夫婦は犬猿の仲
「兄の俊哉に、”チェロ、ちゃんと弾いてるか?”って訊かれた。仕事忙しくて弾く時間とれないって答えたけど、でも言い訳ポイ気がして落ち込んでる。」
昼食の後片付けをしながら、香澄が話しが始めた。居間にいたフェリックスがきて、”ズルイ”と割りこんできた。
香澄さんと日本語で話してたからだ。フェリックスは殆ど、日本語がわからない。こういう場合、彼もわかるドイツ語で話すのがマナーなんだ。話せるといっても俺のドイツ語はボロボロだけど。まあ彼がむくれるのは当然か。
片づけが終わった後、久しぶりに、俺はフェリックスと一緒に国語、つまりドイツ語の勉強をした。
香澄さんの”楽器弾く時間ない問題”は、その日は詳しくは訊けなかった。彼女は自立したい。だから仕事を頑張る。結果、時間がなくなる。まあチェロで稼ごうとか思わなかったんだな。
プロ並みの練習は出来なくても、趣味として弾く時間とか、とれないのだろうか?それとも、まさかチェロが嫌いになったとかか?香澄さんはジョン・ポールと家出し、結局その彼にふられた。チェロを弾くと、そんなツライ過去を思い出すとか。
ところで俺はどうだろう。いや、考えるまでもない。例えプロになれなくても、トランペットは捨てない。理由は”好きだから”って事しかないけど。俺にとって、ペットを吹く事は生活の一部だ。
で、香澄さんは、空いた時間は、フェリックスと過ごしてるのかもしれない。じゃあ、彼にチェロを教えるとかしてみたらどうだろう・・・
そこまで、考えが飛んだところで、フェリックスに怒られた。
「カイト、書き取り進んでない。僕はもう終わったよ」
ははは・・・書き取りというか、HPに出す文章を、ドイツ語にして、ついでに、新しい単語を書きだしてたんだっけ。やっぱ、勉強は苦手だ。
夕方に家に戻り、俺は思う存分、練習。お腹が空いた頃、師匠からメールがきた。明日の夕方につく便で戻ってくるとのこと。
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昨夜は練習の後、夜遅くまで、自分のHPをいじってたので、今朝は9時まで寝てた。しつこく鳴る電話で起こされた。猛烈目覚ましだ。
香澄さんからだった
「カイト、申し訳ないんだけど、今日、フェリックスの面倒をみてくれないかしら?エリザベトさんに頼んでたんだけど、急に都合が悪くなって。息子さんのフリード君。風邪で熱だして寝込んでるんですって。ウチも気を付けないと。今日は、私、夜9時まで仕事入ってるの。他のシッターも都合つかなくて。いつも頼んでばかりでごめん。すみません、よろしくお願いします」
フェリックスも、五年生くらいになれば、一人で留守番も出来るのだろうな。今はまだ無理だ。
「いいですよ。学校に迎えに行きます。ちょうど今日、クラウスが帰ってくるんで、こっちに泊まってもいいと」
”思います”まで言わないうちに、電話は切れた。はぁ~。俺の事、なんだと・・・まぁいいか。彼女、仕事の最中に電話してきたのかな。えらく急いでた。
学校までフェリックスを迎えに行き、帰りにスーパーで3人分の夕食の材料をそろえた。珍しく、フェリックスは沈んでる。俺といるときは、いつもご機嫌なんだけどな。
「今日は、クラウスが帰ってくるから、俺とフェリックスの3人で夕食。ハンバーグステーキ作るから、手伝ってくれな」
彼の返事はなし。どうしたんだろう。元気もないし、もしかしてフェリックスも風邪とか。慌てて額に手をあてた。でも俺の手が冷たすぎで、よくわからんかった。手袋するのを忘れたせいだ。
「ねえカイト。いつも、パパかママかどっちかしかいない。ママに聞いたら、パパもママも仕事が忙しいせい、っていうだけ」
”人生とはなんぞや”と、難しい顔で、フェリックスは俺を見上げた。
