桜の咲けるを見て想うこと
桜の似合う女が好きだ。
私の母はそういう人であった。
何事でも洋風を好んだ母であったが、好きな花は桜だった。そしてその花は何故か彼女の着ている服がワンピースでも、夜会服でも、寝間着であっても、服の一番目立つところにあった。
春になると庭から手折ってきた一枝の桜を文机に置いては悦に入っていた。そんなことをしていては文机が使えませんよ、と皆がいっても、にこりとしたままきかなかった。
結局、亡くなったのも桜の下だった。
父や私が止めるのも聞かず、花見がしたいといい、女中に支度をさせて庭に出た。はじめは病人の前だから皆、遠慮がちにやっていたが、そのうち興が乗ってきて宴もたけなわ、気付いたときには事切れていた。
騒がしいことの大好きな派手好きの人だったから、誰もが笑顔の陽気な中で幸せに逝ったのだと私は思った。
私の初恋のひとも桜が似合っていた。
ただ、彼女は惜しいことに桜が嫌いだった。彼女にしてみれば桜は短命の象徴であり、病気がちの彼女はそれを厭うていた。私はそうは思わなかった。
なんといっても桜の似合っていた母は長命を保ち、幸せに大往生を遂げたのだから。
そして私は彼女を桜の下に連れていった。彼女と桜の組み合わせは素晴らしいもので、私は目眩のするほど嬉しかった。彼女は少し嫌そうな顔をしていたが、それは私の喜びを打ち消すには至らなかった。
結局その恋は成らなかった。何故かはわからないが、彼女の病気がもう彼女を拘束するほどの力を持たないとわかったとき、ふっ、と花びらが散るように私の彼女への思いは消えてしまったのだった。
彼女は今では、桜を詠う歌人として名を馳せている。
私はやがて第二の恋を得た。
否、恋とは呼べない。私は彼女が好きではなかったから。彼女は私が好きで、桜が好きだった。よく私を桜の下に連れていってくれた。けれども彼女に桜は似合っていなかった。彼女は実によく私を好いてくれたが、結局私は彼女を好きになれなかった。
私が彼女から愛を囁かれたとき、私はそれに対して応えるすべを得ず、静かな微笑みをもって拒絶の言葉とした。彼女は強いひとだったから、涙をこぼしたりするような真似はしなかった。
ただ、彼女はこんなことを言った。
あなたは桜がお好きではないですね、と。
彼女はつい一年前に急なことで逝ってしまったから、その言葉の意味は確かめようがない。
今夜私は、庭の満開の桜の下にいる。やはり桜は散っていない方がいい。妖しげに私を包んでくれる。どこか薄紫の、けれども美しい桃色の桜。
母はここで亡くなった。
私は思う。母は本当に桜が好きだったのだろうかと。彼女はただ、桜に依存していただけではなかろうかと。この私を包み込んでいる、この雰囲気に圧倒されて、常に桜と共にあっただけだったのでは。
そして最期のとき、桜に取り憑かれ、誰にも気付かれず桜に吸い込まれた。
さて、それは一生分かることもあるまい。
月光は桜の花びらを通り抜けて私を射している。
私は思えばこれらを愛しいと思ったことがない。私は桜が嫌いなのだろう。
私はいままで桜を見ていた。けれどもそれは女をとおして見たものだった。彼女たちの後ろに厳然と在る桜を見ていた。
私は彼女たちを愛していたのではない。
私は桜を愛していたのでもない。
私には元から愛などない。
在るのはただただ私を圧倒する桜だ。
否、違う。
私は桜だけを見ていたわけではない。
女も見ていた。
桜が取り憑けるような、弱い女を。
しかし私が女を見、桜をそれをとおして見たところで、何があろうか。
…ああ、なるほど。
私は女が桜に頼るさまが好きだったのだ。依存し、取り憑かれ、そして吸い込まれて消える。
桜が好きということは桜から身を離しているから言えることなのだ。
桜に依存しているということは桜と一体だということなのだ。
私の初恋のひとは桜から離れて桜を好きになったから私は彼女への愛を失ったのだ。
私は。
私は桜が嫌いなのだ。
私は桜に身を委ねたから、桜を好きになれない。私自身が桜を頼っているから、同じように桜を頼っているものを私は好いた。これからも私はそういうものを好くであろう。
私は桜の幹にもたれた。まだ桜に吸い込まれる気はしない。しかしいつかは吸い込まれるだろう。私はそれを恐れはしない。母と、そして幾人かの桜に吸い込まれた人びとと一緒になるだけだ。
そのときまではまだ長い。
私は暫く目を閉じて、私を包み込んでいる桜を想った。