本番!0.1㌫の望み
ゲネプロ(本番直前の練習)が、始まった。
最初は、チャイコフスキーのバイオリン協奏曲から。
指揮者のセルゲイ・マリンスキー氏は、日本ではそこそこ有名。ストラヴィンスキーやグラズノフ、プロコフィエフなど、ロシアの作曲家の曲を得意としてる。(当然かな)
ソロバイオリニストの竹中 恵さんは、アラサーのバイオリニスト。芸大出身。ロシア留学の後、ソリストとして活躍してる。ロングヘアの飾り気のない気さくな人のようだ。リハの時も、休憩時間に団員と楽しそうにしていた。
ゲネプロは、淡々と進んだ。あれほどネチッコサ満開だった指揮者のマリンスキー氏も、今日は、バイオリン協奏曲では、あっさりと曲をすすめた。オケ自体も団員がわかってるというか、ソリストの意図と指揮者の意図を、ちゃんと飲み込んでる。
二部の曲の、「火の鳥」。これは有名な曲で、静かな旋律から始まり、魔王カッチェイの邪悪っぽい踊りの音楽がはじまり、最後は魔王が征伐され盛り上がって、ハッピーエンド。
わかりやすい。実は有名な曲ほど難しい。聞きなれている音源が基になっている聴衆は、少し違うだけで、しらけてしまようだ。
俺の出番の「春の祭典」は、リハより数段、レベルアップしてた。不思議だ。あれほどギクシャクしてたのに。そういえば、トップ・トップ横のコンビが話し合いしたんだっけ。それの効果かな。ゲネプロ前にトップの鏑木さんから、この曲で2,3指示を受けたけど。
多分、上手くいったのは、”マリンスキー氏が、スコアを見て指揮してる”からだと、思う。
リハの時は、スコアなしの暗譜で指揮をしていたが、やはりこの曲で一番大変なのは、指揮者のようだ。
台の上にあがり席につくと、聴衆の席が丸見えになる。大学オケでもさんざん経験した事だけど、エキストラの”なんちゃってプロ”だけど、お金をいただく分、緊張感が違う。先の仕事に影響がでることもある。そして大学時代にオケが失敗した時のトラウマもあり、俺は緊張した。
そのせいだろうか。本番の時間になり、最初の協奏曲が終わると、お腹が痛くなってきた。
”胃が痛い”とかじゃなく、下っ腹が少し痛い。これはマズイ。あわててトイレに入って、ついでに気分を落ち着けた。
バイオリン協奏曲は、控室のTVが、その様子を映していた。ソリストがすごかった。画面はアップにはならないものの、肩むき出しの赤いドレスで、音楽にあわせ情感をこめてゆれ、俺としては胸元をもっと近くで見てみたいな...なんて本番前に、しかもトイレで不謹慎にも思ってしまった。
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本番は、指揮者は、冒険はしなかった気がする。リハの時よりも、カッチリした音楽を指示だった。リハよりと天と地だ。やりやすい。俺はセカンドの2番手。弦楽器のようにずっと演奏してるわけじゃないけれど、休符とタイミングが難しい曲だ。他の楽器はあてにしてはだめだ。だけど、つい打楽器を聞いてしまう。ジックリきくと、こっちのタイミングが少し遅れたりする。聞き入らないようにしないと、打楽器のリズムに乗らず、正反対の意見をだすような所ような箇所もある。
緊張で冷や汗をかく。動悸がする。それでも楽しい。オーケストラで演奏するのは。コンクールの時のようにソロでオケをバックに演奏するのもいいけど、中に入って演奏するのは、なんていうか音楽のウズの中にいる。
やはり、俺はオーケストラに入りたい。例え出番が少ない曲でも、俺は楽しいだろう。
無事に本番は終わった。最初のバイオリン協奏曲では、ソリストがアンコールを弾いたけど、オケとしてはアンコールなし。というのも、全体の演奏会の時間が長くなりすぎるからだそうだけど。
全体で”打ち上げ”なんて慰労会はなく、それぞれのパートが散って、飲み会にながれる者、帰る者、それと事務局長・運営代表・コンマス、がソリストと指揮者を慰労する会があるようだ。
これだけ大人数となると、一同に会しては無理もあるし、そういう雰囲気のオケではなかった。
静まったホールを出て、俺は鏑木さんと他のトランペット団員と一緒に飲みに出た。
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「海人君、君、バイオリン協奏曲の間、どこにいたんだい?」
おっと、お腹いたくてついでに精神統一してた時だ。カッチョ悪いよな。でもまあいいか。
別に悪い事してないし。事実を話したら、大うけ。大笑いされた。鏑木さん、何もそんなに笑わなくても。
庶民派居酒屋の一室で、ビール飲みながら笑われる俺は、年下とはいえミジメ。反論できないものな。”う○このどこが悪い”って。まあ。笑われときます。それでパート内が幸せになるなら。
トホホ。
ただ、この裏には、面倒な思惑があったらしい。
ちょうど、俺がトイレに入って精神統一をしてる時、事務局長が俺を呼びにきたそうだ。受付を手伝ってほしいとの伝言だったけど、俺がトイレを出て来た時は、本番がすぐだったし、伝言も聞いてない。伝言が伝わらなかったのは故意と偶然と両方。
なんでも受付は、愛ちゃんがいても手がたりなかったそうだ。で、使いやすそうな俺を呼びにきたようだけど、もし俺が事務局長の言いなりで、受付事務を手伝ったとする。俺は今回はエキストラだけど、実はトランペットパートでリストラの瀬戸際にいる団員がいるらしい。
定年退職まじかのその人は、それとなく早期退職をにおわされてるとか。一人は喧嘩して辞め、一人は早期退職。これは気胸という病気のせいだそうだ。この病気にかかると肺から空気がもれ息が出来なくなってしまう。管楽器奏者には命取りの病気だ。
そして事務局は、もう一人、定年近い奏者をリストラしようとしてる。理由は簡単。若い人を雇ったほうが安いからだ。そうなると、欠員がでる。
もしかしたらすごいチャンスを逃した事になるかもしれない。トップの鏑木さんは、欠員の補充には先崎さんを推薦したいとの事。都京での実績もあるから当然だろうか。
ただ、定員の人数4人はやはり少ない気がするが。
「海人君、笑って悪かった。でも、ちょっとホっとした。コンクールで同じ3位でも、事務局は新藤君の事を気に入ってるみたいでね。ごり押しされそうな気配だったんだ。私としては、6人定員を主張してるのだけど、まず通らないだろう。さらに一人リストラされそうだしね。その時にはこちらとしては、欠員には先崎君を推薦するつもりなんだ。強引にね。エキストラとしてウチでの演奏実績があるから、事務局も弱いと思う」
もし先崎さんをおしのけて、俺がこのオケに入ったとしても、居心地はよくないだろう。事務局はどうあれ、トップの意向を知ってしまったし。
俺はオケに入団する0.1㌫の望を掴めなかった。
土曜日深夜(日曜日午前一時ごろ)更新します。週1更新です。