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EARTH‐MASTER ―篁 葉月編―  作者: 早藤 尚
4/15

 リーレイの家は湖畔にこぢんまりと建っていて、周りにあるものといえば、湖の他にはただただ視界いっぱいに森が広がるだけ。あとは、頭上を頼りなく覆う薄い空。

「ここには、あなたの他に人は住んでいないの?」

 相変わらず風は吹かないけれど、まるで人が住み着くのを嫌うように、外の空気は痛いほど冷たかった。

「友達がいるわ。ひとり。でも彼女以外には誰も住んでないわね、この辺りは」

 霜の降りた地面をしゃくしゃく踏み鳴らして、リーレイは後ろの僕を振り返る。

「住むにはあまり適してないのよ」

 多少の苦笑いを浮かべ、彼女は再び前を向いて僕を先導する。件の、『扉』のもとへと。

 ――住むにはあまり適していない、か。

 ならどうして、彼女はそんな場所に、友達が居るとはいえ独りで暮らしているのだろう。妹がいると、一緒に暮らしたいと言っていたのに?

 判らないことだらけだ。

 僕はかぶりを振って、思考を切り替える為に、眼鏡のブリッジを指で押し上げ――ようとして、今は眼鏡をかけていないことに気付いた。

 ……そういえば、あっちの世界に置いてきてしまったんだっけ。こっちには着の身着のままで来たから、僕の荷物はないに等しかった。

 でも、そんなことどうだっていい。眼鏡がないと日常生活に支障をきたすほどではないから、別になくても構わない。

 ただ、……眼鏡をかければ、この目に見えるすべてのものと、距離がおける気がして。

 そんな、他愛もない理由でかけていただけだから。

 ……いつだったか、僕が眼鏡かけた姿を見て、東海林がくだらないこと言ってたな。女子に人気があるとかないとか……。

「――葉月」

 突然の呼びかけにぎょっとして顔を上げると、物凄い至近距離にリーレイの顔があった。思わず僕は後ずさる。

「葉月は、元いた世界が嫌いなの?」

 底の深い、緑の瞳が僕を捉えた。

「そ――んな、ことは……」

 ない、とは言えない。

 ただ……。僕は、僕が生まれたあの世界を、一度も嫌いだと思ったことはない。

 矛盾している。いや、矛盾、ではなくて。

「ただ、興味が……なかっただけで」

 僕の瞳に映る、ありとあらゆる森羅万象に。ほんの一欠片も、僕の心は揺るがなかった。

 無意識に目を逸らした僕を、リーレイはしばらくじっと見つめていたが、不意に僕を視線の拘束から解いて、

「そうなの」

 哀しそうに呟いた。

 そんな彼女を見ていると、何故だか胸が痛む。……ような気がする。

「じゃあ、葉月はこの世界のことは好きかしら?」

 屈託のない笑顔。僕の心情などお構いなしだ。

「好きか、と訊かれても。まだ僕はこの世界のこと、何も知りませんし」

「――じゃ、わたしのことは?」




 数日ぶりに目にしたやたら巨大なその扉は、今こうして目の前に立ってみてもやはり、青いネコ型ロボットが出すアレにしか見えなかった。後ろを覗いてみたい衝動にかられるけれど、今はなんとか抑えておくことにする。

