6
何も羽織らず、薄着のまま外に出る。
踏み出すたびに霜が崩れて微かな音を僕の耳に届けた。そのまま土を鳴らしてしばらく歩く。頑ななまでに冷たい空気は、吸うたびに肺のなかでごわごわと蠢いた。
いくら深呼吸しても心は平穏とは程遠かった。ざわざわと落ち着かない。
いや……落ち着いてはいる。僕はまだ、平静を装うだけの余裕を持っている。それがほんの、薄皮一枚ほどのものだとしても。
僕の心はまだ、まだ、波立たないでいられる。
ふ、と息を吐く。
眼前に広がるのは碧い湖面。普段なら分厚い氷に覆われているはずの水面に、今は痛々しい亀裂が延びる。
――氷が溶けたら、……春になるんだ。
この世界に四季という概念はなさそうだったけれど、だけど、春は、来るのだろう。この氷もいつか溶けて、さざなむ日が来るのかも。
それは確かに春の訪れなのかもしれないけれど。
目に映る風景に、僕はちっとも春なんて感じない。
ただただ寂漠が占める、空っぽの世界。
誰もいない、空虚な箱庭。
――リーレイが帰ってこない。
予定の日数はもう大幅に過ぎていた。何か……いや、きっと遅れているだけ――滞在期間を延ばしているだけ、そうであってほしい、そう……あるべきだ。
言い聞かせるたびに、疑心と不安が首をもたげる。心が翳る。平静の仮面にひびが入る。
違う……違う違う。
半ば念じるようにかぶりを振る。
ああ、ここが現代だったら。
今すぐにでも連絡を取ろうとするのに。
手紙を出そうにも連絡先を知らない。この世界での手紙の送り方だって……。
ぞわり、と胸の奥が冷える。
――僕は、この世界のことを何も知らない。
最初は、興味がなかったから何も知ろうとしなかった。
その後は、守護者なんて僕に関係ないと、無理矢理耳を塞いでた。
それでも彼女は話してくれたけど、それはほとんどお伽話のようなもので――
確かなことは、何ひとつない。
僕はおののいた。
真っ暗な底なしの穴に落ちるように、急激に血の気が引く。
ここは、何処なんだろう。
本物の異世界?
それとも――
――僕の、ゆめ。
毎日変わらない景色も、どこか似た道具や料理の類も、……彼女も。
全部全部、僕の、
僕が――
”周の夢に胡蝶となるか
胡蝶の夢に周となるか”
どこから夢を見ていたのか判らない。
夢も現実も、違いなんて……判らない。
「目が覚めれば……僕は」
現代に、元の世界に戻るのだろうか?
不意に耳元で風が吹いた。
「――ふざけるのも大概にしろ!」
はっ、と振り向く。
誰だ。この世界には僕と彼女しか居ないのに。居ないはずなのに。
目に飛び込んできたのは、冴え冴えと光る金髪。銀色の、鎧。
「言うにことかいて『目が覚めれば』、だと!? まだそんなことをのたまうのか!」
「なっ……」
誰だ、この人。
激昂してまなじりを吊り上げる目の前の女性は、格好がおかしい。明らかにおかしい。
面識もない。
いや、……そう、森で何回か見かけた人物。僕と彼女以外の、この世界の住人。
ていうかいきなり怒鳴られる意味がわからない。ついでに言ってる内容もわからない。
長い金髪を翻して、その女性は足早に僕へ歩み寄る。青い瞳を燃え上がらせて。
僕は突然のことに硬直したまま――
ぱあん、と痛烈な音が、空に鳴り響いた。
それが、頬を打たれた音だと気付くのに、僕は数秒を要した。
打たれたのは……僕の頬。
そして、打ったのは――。
金髪の女性は茫然と見つめ返す僕の胸倉を、乱暴に掴んだ。
「夢やまやかしなどではない。たとえお前が認めなくとも! 信じようとしなくとも! 我々は現にここで生きているんだ! 確かにここに在るんだ! 我も……お前も、リーレイも」
投げるように僕から手を離し、
「いい加減、自分が何者なのか自覚しろ」
冷たい風が、女性の髪飾りを揺らして遊ぶ。風なんて、吹くことはなかったのに。どうして。
「……誰」
やっとの思いで、それだけ訊く。
金髪の女性は、腰に手をあてた高慢かつ高圧的な態度で、その名前を口にした。
「我が名はメディテイト。メディテイト=ユーシェ=ユティカ」
かきあげた金髪が風になびく。雫の形をしたいくつもの髪飾りが軽やかに鳴る。
睨みつける青い双瞳。
白い肌もあらわな、薄物のドレス。
そして、それらを覆う、あからさまに不釣り合いな銀色の鎧。美しい曲線を描くそのフォルムは、無骨さのかけらもない。
再び、冷たい風が僕の肌を刺す。じんじんと痺れる頬に、それは心地良い。
女性は続ける。
