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頭の中にダイレクトに響いてくる助けを求める声。
その声に導かれるまま裏庭に躍り出た遥斗はグッタリとした様子のフェルスを肩に担ぐ異形の化物を前に息を飲んだ。
「っ!?な、なんなんだ……こいつ!?」
裏庭に突然現れた見たことも聞いたこともないような生物。
足は百足、胴は人間、手は蟷螂の鎌、顔は飛蝗、そして黒っぽい幾何学的模様が浮かぶ肌。
生理的嫌悪感を催す、その姿はただただ恐ろしかった。
『あぁん?人間の餓鬼?テメェ、まさか俺様が見えてんのかァ?』
「しゃ、喋った……」
異形の生物が流暢な日本語を喋った事に遥斗は腰を抜かさんばかりに驚く。
『チッ、見えてるみてぇだな。ま、いいや。俺様は今極上のエサを手に入れてすこぶる機嫌がいいんだ。見逃してやるからとっとと失せな』
カチカチと顎の部分を打ち鳴らしながら化物がそう言った。
……極上のエサ?こいつ……まさか、フェルスを食うつもりか!?
「……ちょ、ちょっと待って……下さい、その子を――」
化物の言葉にフェルスの身が危うい事を理解した遥斗は、恐怖心と戦いながらもフェルスを返してもらおうと言葉を紡ぐ。
『あぁん?』
「っ!?」
しかし、化物が少しだけ身を乗り出して言った、たった一言で遥斗の絞り出した勇気は砕け散った。
っ、情けねぇッ!!
吐き気すら催す恐怖。
この化物に逆らえば死が待っているというのが本能的に分かっているせいか、遥斗の体は無意識のうちに少しずつ後退っていた。
その事実に気が付き、自分自身を罵るが、生まれたての小鹿のように震える足は後退るばかり。
戦ってフェルスを取り返そうという気概はこれぽっちも沸いてこなかった。
『そうだ、それでいいィ。所詮はゴミ(人間)。俺様に楯突けば一瞬で命を散らす脆弱な生き物だからなァ。にしても……この極上のエサはどこから喰おうか。ほっそりとした手足?ムチムチの体?脳髄がタップリ詰まった頭?あァ、ヨダレが止まらねぇ』
完全に萎縮してしまった遥斗を嘲笑いながら、化物は肩に担いだフェルスの頬を鎌の反対側で撫で上げつつ愉悦の声をあげる。
だが、その化物の声と動作が遥斗の心を揺さぶった。
遥斗の脳裏を一瞬、過ったのはフェルスが化物に生きたまま解体され貪り喰われる凄惨な光景。
まだ数時間程度しか共に過ごしていないが、見知った幼い少女がそんな運命を辿る事を許容出来る程遥斗は性根が腐っていなかった。
『――ッ、あァ!?……お前、何した?』
昆虫の外骨格を思わせる肌に何かが当たった衝撃で足を止めた化物は振り返って衝撃をもたらした原因である遥斗を睨む。
「ハァ……ハァ……」
投球を終えたポーズで固まる遥斗。
フェルスを棲みかに持ち帰り、じっくり味わおうと浮かれていた化物の足を止めたのは遥斗が投げた野球ボールだった。
あーぁ、やっちまった……もう後戻りは出来ねぇ。
クソッ、覚悟を決めるっきゃねぇよな!!