前にも聞かれた事があった。その時は俺はどうやって、なだめたんだっけ?かがんで、フェリックスの肩に手を置いく。
「フェリックス。俺も、両親が働いてたので、夕食時に父親がいない事は、よくあった。今は日本の家族には、常に俺がいない」
彼は、まだムッツリしてる。学校で何かあったのかな?こういう時、どこまで訊いていいものだか、いつも迷う。
香澄さんもクラウスも、彼の気持ちを、知ってるとは思うのだけど、こればかりはどうしようも。
「今度、4人で、レストランへ食事に出かけよう。言っておくから」
やっと笑顔が少しだけ戻ってきたフェリックス。でもすぐ”それは言うだけ無駄”って、あきらめの顔になった。子供だけど、現実はわかってるのかも。
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案の定、夕食でフェリックスは、気分が悪くなって、食事を殆ど残した。オレンジジュースを少し飲んだだけで、ごちそうさんだ。
熱を計ると、37度4分。ううん、微熱?。フリードはインフルだそうだけど、この熱ならフェリックスは風邪かな。クラウスは慌ててフェリックスを医者に連れて行った。
俺は香澄さんに熱の事をメールしたけど、返信がなかった。仕事中なのだろうけど、仕方なく、直接、電話した。香澄さんは、夜にミュンヘンに到着したツァー客と、ホテルに向かってるそうだ。フェリックスが熱を出した事を伝えて、電話を切った。メールを確認するヒマもなかったようだ。
クラウスが、フェリックスをオンブして、なんだかガックリして帰って来た。主治医のリンツ先生の処に行ったんだけど、ただの風邪じゃなかったのか?
「参ったよ。リンツ先生に、怒られた。親のくせに子供の健康状態をわかってないと。」
「なんか悪い病気の兆候とか?」
「いや。今回はただの風邪の微熱で、栄養をとって寝れば治ると。解熱剤をもらった。熱が8度以上になった場合に使えと。それよりも、フェリックスは貧血で、身長・体重も年齢の平均値より下だそうだ。ちゃんと食事させてないんじゃないかって、先生に疑われた。」
ああやっぱり。フェリックスは好き嫌いも多いし食も細い。身長体重は、個人差としても、貧血はまずい。虐待とか疑われるかも。
「とりあえず、2階で着替えさせて寝かせる。すまんが、ミネラルウォーターを冷蔵庫から持ってきてくれるか?」
クラウスは、背中で寝入ったフェリックスを起こさないよう、慎重に2階に上がっていった。
水を持って上がると、フェリックスは、寝てて、少し顔がが赤かった。俺は下で皿洗いしないと。クラウスはアテに出来ないし。
香澄さんが到着した。9時まで仕事といってたけど、今、9時5分だ。多分、仕事を強引に切り上げたのだろう。
「風邪は、たいしたことないようです。それより貧血だそうです、フェリックス。クラウスがリンツ先生に怒られたと言ってました」
香澄さんは、コートを脱ぎため息をついた。
「あの子、ああみえて我儘で気難しい処があるの。そういうとこ、父親ソックリ。エリザベトさん以外のシッターさんと、上手くいかない時もあるし。だからつい、一人で留守番する事もあるのよね。私が帰ると、用意しておいた食事を半分も食べてないって事もあって・・」
香澄さんは、最後のほうは少し口ごもり、2階にむかった。フェリックスの貧血の原因は、栄養不足だ。
やれやれだ。フェリックスには二人がついてるから大丈夫。俺は、自室にもどった。途中、二人が言い争う声が聞こえた。もっと冷静になれないのかな?フェリックスが起きてしまうじゃないか。
パソを立ち上げ、セリナちゃんからと札幌のS響指揮者の水野リュージュ氏から、メールが来てた。
そのメールが、俺の進路の分岐点になった。