「この地を護る守護者〈ガーディアン〉。五つの楔のうち、天空を統べる者」
――守護者。
彼女以外に、本当にいたんだ……。
呆けた頭が、ゆっくりと回り始める。
ほぼ敵意に近い、金髪の女性――メディテイトの視線を僕はどこかぼんやりと受け止め、
「……この地を、護る?」
尋ねた。
だって、ここには、彼女もいたはずで。それならば。
「リーレイの場所は本来ここではない。この、時空の森と北の扉は我の守護するもの。……リーレイのいるべき場所は、もっと南の、美しいところだ」
呟くようにメディテイトが応える。
リーレイ。
きっと目の前の守護者は知っている。
そんな確信が胸の裡に湧く。
彼女の……リーレイのことを。
僕は、訊かなくちゃならない。
「……彼女は」
守護者は少しだけ目を眇めたけれど、逡巡はしなかった。
抑揚のない声で、簡潔にその答えを口にした。
「リーレイは、死んだ」
――僕は、目を見開くことしか、出来なかった。
「………………うそ」
出来損ないの吐息のような、かすれた声。
嘘だなんて、言ってほしかったわけじゃない。そんなの、気休めにもならないことを僕は知っている。
だってそうじゃないか。その可能性を、僕は、僕だって、考えたんだ。そのたびに打ち消した。見ない振りをした。
結局僕は、目を背け続けて、また逃げただけなんだ。意識しないようにとすればするほどそれは増幅して。駄々をこねる子どものように、突っぱねていただけ。
その証拠に、ほら。
僕は全然、驚いていない。
僕の身体を打つのは衝撃。それと、ほんの僅かな納得。
ああ、やっぱり。
やっぱり、彼女は――たんだね。そんな気が、本当はしていたんだ。
何故かは判らない。判らないけど、
僕はそれを識っていた。
そう、識っていた。
微熱を帯びる左目。眼球をえぐり出して掻きむしりたくなるほどの疼きが、言いようのない既視感を僕に突き付ける。
なんだ、この感じ。僕の裡からこみあげる、この圧迫感。
「お前のせいで、リーレイは死んだ」
守護者の言葉が硬い波となって僕を打つ。
……なんだって?
一瞬耳を疑った。
よほど呆けた顔をしていたのか、メディテイトは冷たい目で僕を睥睨して、
「お前がリーレイに、期待など持たせたから!」
……期待?
「……何の」
彼女が僕に期待なんてするはずないじゃないか。僕は、なんら特別でもないただの高校生なのだから。
ああ、でも。
半分閉じたまなうらにあの日の彼女が蘇る。
『葉月はアースマスターに違いないの』
嬉しそうにそう言った彼女は……、あれは。きっと本気で。
お伽話より、現実味のないことを。
世迷言にすらならないような、そんな大それたことを。
本気で、信じていたの?
――僕が、あなたの未来を、変えると。
愕然と目を見開き、よろよろと膝をついて僕はうなだれた。
まいったな。本当にそう思っていたなんて。彼女らしいと言えばらしいけれど、と微かに苦笑う。強張った口元が緩んで、深い吐息を漏らした。
ねぇ。賭けは僕の勝ちだったね。
結局僕はやっぱり、何者でもなかった。
この世界を変えるアースマスターでもなければ、ましてやあなたを救う、たったそれだけのヒーローでもなかった。
そう。なにもかも、その通り。僕が再三再四、主張していた通り。
けれど、本当は――
「リーレイは、アースマスターが来ることを切に望んでいた」
目の前の守護者はその眉根に憂いを乗せて語る。
アースマスター。この世界を統べる、異世界からの召喚者。救世主。未来を選ぶ者。
そして彼女が、邂逅を待ちわびていた者。
「……それは、僕じゃない」
――僕じゃ、ないんだ。
噛み締めるように呟く。口にした言葉は、とても苦かった。
メディテイトの声音が再び怒気を孕む。
「おかしいと思ったのだ。召喚出来るのはこの国の王女だけ。だがあの王女が召喚するはずないんだ。だと言うのにお前は現れた。王女ではなく――リーレイの元に」
「……たまたま彼女が居たんだ。あのとき、あの扉の前に」
ともすればぐらつきそうになる極度の眩暈にどうにか耐えながら、僕は必死に、偶然だ、と譫言のように繰り返す。
たまたま。偶然。因果なんてない。
そうであってくれないと。
僕は――もし――彼女が。もし、偶然などかけらもなくて、僕がここに来る契機を作ったのが彼女だとしたら。
それじゃあ、僕は、何も……何も出来なかった? ……彼女が望んだことも、彼女と交わしたささやかな約束も、何も、果たさずに、彼女は――たの?