「ここを開けたらどこに繋がっているのかしらね」

 僕の後ろ、少し離れたところに佇むリーレイは、さっきのことなんてまるで何もなかったように無邪気に扉をしげしげと眺めていた。

 ここを開けたらそこはきっと僕がいた世界なんだろう。特に楽しくもない。

 けれどリーレイは妙にはしゃいでいて、僕はそんな彼女を呆れ半分諦め半分で眺め遣る。

「? なぁに?」

 下から覗き込むように顔を近付ける彼女から僕は僅かに身を引き、「別に」とだけ答えた。

 そしてそのままリーレイに背を向けて、改めて謎のうさん臭い扉と対面したけれど、正直そのときの僕は目の前の巨大な扉なんか見ちゃいなかった。

 ああ、なんだかとても……とても、動揺している。心がざわついている。そんなことに気をとられている僕自身にいらいらして堪らない。

 何より、あのときのリーレイの言葉を真に受けてしまったことにどうしようもなく後悔、している。




「じゃあ、葉月はこの世界のことは好きかしら?」

「好きか、と訊かれても。まだ僕はこの世界のこと、何も知りませんし」

「――じゃ、わたしのことは?」




 僕は文字通り固まって動けなくなった。そんなこと、本当にあるんだと思った。脳の伝達機能がフリーズしたみたいな感覚だった。

 ただひとつ、彼女から逸らしたばかりの瞳が、再び彼女を凝視したことを除いて。

 ああいうときは思考回路もストップするらしく、一言も言葉を発しないままの僕の双眸には、何故かまごつくリーレイの姿があった。

「えっ……と、ど、どうしたの葉月」

 ――どうしたもこうしたも。僕にだって判らない。

「……もしかして葉月、わたしのこと嫌いなの!?」

 潤んだ瞳で問いかけるリーレイに、僕はたぶん顔を青くして黙りこくっていたように思う。こんな事態にもかかわらず、ああ、言葉を失うってこういうことなんだと、妙に納得してしまった。

 僕が肯定も否定もしないので、リーレイはひとりで勝手に「僕に好かれていない」と思い込んだようだ。そう思い込まれても、……困るような、困らないような。

 リーレイはしょぼんとした面持ちで、どこか不満げに呟いた。

「……わたしは、好きになれるものが増えて、嬉しかったのに」

「……………………」

 ……どういう意味?

「好きなひとや好きなものがたくさんあったら、その分だけ毎日が楽しくなるって、わたし思ってるの。笑顔が多くなるでしょ? だからわたし、そういう意味でも葉月に会えて嬉しかったんだけど……」

 そんなのわたしだけよね、とどこか寂しそうにリーレイは笑った。

 その頃にはもう、僕と彼女の間に生まれた多大なる語弊に気付いて、僕の身体は硬直から開放されていた。

 喜ばしいこと、なのに何故か僕は落胆を隠せない。

 そんな僕には気付かずに、彼女はさらに言葉をつぐ。

「それはそうよね、初めて会ったばかりの君に、とんでもないお願いしちゃったんだものね。……わたしのこと、嫌いかしら」

「……いいえ」

 それは限りなく本音に近い返答だったのだけれど、リーレイは極めて額面通りに受け取ったようだった。

「ふふ、ありがとう。本音じゃなくても嬉しいわ。それともやっぱりお世辞?」

 にこにこ笑う彼女を目にして、同じ言葉を二度繰り返す、それだけのことがこんなに難しいものだとは思わなかった。

「いいえ」のたった三文字すら口に出来なくて。

 それでも、何でもいいからその場しのぎで適当に言えば良かったんだ。

 そうすれば、あんな寂しそうな笑い方させずに済んだかもしれないのに。

 僕は苦い顔で下を見る。

「早く行こう。……日が、暮れるから」

 平凡すぎる理由を盾に、彼女の脇を通り越して先を急いだ。

「でもわたし、葉月は優しいと思うわ。――だから、好きよ」

 ……最後の一言だけ、何故か耳について離れなかった。

 そして話は、冒頭の場面に戻る。





「葉月、さっきから何か変よ?」

 不思議そうに、心の底から不思議そうにリーレイは首を傾げた。

 それに僕は無言で一瞥を返して、いささか乱暴にドアノブに手を触れる。ひんやりと、冷たい金属の感触が手のひらに伝わる。

「……」

 回そうとしてもノブは回らず、どうなっているんだろうと僕は視線を上げて――

 次の瞬間、世界が変移した。


 轟々と風が唸る。砂が舞う。

 荒涼とした大地のそこかしこに点在する軍用車の数々、しかしその大半はぼろぼろと崩れ落ちてもはや原型を留めていない。

 時折悲鳴のような音が耳をつんざく。

 ――これは、何だ。

 空高く伸びた針葉樹。その頭上に塗られた薄い水色の空。風もなく音もない、冷えた土地。ここ数日ですっかり見慣れてしまった、あの風景はどこだ。

 ここは僕が知っている場所じゃない!

