小人と私
それは麦茶の入った麦茶ポットの注ぎ口に張り付いていた。
夏の三十度は超えているある日、喉が渇いたと冷蔵庫を開き、麦茶を飲もうとポットを傾けた。
だが麦茶の出がどうにも悪い。細く長く糸のようにしか出てくれなかった。いつもならどぼどぼと勢いよく出てくるのに……。
私は何かが詰まっているのだろうかと注ぎ口を覗きこんだ。
「やあ」
「…………」
そこには小さいお爺さんが張り付いていた。
お爺さんはフタの、注ぎ口のところに体を突っ張らせてくっついていた。目が合うと挨拶だけは爽やかにしてくる、身長手の親指くらいの小人だった。
昨日まではいなかったと思う。
私はとりあえずお爺さんをそっと掴まえてテーブルの上に乗せた。お爺さんは私にされるがままテーブルの上に乗るまではじっとしていた。麦茶で濡れているお爺さんはなんだか香ばしい香りがした。
まず何から訊けばよいだろうか。私はお爺さんを目の前にして腕を前で組んで考える。こんな摩訶不思議なことを体験するのは初めてなので、少し混乱しているかもしれない。
「お主はサムライか」
「……え」
最初の言葉を思案していたらお爺さんが小首を傾げた。つぶらな瞳が大きく揺れていて、なんだか子犬みたいだなとぼんやりと考えた。しかし、サムライかと言われたのは初めてだ。どう見ても刀など帯びていないし服装だって違うだろう。思いながら、問いかけられたことに答える。
「いえ、ただの人間です」
するとお爺さんは突然興奮し始め鼻息を荒くした。
「ああ、そうじゃ。あの時は言葉を交わすことはなかったんじゃった。でも、お主はサムライじゃ」
「あの、人の話をちゃんと聞いてください。違うってことですよ。名前を言うなら、私は翼と言います。あなたこそ一体何なんですか?」
「サアーダじゃ。忘れてしまったのか?」
「サアーダ? 忘れるも何もこんな不思議な生き物見るの初めてですよ」
聞き返すとお爺さんは、仕方がないのうと少し寂しげな表情をしたが、すぐに小さな胸をそらせて見せた。そらしすぎてバランスを崩して尻もちをついてしまったのを見て、私は大丈夫かと心配になる。だって見たところ立派な白髭を生やしたお爺さんだし……。
「サアーダとは、幸せを運ぶ小人のことじゃ」
「へ~、知らない」
「サムライよ、もっと違った反応があるじゃろう。幸せじゃぞ、幸せじゃ」
「サムライじゃありません。幸せは十分間に合ってます」
「……そうじゃな。お主見るからにぽやや~んとしとるしのう」
「失礼な」
サアーダというお爺さんの失礼な物言いは置いておいて、私は何不自由なく生活してきていた。
心身ともに健康で特に大きな病気にかかったことなく、両親も健在だし、毎日三食食うに困らない。今日明日は休みだが、職場にもちゃんと毎日通勤していた。
ということで、私は幸せを運んでもらうほど困っているわけではないのだ。誰か本当に幸せが必要な人のところへ行ってほしいと思った。その方がよほど適切で、幸せの与えがいがある。
そのようなことをお爺さんに告げたら、しばらく沈黙したがおもむろに口を開いた。
「それじゃあわしと一緒に幸せを運んでほしいのじゃ」
「運ぶ?」
「そうじゃ。そうして『ハイル』をためるのを協力してほしいのじゃ」
「ハイル?」
「ハイルとは、良いことをするとわしたちサアーダの上司から与えられる魔法の力のことじゃ」
「魔法……ね。そのハイルがなきゃお爺さんは小人の世界に帰れないとか?」
そう訊くと、しばらくお爺さんはじっと私の顔を凝視してきた。小さいお爺さんでもそう何秒も見つめられると居心地が悪い。私はコホンと咳払いをした。
「……そうじゃ、わしは今日中にハイルをあと一つ集めなければならないのじゃ」
「一つって意外と少ないですね。――良いことってなんでもいいんですか?」
「そうじゃ、道で出会った困っている人を助けたり、母親の手伝いをしたり……電車の中でお年寄りに席を譲ったり……」
「本当になんでもいいみたいですね」