「リーレイが待っていたのはアースマスターだ。だがお前は違った」
どうしてだろう。今はその事実が心から憎らしい。
「そんなこと、リーレイだってすぐに気付いたさ」
「……え?」
僕は僅かに目を瞠る。
俯いていた顔を上げて見たメディテイトは、遠い異世界の住人でもなく、伝説めいた守護者でもなく、ただの、友人を想う、ひとりの女性だった。
やるせなさをあらわにしてメディテイトは僕を詰り続ける。
「当たり前だろう。アースマスターとなるべく召喚された者を我々が間違えるはずがない。言葉など要らない、ただ判る」
まるで大事な宝物を取られた子どものような顔で、メディテイトは再び僕を打ちのめした。
「そしてお前はアースマスターじゃない」
何度も言われなくったって解ってるよ。誰よりも僕が一番解ってるよ、そんなことは!
だからあれほど「違う」と主張していたのに、あの人は全く聞く耳持たなくて、いつも……いつも過剰な期待を僕に押し付けて。
嬉しそうに、笑っていた。
春のように、ほころぶ花のように柔らかな微笑みを、僕に向けるんだ。
「彼女も……判っていたの」
問うた声音は微かに震えを帯びていた。
吐き捨てるようなメディテイトの答え。
「もちろんだ」
「いつから」
「我には判断しかねる。が、お前がアースマスターではなかったと我に話してくれたとき、お前は臥せっているとリーレイは言っていた」
――なんてことだ。
じゃあ、初めて僕に守護者の話をしたあのときにはもう、彼女は真実を知っていたのか。僕がアースマスターじゃないと知っていて、なのに僕とあんな賭けをしたのか。
……どうして。どうして!
あなたが何を思っていたのか僕にはもう解らない。絶えず浮かぶのは疑問符ばかり。知らずに握った拳が霜降りの土を削った。かじかむ指先が次第に感覚をなくしていく。
どうして、僕に、あんな話をして、大事な魔力石まで見せて、
「……どうして」
僕は、あなたの望みを叶えられるような、大層な人間ではなかったのに。
零した言葉は風にさらわれた。
風なんて、なかっただろう。一度も吹かなかっただろう。何故今頃、枷を解かれたかのように冷涼な空気へ塗り変えるんだ。
まるで、――まるで、僕と彼女の時間がこごった澱だとでも言わんばかりに!
さらわないで。溶かしてしまわないで。じゃないと、僕は、縋るものが何ひとつ無くなってしまう。まやかしではないというなら、確かな事実を見せて。この手に、掴ませて。
――真実を。
彼女の真実を……受け入れるだけの、力が。
どうか。僕に。
あったら。
もう、なくしてから悔やむのは、嫌なんだ。
視界が揺らぐ。意識が遠のく。定まらない瞳が捉えたのは、やっぱり厳しい顔つきのままの守護者で。
深層から湧き上がる何かが僕を捕まえた。
『――汝に問う』
またあんたか。問われても僕は何も知らないんだよ。気付きもしなかったし、知ろうともしなかったんだよ。
頭のなかに響く声は誰かのものによく似ている。でも誰なのか思い出せない。
左目が熱い。頭を抱える。耳鳴りがする。金属が擦れ合うような硬質の音が僕を苛む。止まらない既視感。
いや、そうじゃない。
これは――既知感。
僕は、識ってる。
この問いの答え。是非を。
僕は、確かに、識っている。
『汝に問う』
そう、それは僕の声。
他の誰でもない、僕自身の声。
『我の名は?』
自分で自分に名前を訊くのはなんだか変な感じだ。
けれどそれは必要なこと。
メディテイトは僕に「自分が何者なのか自覚しろ」と言った。
すなわち、確認、認識、許容、そして……――
覚醒の、儀式。
『汝に問う。我の、名は?』
僕の、名前は――
気付いてしまえば、なんてことはないことだった。僕に起きたすべての事象がそれを示唆していた。
僕はアースマスターじゃない。それは紛れもない事実。ならば何故、この世界に――『神隠し』に遭ったのか。北の扉で目にした荒廃した世界と、東海林の謎めいた言葉。
それから――リーレイ。
彼女は何故僕に、アースマスターと守護者の話をしたのか。何故、魔力石を見せてまで僕に守護者という存在について教えてくれたのか。
すべてがひとつとなって、僕にある答えを導かせる。
形を変えた彼女の魔力石。それは約束の証。『僕』と『彼女』の……約束の、証。たとえ彼女がもういなくとも、無期限に永遠に果たされる、唯一無二の契約。
だからあの魔力石は、『鏡』になった。
あのとき呟いていた、彼女の台詞が記憶の奥底から浮上する。
『葉月……君はやっぱり、守護者なのね』
……知っていたなら、教えてくれたって良かったじゃないか。言われたところで、あの頃の僕が真面目に聞いたかどうかは保証出来ないけれど。
それとも、……それとも。ほんの少しだけ、自惚れていいなら。あなたは、僕のことを、心配してくれていたの……?