 動転して頭を振った拍子に、風に飛ばされた砂が口のなかに混じる。じゃり、と嫌な感触がするそれをたまらず吐き出して、僕がもう一度、辺り一面砂色の景色を見上げると、再び世界はその姿を変えていた。

『……に問う。我の…は――』

 頭に声が響く。ざらざらと、ノイズに塗り潰されるように、それは途切れた。

 次に見えたのは、巨大なきのこ雲。それから、崩落する大地。瞬く間に地面に亀裂が走り、まるで風化した粘土細工みたいにたやすく剥がれて海に沈みゆく。

 僕はもうまともに立っていられなくて、ふらふらと膝からくずおれた。

 見れば足元は地面ではなく、真っ黒い何かが敷き詰められている。

『汝に問う。――我の名は……』

 うるさい。煩わしい。

 僕に話しかけないでくれ。――誰も、何も。

 要らないと、思っていたんだ。

 いつの間にか僕の周りは黒一色で埋め尽くされ、床に手をついていないと右も左も、上も下も判らない。

 ここは何処。何処。

 楔が抜かれる。均衡を失って――。

『汝に問う。我の名は?』

「知らない……。お前なんか、知らない」

 漸く発した声はがらがらで、喋った僕の方が驚いた。

 終わりのない暗黒の視界に、僕の声だけがこだまする。

 他人の名前なんてどうでもいい。だから、

「僕の世界を、返せ」


 ――ゆらり。

 その言葉を発した途端、僕を中心に波紋が生まれた。綺麗に円を描いて幾重にもひろがり、そのたびに僕を取り巻く闇色は薄くなっていく。

 僕を喚ぶのは誰。

 想いが、さざ波のように僕のなかに響いて鳴りやまない。

『あなたが決めて』

『これは楔なんだ。――この世界を支えるための』

『私が護りたかったものは、こんなものじゃない!』

『……僕はずっと"約束"する。約束を護り続けるから』

『守護者になんて、なりたくなかった』

『欲しいものは自由で、それ以外何も要らない。その為にオレは世界を変えるよ』

『わたしが! お姉ちゃんの代わりになるから!』

『――どうか、もう解放して』

『それでもあたしは、笑って生きて死ぬわ』

 とめどなくとめどなく。それは流れ込んでくる。僕は頭を押さえてうずくまり、飲み込まれないようにするので精一杯だ。

 痛い。頭が、心が、身体すべてが。

 それでもなんとか目を開いて、ぼやけた視界に映ったのは……、少年がふたり。僕と同じ年頃の、ひとりは眼鏡をかけて穏やかそうな、もうひとりは平凡で、どこにでもいそうな――全く知らない人達だった。

 僕はその人達を見たことも聞いたこともない。けれど、彼らが着ている服には見覚えがある。

 それは――、僕の高校の、制服……。

 薄墨を流したような景色に、白い亀裂が走り、甲高い音を立ててそれは砕け散った。彼らの残像と、共に。

 ああ、眩暈がする。

 凄まじい情報の奔流に、僕の意識が耐えられなくなりそうになったとき、また違う声が、聴こえた。

『よし、決めた』

 遠のきそうだった意識が一瞬にして覚醒する。耳に覚えのある、この声……!