「でも、法律に引っかかることや道徳観念に反することはしないでほしいのじゃ」
それには私もうなずいて答えた。気づけばお爺さんのハイル集めに協力する流れになっている気がしたが、今日と明日は暇だったのでいいとする。どうせ本を読むかパソコンを開いてネットサーフィンをして過ごしていただろうから。この暑い中、外に出なければならないのが少しだけ億劫だったが、このお爺さん、困っているみたいだし、人助けなんてものもしてみるのも良いかもしれない。
時計に視線を移すと、まだ午前十時を回ったところだ。これから早速出かけるだろうか。
「どうしますか。今から行きますか?」
「そうじゃな。わしの人助けセンサーが反応しとる!」
◆◇◆
「うわっ。い、犬じゃ!!」
「こんにちは」
道を歩いていたら、犬の散歩中の近所のおばさんに出会った。金色の毛が美しいゴールデンレトリバーである。
その犬は私のバッグのポケットの中に入っているお爺さんをじっと見つめていた。それに気付いたのか、お爺さんのほうは犬の視線が怖いようでバッグのポケットの中に隠れてしまった。私は犬が苦手なのかなと考えながら、犬とおばさんの横を通り過ぎた。
「犬が苦手なんですか?」
「その単語を口にするだけでも恐ろしい……!」
「子犬なら大丈夫ですか?」
「大きいのも小さいのも同じじゃ!」
何かを思い出したのか、お爺さんは再びバッグのポケットの中に引っ込んでしまった。私はそれを見下ろして少し笑ってしまった。お爺さんにも苦手なものがあるんだな。
「ところで、どこに向かいますか? なんとなく出てきてしまいましたが」
「あっちじゃ。あっちから反応がある」
そう指さされたのは、駅前広場の方だった。休日の午前十時、天気は晴れ。そう大きな駅前ではないが、そこそこ混みあっている。
私は駅の改札に近づくにつれ、子供の泣き声が聞こえてきたのに気がついた。券売機の横には一人の五、六歳の女の子が泣きながら立っていた。
きっとお爺さんのセンサーとやらに引っかかったのは彼女だろう。私はそう判断してその女の子に近づいていった。近づいてみると、彼女の両手にはスーパーのレジ袋が握られているのが分かった。どこかで買い物をした帰りだろうか。
「どうしたの?」
「ふえっ……。道が……分かんない……」
どうやら、買い物をして来た帰りに道に迷ってしまったようだ。もしかしたら母親ともはぐれてしまったかもしれない。とりあえず名前を訊くことにする。私は屈んで女の子の前に膝をついた。
「私、翼っていうんだ。あなたのお名前は?」
「……愛……ママぁ」
「愛ちゃん、ほら、見て」
素直に答えてくれたことに安堵して、どうにか泣きやんでもらおうと私はいきなり最終手段に出た。バッグのポケットの中に手を入れて、お爺さんの胴をむんずと掴む。お爺さんが暴れたのが分かったがこれも泣き続ける愛ちゃんのためである。少し我慢してもらうことにする。
「おい! 何をするのじゃ!?」
「……! お爺ちゃん、ちっちゃい……」
当たり前だが、愛ちゃんは小人を見たことがなかったようで、吃驚したらしい。驚きで涙が引っ込んで、お爺さんに向かって手を伸ばした。その手に私は素直にお爺さんを乗せてやる。愛ちゃんのもともと大きかった目がさらに大きくなる。そして、両手でお爺さんを掴みながら矯めつ眇めつ眺めた。時々お爺さんの白髭を手で引っ張ったりしている。
私は息を吐いた。
「愛ちゃん」
「…………?」
愛ちゃんは目線を上げた。
「ここにはママと来たの?」
「……ううん。ママ、風邪ひいちゃって愛がお手伝いしてたの……」
「そっか。偉いね」
「ママにカレー作ってあげるの……でも。おうちに帰れない……」
訊けば、お母さんが寝ている間に一人で出てきてしまったようだ。電車に乗ってスーパーまで行き、買い物はできたのだが、帰るときに降りるはずの駅の一駅前で降りてしまったらしい。
周りの景色は違うしお金はもうないしで、どうしていいか分からずに涙が溢れてきてしまったという。