いろんなものを失くしたと、彼女は言っていた。守護者の力のせいで、大好きな妹とも一緒に暮らせずに、こんな冷たい場所で独りで。
同じことが僕の身にも起こるのかと、憂いていたのだろうか。……もう、今となっては知る由もないことだけど。
それでも、彼女は僕に守護者の在り方を教えてくれた。どうすべきか教えてくれた。
『守護者は、護りたいものを護る為にいる』
ねえ。僕は何も持っていないんだ。あなたのように、失って嘆くものはもう何ひとつ残ってないんだ。
だから、恐怖はないよ。
何も知らずにこの世界への扉を開いたときとは違う。
僕は、何も持ってないと、捨てるものなど何もないと自分に嘯いて、騙し続けて、本当に大事なものを、やすやすと手放したあの頃。そしてそのことにすら気付かず、今度はあなたを失った。いとも簡単に。
僕の両手は空っぽだ。ただ、零してしまった宝物を想って自責の念に囚われるだけ。そう、それだけ。今さら引き換えに失うものなど何もない。
だから、迷いは、ないんだ。
もう見ないふりはしないから。今まで見なかったぶんも、目を逸らしたぶんも取り返すほど。これから起こる未来も何もかも。
すべてをこの目で識る力を。
僕は欲する。
『汝に問う。我の名は……?』
――あなたとの約束は、果たします。いつになっても、いつまでかかっても。
……それしか出来なくて、ごめん。
その為に。
僕は僕を、受け入れる。
うずくまったまま、唇にその名を乗せる。日本人には少し発音しづらいはずのその名前は、何故かとても心に馴染む。
まだ誰も知らない僕の名前を、一陣の風が掬うようにさらっていった。
ひやりと冷気が身体中を伝う。それは左目から、爪の先までくまなく。突然の低温に僕の身体は一気に収縮して、そして、
――瞬く間に沸騰した。
「……っ!」
熱い。左目が熱い。たまらずおさえたはずの掌には不思議なことに熱が伝わらない。
違う、熱いのは中だ。身体の、なか。内臓の、奥底。
――溶ける。
どろり、と熔岩のような感触。灼熱の痛み。眼球が煮沸しているかのよう。それは次第に降下して、喉に溜まる。高熱の異物に喉が悲鳴をあげているのが判る。熱い。熱い熱い熱い!
漸く吐き出した息は蒸気のごとき熱さで唇を灼いた。あまりの苦痛に僕は地面に倒れ伏す。冷たいはずの霜柱が一瞬にして形をなくしていく。土にまみれるのも構わず痛みと熱さに喘ぐ。
放熱する喉の異物。泥のような、ゼリーのようなそれを、ごくん、と嚥下した。
瞬間、身体中に激痛が走る。ばきんと、立て続けに響く、何かが折れる嫌な音。
「――っ!?」
悲鳴すら声にならない。いっそ意識を手放した方が楽なんじゃないかと思い、でも考え直して、どうにか気を保つ。
さっき決めたばかりじゃないか。目を、逸らさないと――。この痛みのすべてを僕はずっと覚えておくんだ。
苦しくて息が詰まる。咳込む。神経が。筋肉が。容赦なく引き裂かれる。痛い。熱くて痛いのか痛いから熱いのかすら判別出来ない。絶えず襲いくる激痛。
「お前……っ、そうか、魔力石が――」
メディテイトの台詞が耳をかすめる。微かな驚愕に彩られたその声音は珍しく険がない。
何に、驚いているの……?
荒い息で僅かに顔を持ち上げた。全身が怠くて鉛みたいに重い。気のせいだろうか、目に入る両腕から燻る煙に似た水蒸気が立ちのぼっている。見間違いだ、そんなこと、あるはずない……。
金髪の守護者は愁眉を寄せて僕を見下ろしていた。今さら気遣い……のつもり?