『――俺がお前のヒーローになってやる』

 その瞬間、見慣れた親友の姿が陽炎のように浮かんだ。

「しょう、じ……」




「なぁ篁。次に会ったら俺のこと名前で呼んでくれ」

「……」

 僕は物凄く嫌そうな表情をしてみせるけど、東海林にはまったく通じてないみたいだった。

「約束だぜ。まじで名前で呼べよ?」

 観念して僕は渋々口を開く。決して了承したわけじゃない。

「次って、いつ」

 そう訊くと、やけに大人びた表情で東海林は笑った。

「『次』は『次』だよ」




 ――東海林。僕は気付いたんだ。

 僕はあんなに世界を――君のいた世界さえも、捨てたくてたまらなかったのに。

 要らないと、捨てたのに。

 さよならを告げたその口で、もう一度世界を望むんだ。

「僕の世界を、返せ」

『我の名は……』

 引き留めるように響いた声は、最後まで聞き取ることが出来なかった。




 右の頬が冷たい。いや、全身……というよりは、身体の右側半分が、冷たい。そして微かに土の匂い。しゃりしゃりとした霜の感触。

 今度はどこだろう。ここはどんな世界なのか。謎の声はもう聞こえないけれど、思考するのがとても億劫だ。

 それでも僕は起きなければならない気がして、重い瞼をなんとか開く。

 最初に手が見えた。地面を握りこむように手をついているせいで土まみれだ。

 僕は目だけを動かして、視線を上に――僕にとっては左に向ける。

 長い亜麻色の髪。すっかり見慣れてしまった、彼女の顔。

 リーレイが、冷たいであろう地べたに座り込んで僕を見ていた。僕より年上のはずのその顔は、今は憂いに歪んでいる。

 一体僕はどのくらいこうして寝そべっていたのか、下にした肩が痛かった。

「……、」

 呼ぼうとしたら、上手く声にならなくて、ただ呼気だけが空気を震わせた。

「……葉月?」

 ひどく心配そうな声音でリーレイが僕の名前を呟く。

 僕は困ってしまった。まだ上手く頭が回転しないうえに、こんなときどんな言葉を口にすればいいのか判らない。

「えっと……、おはよう」

 言ってはみたけれど、地べたに寝転がったまま言う台詞でもないと思う。

 とりあえず僕は、少し笑って、

「――!?」

 心底慌てた。

「なっ……、なんで泣くの?」

「だって、葉月、ずっと起きないんだもの!」

 リーレイの瞳から堰を切ったように溢れ出す、大粒の涙。

 僕は半身を起こし、

「でも、もう起きたけど」

「死んじゃったかと思った!」

「いや、生きてるから……」

 勝手に殺されても困る。

 リーレイがまだ座り込んだままなので、仕方なく僕も冷たい土のうえに座っている。なんとなく、叱られている気分になった。

「わたし、葉月の名前をずっと呼んでたのよ!」

「……ごめん、聞こえなかった」

「いきなり倒れて、呼んでも返事がなくて、目も覚まさなくて、――わたし、本当に心配したんだからっ!」

「……ごめんなさい」

 頭を下げると、土まみれのリーレイの手が目に入った。そういえば、どうしてこんなに汚れているんだろう。

 心のなかで首をひねっていると、その手に雫がぱたりと落ちていった。

 もうひとつ、ぱたりと雫。

 雫の出所を辿って視線を上げる。急に静かになった彼女は、声を殺して泣いていた。

「……っ、わたし、護れないかと……思っ」

 泣き顔を隠すように俯いたリーレイの肩が震えている。細い、肩だと思う。

 その両肩を、亜麻色の髪がはらはら流れていき、彼女をいっそうちいさく見せていた。

「…………」

 かける言葉が、見当たらない。

 月並みに、「大丈夫だよ」とでも言えばいいのだろうか。何が大丈夫なのか判らないけれど。

 それとも――、

「…………」

 彼女の髪に触れそうなところまで伸ばした手を、僕は静かに戻す。

 その代わり、まだ鳴咽を漏らす彼女が安定するまで根気よく待つことにした。

 リーレイは僕のせいで泣いているわけだし。でもそれは、果たして僕が泣かせたのと同義なのだろうか。…………。

 もしもこの場に第三者がいたら、きっと僕がリーレイを泣かせたように見えるんだろう。……他の人がいなくてよかった。

 そう思って、息をついて顔を上げたら、リーレイの後ろ少し離れた場所に誰かがいて僕はぎょっとした。

 なんだか、外に出てからというもの、いろいろと仰天してばかりいる気がする。

 それは、長い金髪の、たぶんリーレイと同じ歳くらいの女性だった。おそらく、以前にも森で見かけた人物と同じだろう。

 気温が低いというのに肌の露出が多く、そのうえ変な服を着ていた。変というか、布を何枚も重ねて纏っているような、どこかの映画にでも出ていそうなコスチュームだ。