話を聞いた私は、愛ちゃんを家まで送り届けることにした。まだ小さい女の子の一人歩きは危険である。券売機で切符を買って見送れば、それでハイルはもらえるかもしれないが、話を聞いた手前、最後まで付き合うことにしたのだ。
券売機で二人分の切符を買い、改札を通り抜ける。荷物を持とうかと訊いたのだが、断られた。これは最後まで自分で持っていたいという言葉を聞いて、私はあっさりと引き下がった。
駅から離れ閑静な住宅街に入った。愛ちゃんの道案内で私は彼女の家へ向かって歩いていた。もう愛ちゃんもいつも目にする街並みに元気が湧いてきたようで力強く歩いている。
「愛!!」
「! ママ!」
愛ちゃんと二人並んで歩いていたら、二十代の女の人の声が耳朶に触れた。愛ちゃんは駆け足で女性の方へ行く。
女性と愛ちゃんの距離はみるみる近づき、ついに女性は愛ちゃんを抱き上げた。
「愛!! 良かった……!」
「ママ……お風邪は大丈夫なの?」
「そんなの、もう大丈夫よ。起きたら愛がいないから、もう、どうしようかと……!」
「……ごめんなさい、ママ」
女性は愛ちゃんのお母さんのようだ。私が親子再開感動の場面に良かったねえと一人しみじみ感じ入っていると、愛ちゃんのお母さんの視線が私の方を向く。私は慌てて「どうも」と会釈をして見せた。
「……あなたが愛をここまで連れてきてくれたんですか?」
「そうだよ。翼ちゃん、愛と一緒にここまで来てくれたの」
「本当にありがとうございます。なんてお礼を言っていいのか……」
「あ、いえ。そんな大したことしてませんので……気にしないでください」
愛ちゃんのお母さんは、私の方に近づいてきて深く頭を下げた。私はというと、本当に大したことはしていないつもりだったので、その頭の深さに逆に恐縮してしまった。
愛ちゃんのお母さんは、お昼時ということもあり、昼食を誘ってくださった。しかし、私は丁重にお断りさせていただいた。愛ちゃんの前では平気なふりをしているが、お母さんは顔色がまだよくない。きっと、無理をして愛ちゃんを探していたのだろう。そんな彼女の厄介になるわけにはいかない。
二人に手を振られながらこの場を去っていく。一仕事やり終えた私のお腹は空腹を訴えた。
「サムライ、よくやってくれたのう。これで、ハイルは既定の数値ためることができた。魔法の力がいつでも使えるのじゃ」
住宅街を歩いていると、お爺さんがバッグのポケットの中から話しかけてきた。その台詞を聞いて、そう言えば『ハイル』というものを集めていたんだっけと思いだす。
「お爺さん。褒めてくれるのはありがたいんですが、今はハイルのことはいいじゃないですか。良いことをしたんだから、それだけで。あと、サムライじゃないです。それより、お爺さん。どうします? 一度、家に帰って食事にしますか?」
「わしは人間の食べ物は食べられんのじゃ。それより、行ってほしいところがあるんじゃが……」
「どこですか?」
「海じゃ」
「海?」
「そうじゃ。青い空に青い水が大きく広がっている様……この世界にいるうちに見ておきたいのじゃ」
私は、少しだけ黙考する。ここから一番近い海ならば電車で三時間くらいだろうか。海岸まで行かなくても海と空と浜が見える場所までいければ良いだろうか。なにしろ私は泳げない。小、中学生時代には何とかクロールもどきができたが今では絶対にできないと断言できる。話が脱線した。海水浴がしたいとお爺さんも言わなかったし、濡れる準備をする必要はないだろう。
「じゃあ、一番近い海岸まで電車で行きますね。その前に私、お腹がすいたので昼食にしてもいいですか?」
昼食を近くのファーストフード店で済ませてから、私たちは電車に乗った。目的地まで行くのに二度乗換をしなければならないのだが、私は寝てしまうとなかなか起きない性質なので、幸い電車では座れたが気が抜けなかった。