駄目だ、思考回路が完璧に錆びついている。
ぼんやりと霞む視界は何故か普段より狭くて曖昧だ。どうも距離感がおかしい。高熱に冒される身体が水を欲して喘ぐ。すぐ目と鼻の先に広がる湖。大半が分厚い氷に覆われた、その水面を掴もうとして、右手が頼りなげに空を切った。あがくように手を伸ばすも、力尽きて水面を叩く。ぱしゃん、と水飛沫が踊り――
氷が、一瞬にして融解した。
一拍遅れて発生する大量の水蒸気。湿った風が居場所を求めて走り去る。おそらく生温いそれに頬をなぶられながら、なんとか上半身を起こす。とうに痛覚は麻痺してしまった。冷たいのか熱いのかも判らない。ただ息だけは荒くて、その呼吸音のせいか胸の鼓動も感じ取れない。
湖面を覗き込む。せわしなく波打つそこには映しとられた色だけがただ散乱する。
青光りする鋼線のような僕の髪がぱらぱらと肩から流れてまた水面に波紋を作った。長いその髪はさながらカーテンのよう。
次第に視界が元の広さを取り戻す。
「…………」
澄んだ硬質の音が耳元で、胸元で響く。まるで、重いビー玉を打ち鳴らしたような。
まだ息は整わない。
今までの暴威は何だったのかと思うほど、左目は静かに自らの役割を果たしていた。違和感なんてどこにも見つけられない。
少しずつ戻ってきた感覚に、ふと馴染みのないものが加わる。
ゆっくりと回復する思考。
それに伴うように鎮まりゆく湖面。
透き通ったその水鏡が鮮明に映し出す。
最後の、守護者の姿を。
****
「そういえばさぁ」
夕暮れ時にひとり、家路をたどりながら東海林がおもむろに呟く。黄昏の名にふさわしく、すれ違う人影はどれも薄闇に溶けて正確に判別出来ない。鮮やかに咲き誇るつつじの垣根が歩道に沿って延々と続いていた。
まるで無限にループする回廊のようだ、と東海林は何とはなしに思った。
そのまま誰に聞かれるでもない独り言を続ける。
「俺、お前に夢の話したよな。未来のじゃなくて、寝て見るやつ」
少しだけ夏の匂いを含んだ春風が、相槌を打つかのように垣根を揺らした。
「なんかさぁ、よくあるRPGみたいな変な世界で、理由もなく襲撃されたり、神器探してあちこち行ったり、戦争に巻き込まれたりして……」
訥々と語られるその声音はどこかうら寂しい響き。
「出会う奴らも変わった奴ばっかでさ。アリックスは口うるさいくせにお人好しだし、ライは小生意気なガキだし、えげつない軍人とかその子分とか……」
そこで一瞬口をつぐみ、東海林は懐かしむように遠くを見て、
「無愛想でつっけんどんな守護者とかさ」
諦めにも似た苦笑いを浮かべた。
「……夢の話じゃないんだ。本当は。お前に言っていいのか俺けっこう悩んだんだぜ。でもお前見てたらどうしても話したくなったんだ。バカにされても、信じてもらえなくても、……聞いてほしかったんだ」
呻くように、懺悔するように、東海林はその名を呟く。
「――篁」
もうこの世界には居ない親友の姿を思い浮かべる。
何に対してもドライで、関心がなくて、いくら明るく話しかけても返ってくるのは大半が素っ気ない返事。来る日も来る日もつまらなさそうな顔して窓の向こうを眺めていた、彼。
まるで、自分の存在する場所に何か違和感でもあるかのように。
それほど違う世界に、異世界に行きたかったのか、その心中を知る術も機会も、東海林は失ってしまった。
手持ち無沙汰に触れたつつじの花弁に指を滑らせながら、東海林はそこに居ない親友に向かって語りかけた。
「……約束、覚えてろよ。だってお前あのとき、」
俺のこと、名前で呼んだんだぜ――
朧げになりゆく記憶に、今となっては聞き慣れた、しかしもう聞くことのない声が明瞭に蘇る。
それはあくまで淡々と、抑揚なく。何の気概すらもなく。
呼びかけられた、教えていないはずの自分の名前。
それきりその守護者は、使命は果たしたとでも言わんばかりに、東海林の名前を呼ぶことはなかった。
あれきり。たった一度だけ。
忘れたりしない。ずっと覚えている。
夢と言うにはあまりにもリアルすぎる、大事なあの思い出と共に。
****