硬直していた姿勢を解き化物の肌に当たったボールが跳ね返って虚しく地面を転がっていく様を横目にしつつ、覚悟を決めた遥斗はボールと一緒に置いてあった金属バットを手に取る。
「その子を返しやが――」
ボールで化物の足を止める事に成功し、次の手としてバットで一撃を加えようと勇ましく飛び掛かった遥斗だったが、台詞を言い終える前に横合いからやってきた衝撃になすすべなく吹き飛ぶ。
「ガハッ!!」
そして、受け身を取ることすら叶わぬまま自宅の庭にあった蔵の壁に激突。
蔵の壁を突き破り、祖父が所有する農具や猟具が収められた埃の多い蔵の中でガンロッカーをクッション代わりにして、ようやく停止した。
『餓鬼がッ!!舐めた真似してンじゃねぇぞォオ!!』
『俺様はなァ、てめぇみてぇな正義感で動くゴミが一番嫌いなんだ!!』
遥斗を一撃で吹き飛ばした化物は激情のまま吼える。
『そんなに死にてぇなら殺してやるよ!!嬲り殺しだ!!』
ゴミと見下していた遥斗から受けた攻撃が余程癪に障ったようであった。
……ッ、全身がバラバラになったみたいだ。
一方、壁をぶち抜いた衝撃で一時的に意識を失っていた遥斗は、鼓膜を盛大に震わせる化物の怒声で目を覚ましていた。
こりゃ……死んだな。
あんな化物にどうやって勝てっていうんだ。
立ち向かっただけでも御の字だって。
目を覚ましたものの満身創痍の体に武器1つ無い自身の状況を省みて遥斗は絶望感と無力感に苛まれていた。
「――……情けねぇなぁ」
「っ!?誰……だ?」
殺意をたぎらせ歩み寄って来る化物の姿を眺めていた遥斗の耳に居ないはずの第三者の声が届く。
「なぁ、小僧。怪我をした?武器が無い?それがどうしたってんだ。怪我をしようが武器が無かろうが、それでも何かかけがえの無いモノを守るために戦うのが日本男児ってものだろうがよ。お前には大和魂がねぇのか?」
凪いだ海のように平坦で、しかしどこか責めるようなイントネーションを含んだ声は遥斗にそう問い掛ける。
「だから……お前は誰なんだ?」
「俺か?俺はお前が右手で触っている三八式歩兵銃の三八ってんだ」
「……三八?三八式って?えっ?銃?」
声の主が自分は銃だと意味不明な事を言い出したために遥斗は命の危険に晒されている事実を忘れ間抜けな顔で聞き返す。
それと同時に歩み寄って来る化物から視線を外し、自身の右手を確認した。
すると、そこには押し潰してしまったガンロッカーから溢れ落ちた三八式歩兵銃が確かにあった。
この銃は太平洋戦争に歩兵として従軍した祖父が軍を退役する際に持ち逃げし、今では猟銃として愛用している品である。
「付喪神って知ってるか?俺はまさにそれなんだよ」
「……こんな状況だ。もう何が出てきても信じるよ」
この数時間の間に崩壊してしまった常識に、銃は喋るという項目を付け加えながら遥斗は力なく呟いた。
だが、遥斗が付喪神である三八と呑気に会話を交わしている間に状況はより一層悪化していた。
「お兄さん!!」
「遥斗!!」
『おっ!?なんだなんだ?まだ2匹も旨そうなエサが隠れてやがったのかァ?』
遥斗の後を追ってきた綾香とクゥが庭先に出てきてしまい化物に見つかってしまったのだ。
「キャ、キァア!!は、離しなさい!!この化物!!」
「離せ!!昆虫モドキ!!」
そして、抵抗する術を持たない2人はあっという間にフェルスと同じ様に化物に捕まってしまう。
「クソッ、最悪だ!!」
「おい、どうした?戦うのは諦めたんじゃないのか?」
「うるさい!!あんな光景目の当たりにして黙っていられるか!!」
服を引き裂かれ、化物の口から伸びた長い舌で体を舐め回される綾香とクゥの姿に激昂した遥斗は、体の痛みを堪えながら無茶を覚悟で三八を手に取る。
「……なんだ、小僧。お前も立派な大和魂持ってんじゃねぇか」
「大和魂?そんな立派なもんじゃない、ただあの子達がひどい目に合うのが気に食わないだけだ」
違法な事ではあるが、祖父から銃の使い方を教わり実際に使った事もある遥斗は潰れたガンロッカーから三八式実包を取り出し、三八に装填しつつ答える。
「ハ、ハハッ。良いねぇ。男だねぇ。やっぱり日本男児はこうでなくちゃな」
「お前、何を言って……」
「力を貸してやるよ、小僧。小便チビるんじゃねぇぞ?」
どこか浮かれた様な三八の言葉を耳にした直後、遥斗の意識は白い光に包まれたのだった。