彼女の言い分、彼の本音
基礎トレーニングだけでもやろう。音楽室で俺は練習を始めた。コンクールの間は、少ししか出来なかったので、丁寧に。結局、始める時間も遅かったし、2時間も出来なかったけど。床に座り込んで、トランペットをクロスで磨いていると、クラウス先生が来た。まだ、”寂し気ワンコ”状態だ。
「高熱になるなんて、予想もしなかったよ。香澄がだるそうだったから、家事の負担を減らそうとして、フェリックスと外食しただけなのに。」
音楽室に入ってくるなり、座って独り言のように言い出した。
先生...音楽室に”家庭の事情”を持ち込まないでくださいよ。
「先生、リビングに行きましょう。俺、練習は丁度終わったし、コーヒー入れます」
金髪の巻き毛をグシャグシャを手でかきむしりながら、クラウスは落ち込んでる。リヴィングのソファごと床にめり込んでいく勢いで落ち込んでる。
「私も2階に行き、香澄の部屋を開けたら、息子に怒られた。”パパの馬鹿、ママが起きちゃったじゃないか!”って。もっと注意深くドアを開けるべきだった。たった2年離れてただけなのに、やっぱり息子には母親が一番なんだ。」
あーあ。バイエルンオケのトランペットの首席も、音楽を離れると、普通の親だ。クラウスにいたっては、息子ファーストなんだな。
「フェリックス君を、今晩だけ熱のある母親から離すのは、普通、誰でも考えると思いますよ。フェリックスがいう事を聞かなかっただけ。それに様子を見るなら、静かに入るべきでしたけど、慌ててたんですよね。(大型犬だから足音が大きいw)」
「カイトに、申し訳ない事をした。コンクールで疲れてるのに、看病させてしまって。そうだ、コンクール3位入賞、おめでとう。」
とほほ、つけたしのような祝福の言葉でも、ありがたく受け取ります。こまやかな気配りはないというか、出来ない人だけど、クラウスのそういう処は嫌いじゃない。
「本当なら、家庭のもめ事に干渉はご法度だけど、実際、香澄さんは、クラウスを”嫌いになった理由”がわからないっすよ。クラウスって、いうなれば日本にはよくいるタイプの男性に思えるし。男子が片づけとかの掃除・料理とかの家事をしないなんて、普通によく聞く話し。香澄さんも、そこは慣れてたと思うんだけどな。」
俺はコーヒーを入れながら、肝心の理由、”香澄さんがクラウスを怖がってる”ってとこは、言わなかった。彼女は、怖いなりに精一杯、虚勢をはってるからね。そこは尊重する。
「香澄は、日本で甘やかされて育ったのかな。自分中心なんだ。子供が生まれてからもだ。彼女は自分のチェロの練習中、フェリックスが泣いてても放置してた。それを私が怒ったら、逆にキレられた。”たまたま聞こえなかっただけじゃないの。練習中ぐらい集中させてよ”って。そのあたりから、意見が対立する事が多くて、喧嘩になる事もしばしば。たいていは息子の事についてだけど」
わからないです。はい。子供どころか、俺は恋人すらまだ100パーじゃないです。ウチの両親は、いつも、共働きで忙しくしてた。レッスンへ行く俺の送り迎えの事で、行き違いはあったようだけど、喧嘩するほど時間はなかったようだったから。
「すまん、私は自分が情けないんだ。子供が出来たというので、うれしくて結婚し、家も買って音楽室も作った。そのローンを払うため必死に働いた。家事はあまり出来ないけど、子供の面倒もみてたつもりだ。それなのになぜか、段々、険悪な関係になって...」
もうクラウスは、コーヒーじゃなく、戸棚からウィスキーを取り出し、水で割らずに飲んでいた。うわ、すげ。酒豪だ。まあ、フェリックスの”パパの馬鹿”発言に深く傷ついたのだろう。
酒を飲まずにやってられるか!ってとこか。
しばらく、グダグダ言ってだけど、聞き取れなかった。つぶれてしまう一歩前で、俺は部屋に引き上げた。これ以上は、彼の同世代なりカウンセラーなりに愚痴るといい。俺では役不足だ。
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翌朝、案の定、クラウスは二日酔いのままオケの練習に出かけて行った。俺も一緒に行く予定だったけれど、クラウスに二日酔い用の朝食とジュースを出し、まだ微熱のある香澄さん用の朝食を作ってたりしたら、遅くなった。
フェリックスは、今日もエドの処。クラウスがそれだけは、忘れずに息子を連れて行った。
(エドの奥さんは、”保育ママ”というものらしい。保育ママと訳するけど個人零細保育所?ってところかな。他にも数人、子供を預かってるらしい)
微熱まで下がったとはいえ、香澄さんは、どこかボーっとしてる。
「香澄さん、後は俺がやりますから、また、ベッドへ行って下さい」
日本語を気兼ねなく話せるので、楽な事は楽だ。
「ごめんね。カイト君。家政婦のように使ってしまって。なんだか体がまだ怠いし、もう気力もなくなったのか、明後日の離婚調停の話し合いが憂鬱。クラウスの強引さに負けてしまいそうだし。」
強引になってる部分は、息子の事だろう。溺愛してるみたいだし。
「クラウス先生、”フェリックスに怒られた”って、昨日、しょげてたようですよ。怒られても仕方ない状況だったみたいだけど」
「あはは、覚えてないのが残念。いつもオレ様の奴だから。自分のいう事がいつも正しいと、押し付けて来る。これってドイツ人男性の悪い癖よね。」
え?そうかな?確かに音楽の面では、意見ははっきりしてて譲らないけど、それは俺も同じだから感じなかった。生活の面ではむしろ無頓着じゃないかな、クラウスは。俺が彼女にそういうと、ため息をついて話し出した。ああ、深入りするつもりなかったのに。
「そうね、そういえば彼がこだわる処は、息子の事と音楽の事だけだった。事あるごとに”お前は息子の面倒をあまり見ない”とか怒ってた。でも、私も負けないから。だって母親だし。でも、”香澄のチェロは趣味程度だから、もっと子育てに専念してほしい”って、さんざん言われて、もう彼の顔を見ると、何か息子の事で不備はないかって強迫観念にとらわれたわ。」
で、限界がきて家を出た。自分が必死に練習してるそばで、”趣味程度”と言われたら、俺でもきれる。それが本当の事ならなおさらな。だからといって、”男と逃げる”という選択は、香澄さんは大失敗をやらかしたんじゃないかな。
彼女はたまった愚痴を吐き出して、少しすっきりしたせいか、またウツラウツラしてる。
これは明後日の調停までは、体力が回復しないかもしれない。
俺はどうだろう?セリナちゃんと結婚して、彼女がプロのピアニストになる。で「あなたのトランペットは趣味程度だから、子育てに専念して」ってハッキリ言われたら、そしてそれが事実だったら?泣いちゃうな。で、子供連れて家出する。うん、香澄さんの気持ちもわかる。でも他に恋人は作れない。いろんな面で傷つきすぎて。
どうすればいいか?多分、セリナちゃんにそういわれた時、自分がどれだけ傷ついたか、ちゃんとその事を話せばいいのだろう。もっとも、セリナちゃんはそんな事は絶対言わない。そこだけは自信を持って言える。
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