途中、目の前に着物姿の五、六十代の淑女が立ち、吊革に手を伸ばしたのを見て、私は迷わず立ち上がり席を譲った。彼女は「どうもありがとう」と品のいい笑顔を浮かべると静かに空いた席に腰を下ろした。
お爺さんは「またハイルがたまったぞ」とわめいていたが私は無視した。ハイルをためるために席を譲ったんではない、決して。うん。
電車を降りると、気持ちいい風が頬を撫でた。いつも家にいる時には感じることのない清々しさを覚えて開放的な気分になる。両腕を伸ばして密かに伸びをする。三時間も電車の中だったのでミシミシと背中が鳴った気がした。
「着きましたよ。どうですか?」
「おお。海じゃ……!」
お爺さんは私のバッグのポケットから顔を出して、目を点にして前に広がる光景を食い入るように見つめている。電車の中からではバッグを窓まで持ち上げることができなくて、見せてやることができなかったので、これがお爺さんの初海である。
「すごいのう……」
かすれた声で呟くお爺さんを見ると、もっと近くに行ってあげたくなった。
私は、海に向かって歩いて行く。海辺沿いの細い道まで歩いて行って、随分近くに来たなと思った。心地よい規則正しい波の音が私の耳朶を打った。
人の姿はあまりない。この海はもともと海水浴を楽しむためのものではないのだろうか。しかし、その静かさは丁度よかった。お爺さんは私に「肩に乗せてくれるかのう」と頼んだ。私はそっとお爺さんを片手で右肩に運んで乗せてやった。これでお爺さんにも潮風が感じられるだろう。
しばらく二人で潮風にあたりながら、黙って海を眺めていた。しばらくして、お爺さんは静かに口を開いた。
「サアーダは……」
「はい?」
「サアーダは幸せを感じると、消えてしまうのじゃ」
「え……」
お爺さんの言葉は静かすぎて、あやうく私の耳を素通りしてしまうところだった。お爺さんは続ける。
「だからわしも幸せとは何か具体的には知らんのじゃ」
「幸せを運ぶ役割があるのに、知らないなんて……」
そんなの、なんだか悲しいと思った。口をつぐんだ先の言葉は発することはなかったが、お爺さんは私が何を言おうとしたか大体分かったらしく、私の右肩の上でふふっと息を漏らしたのが分かった。
私は、慌てて謝ろうと口を開く。
「ご、ごめんなさい……」
「いいんじゃ。だから、どんな時に幸せを感じるのか教えてくれんかの? どうやら今感じている感情は幸せとは別の感情のようじゃ……」
「お爺さん……」
「それか、もっと大きな幸せがあるのかのう……」
「……私は、月並みだけど美味しいご飯を食べている時とか、お風呂に入っている時とか……朝の冷たい空気を胸いっぱい吸い込んだ時とかにも感じますけど」
何気なく幸せに暮らしている私には、お爺さんに答えてあげられるような、明確な答えなんて持ち合わせていなかった。一般論っぽくなってしまい、申し訳なく思ってしまう。
「しかし、嬉しいのう……。サムライよ、ありがとう」
「もう、サムライでいいです……」
心の中で「どういたしまして」と呟く。口に出して言うのはなんだか恥ずかしかった。お爺さんが私のことを「サムライ」と呼ぶならそれでよいと思って、訂正はしなかった。私は、「そうだ」とお爺さんを右肩に乗せたまま海に接近していく。
「お爺さん、知ってました? 海の水って塩辛いんですよ」
「何じゃと!? それは本当か?」
「人間の食べ物を食べないって言ってましたけど、海水を舐めるくらい大丈夫ですよね?」
「う、うむ……腹は壊さんと思うぞ」
「それじゃあ」と私はお爺さんをそっと海水の側に下ろした。波を触って舐めてほしかったからだが、その私の行動はお爺さんを危険な目に遭わせてしまうことになる。
お爺さんは波に足を取られて、あっという間に流されてしまった。
「ワップ……、さ、サムライ、助けて~~」
「お、お爺さん!?」
私は慌ててバシャバシャと私は服がぬれるのもかまわずお爺さんのもとに駆け付けた。そして濡れたお爺さんをなんとか両掌に包みこんだ。
「大丈夫ですか? お爺さん」
