練習放棄した事は、笑って許してもらえるから」
そう声をかけた途端、クラリスは、ワーっと泣いて俺にすがりついて来た。
ちょっと夏バテ気味なので、更新が遅れたら許して下さいませ。基本、週一のペースです。