 僕とリーレイからは離れているけれど、それでも相手の表情が判る程度の距離しか空いていない。

 いつからそこにいたのか、金髪の女性はただじっと僕を見ている。――そう、僕だけを。

 正直、あまり気分は良くなかった。

 何しろ、見られているというより、明らかに睨まれている。睥睨されていると言ってもいい。

 見ず知らずの女の人に睨まれる覚えは、今のところないんだけれど。――ただひとつ、この状況を除いては。

 ――どのくらい、その女性と視線を交わしていただろうか。不意に、大地が蠢いた。微かな地鳴りが響く。

 その瞬間、それまで俯いていたリーレイがびくんと肩を震わせた。

「だ、だめ……!」

 ――ぼこり。

 平らだった地面が盛り上がる。またひとつ。更にひとつ。ざわざわと梢が鳴く。

 鳴動を始める大地に、たまらずよろけて僕は手をついた。

 一体何が。

 問おうとして、涙で濡れたリーレイの顔と見合う。その瞳に浮かぶのは、まぎれもない怯えの色。

「――お願いやめて!」

 悲鳴にも似たリーレイの懇願が響く。誰に向かってなのかは判らない。

 それでも地鳴りは容赦なく僕達を揺さぶり、意志があるかのように弄ぶ。

 リーレイは幼い子どもみたいに、両手で顔を覆ってかぶりを振った。

「痛ッ……!」

 唐突に痛みを覚えて、僕は左目を手で押さえる。土埃でも入ったのだろうか。

 けれどそれに気を取られたのはほんの一瞬で、とにかく僕はわけも判らないままに彼女の手を握っていた。

「――大丈夫だから」

 あとになって思うと、何の根拠があってそんな台詞を言ったのか自分でも判らない。ただそのときは、彼女を落ち着かせたくて、怖がらせたりなんてしたくなくて、僕に出来ることをしただけなのだと思う。

 彼女の細い手を、いっそう力を込めて握る。

 暗い深淵から響くような地鳴りのなか、触れ合えるほど近くにリーレイの深緑の瞳を見た。彼女が目を見開く。

 そのとき、何故か地鳴りが止んだ。大地の隆起もない。静かな、時間。

 束の間、僕と彼女は見つめ合い、やがて彼女は怖々と口を開いた。

「……葉月の瞳、片方だけ……、――金色に見えるわ」

「……え?」

 そんなはずはない。

 僕は一般的な日本人で、その日本人は黒髪黒目が標準装備だ。

 いや、そんなことはともかく、生まれてこの方僕の瞳は黒だった。たとえ黒じゃなかったとしても、さすがに金色なんてことはない。

「……大丈夫なの? なにか混乱してるんじゃないの」

 僕の問いかけにも、リーレイは放心したようにぼぅ、っとしたまま。

 僕は眉をひそめて彼女の反応を待った。

 リーレイは何度かぱちぱちと瞬いて、空いている右手でそっと僕の頬に触れた。

 そして囁くように僕に告げる。

「こっちの目が……金色に見えたの」

 彼女の指が触れているのは僕の左の頬。そっち側の目は、さっき――

 痛みを、覚えた。

 僕は内心ぎょっとしたが、すぐに思い直す。

 あのときは目に土埃が入った。……それだけ。単なる偶然だ。

「今も、僕の目が、……金色に見える?」

「今は見えないわ。いつもの、黒い瞳よ」

 そう答えた彼女の瞳も、いつもの輝きを取り戻し、僕はほっと安堵した。

 僕はゆっくりとリーレイから離れる。

「きっと見間違いだよ。気にしないで」

 まだまじまじと目のなかを覗きこまれているような気がして、たまらず目を伏せた。

 しかしリーレイは納得いかないのか、どこかふんわりした声音で、

「そう……。でも光の加減とかで金色に見えたりするものかしら……?」

と、首を傾げているようだった。

「……」

 僕は恐る恐る、左目の辺りに手を触れてみる。もちろん、なんの変化も感じない。

 けれどそれはびっくりするほど冷たくて、まるで違うものを触っているような、――そう、自分の身体のなかに他人の部位が混ざっているような、不思議な違和感だった。

 これは――僕の、目……で、あるはずだ。

 間違いはない。間違いなんて、ない。

「……帰りましょうか」

 見て、とリーレイはスカートの裾をつまんだ。そして苦笑いを浮かべる。

「わたし達、いっぱい汚れちゃったわね」

 ……確かに、地べたに座り込んだ僕達はそこかしこが土まみれだ。しかも冷たい。

 僕はほんの少し口許を緩めて、「そうだね」と応えた。

 先に立ち上がったのはリーレイで、つられるように僕も腰を上げる。

 ふと思いたって辺りを見回せば、金髪の女性は姿を消したようで、どこにもいなかった。あの人は一体、何がしたかったのだろう。それに――……。

 僕は目の前のリーレイを見遣る。

 さっきの、大地が蠢めくあの現象は?

 それから。

 僕は気を失う前に見た、親友の姿を思い浮かべる。

 ……その声を、僕は何故かとても懐かしく思う。まるで、未練が、あるように。

 リーレイが歩き出す。でこぼこになった地面は少し歩きにくそうだった。

「あ、ちょっと……待って」

「なぁに?」

「いや……。手、を」

 振り返るリーレイに、口ごもって僕は目線を落とした。

 彼女の手を握ったままの、僕の右手。離すタイミングがつかめなくて、今もしっかり繋いでいる。

 彼女はさほど頓着せずに、むしろきちんと握り返して、にっこり微笑んだ。

「迷子になったら困るでしょ?」

 そういう問題じゃない。

 あやうく口から出かかった台詞をどうにか飲み込んで、僕はリーレイと向き合った。

「大丈夫。迷子には、ならないから」

 今日は「大丈夫」の大安売りだ。

 繋いだ手を離そうとするも、リーレイがさらに力を込めてぎゅっと握るので、なかなか離せない。だからと言ってあまり乱暴にも扱えないし、僕はほとほと困って彼女を見た。

「……離して?」

「ダメよ」

 思いがけずきっぱりと拒否されたことに僕は鼻白む。

 リーレイは僕の手を握ったまま、自分の頬に手を添え、ふんわり笑みを浮かべた。きめの細かい、滑らかな肌の感触が僕の指に伝わる。

「だって、葉月の手、こんなに冷たいんだもの」

「じゃあ尚更、繋いでたら冷たいんじゃないの」

 素っ気ない僕の台詞に、リーレイは拗ねたように口を尖らせて、

「そんなにわたしと手を繋ぐのは嫌?」

 答えに窮するような質問を僕に浴びせた。

 僕の視線はしばし虚空をさまよい、

「手を繋ぐ理由がないから」

「答えになってないわ! いい? 葉月、これは二択よ。嫌なの? 嫌じゃないの?」

 詰め寄るリーレイから目を逸らし、観念して僕はぼそっと呟いた。

「………………嫌、ではないです」

「よろしい」

 満足気に大きく頷くリーレイ。

 僕はもはや諦めの境地で空を仰ぎ見る。水色の空は今日も変わらず、薄っぺらい。



        ***



 美術室のドアは、何故かいつも鍵がかかっていない。少なくとも、東海林がこの教室に立ち寄った日は必ず開いていた。

 放課後。

 きっと今日も開いているだろうと思い、東海林は何の躊躇いもなくドアの引き手に手をかける。

 がらり、と人気のない廊下に開閉音が響く。無人の美術室が視界に入る。

 東海林はたびたびここに立ち寄るが、そういえば美術部員の姿を一度も目にしたことがなかった。幽霊部員ばかりなのかもしれない。

 そんなとりとめのないことを考えて、東海林はおもむろにしゃがみこんだ。爪先のすぐ近くに、何かの境界線のごとく、廊下と美術室を隔てるレールがある。

 そう、これは境界線だ。世界と世界を隔離する、境界線。

 不意に、誰かの足音が聞こえた。

「あれ、東海林じゃん。何やってんのこんなとこで」

「よー池椋いけぐら。今俺はたそがれてんの」

 振り仰いだ先にいたのは、同級の池椋。今年は別のクラスになったが、去年一昨年とクラスメイトだった男子だ。

「お前こそこんなとこで何やってんだよ」

「それがさー、運の悪いことに資料室まで使いっぱ」

 池椋は大仰に溜め息をついて、両手に抱えたファイルを見せた。

「災難じゃん」

「そーだよ。早く帰りてぇのにさ」

 ひとしきり愚痴をこぼすと、池椋はしゃがんだままの東海林を覗き込むように上半身を折り曲げ、

「んで、東海林はなんでこんなとこでたそがれてんのさ。失恋でもしたか?」

「あー、それは近い」

「え、まじで?」

「嘘嘘。冗談冗談」

「ちぇっ。なんだよ〜、期待して損した!」

 ぶすくれる池椋を東海林はけらけらと笑い、そして急に真面目な顔つきになって、かつてのクラスメイトを見上げた。

 にやりと、不敵な笑みを浮かべ、

「面白いこと教えてやろうか」

「? なにさ」

 東海林は美術室の床の一点を指差す。

「ここから違う世界に行けたんだぜ」



        *


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