「サムライの言うとおり……しょっぱい水じゃったよ……」
「……お爺さん。……すみませんでした」
「どうして謝るんじゃ?」
お爺さんは「どうして」なんて口にしたけれど、私の不注意でお爺さんを流してしまったようなものだ。私の手で海水を掬ってお爺さんの側まで持って行ってあげればよかったと今更だが反省する。
「もっと気をつけなければいけませんね」
「わしは平気じゃぞ? それに、あんなにしょっぱい水を飲んだのは初めてじゃ」
「飲んじゃったんですか……」
「それにしても濡れてしもうたのう……」
「まるで初めて会った時のようですね」
「サムライは濡れてなかったがのう」
濡れたお爺さんを見ていると、今日の朝、麦茶ポットで麦茶まみれになっていたお爺さんを思い出す。そんなに時間は経っていないんだなと認識する。それなのにお爺さんとはずっと一緒にいるような感覚を覚える。一緒にいて安心するような感じだ。
「帰りますか?」
「……そうじゃな。帰るとするかのう。わしは海が好きになったぞ」
「……良かったです。来たかいがありましたね」
「ありがとう、サムライよ」
「また、来ましょうね」
そう私が言うと、「そうじゃな」と静かにお爺さんは呟き私のバッグのポケットに入り込んだ。移動のときの定位置だ。そして、帰ろうと歩きだした私に向かって「今日はゆっくり休むんじゃぞ」などと説教してきた。私も今日は色々と疲れたので早く眠ることができるだろう。
次の日のことだった。
お爺さんは私に「今日は部屋から一歩も外に出てはならん」と言いだしてきた。あまりに唐突に理不尽なことを言い出したので、私は一瞬ぽかんと口を半開きにしてお爺さんを眺めてしまった。
「どうしてですか?」
「サムライは、出掛けると、今日死んでしまうのじゃ。死相が出ておる」
「死ぬ? 私が?」
「そうじゃ」
私は吃驚してしまった。死相とか、死ぬとか、今まで生きてきた中で身近になかった言葉だ。いきなり今日死ぬと言われても、突拍子もなさすぎて信じられない。しかし、お爺さんがあまりにも真剣な表情で話すものだから、今日、外出は控えることにした。
今日は両親ともに仕事である。日曜なのに家には一人きり。やることがなくて掃除や洗濯などの家事を適当にこなすことにする。その後に昼食を作り――簡単なのでチャーハン(ただしお米はぱらぱらではない)だ――また暇な時間ができたので、お爺さんと話でもしようかなとお爺さんを探した。
その時――。
携帯電話の着信音がけたたましくなり始めた。
何だろうと思いつつ携帯電話に出ると、母親からだった。
「どうしたの?」
「ごめん、実は会社でドジっちゃって、ちょっとした怪我しちゃったのよねー」
「怪我!?」
「あ、大したことないから。それでね……」
「迎えに来てほしいってこと?」
「あ、違う違う。今、病院なんだけど、今日保険証を忘れちゃったみたいで、会計でお金が足らないのー。……実は三割でも足んないんだけどね」
「…………」
「それでね。お金と保険証持ってきてくれないかなって」
私は頭を押さえた。財布の中に何円入っていたのだろうか。ある程度入れておいた方がいいよねと自分で言っていたのになんと情けないことか。私は長く息を吐き苦笑をこぼした。
今日は外出をするなと言われていたが、仕方がない。どんな怪我だか知らないが親が怪我をして困っているのだ。放っておくのは薄情だろう。私は母から病院の名称を訊きだしてそんなに遠くないことに安堵し、行きは電車、帰りはタクシーで帰ればいいかと判断する。
私が保険証を取りだしていると、いつからいたのかお爺さんが後ろから声をかけてきた。
「行くのかの?」
「お母さんが怪我したっていうんです。大したことないらしいんですけど、困っているっていうから」
「止めるんじゃ」
「私の顔に死相が出てるんでしたっけ? 大丈夫です。道路はこれでもかってくらい注意して歩くし、電車でも必ずどっかにつかまってますから」
「事故はサムライが注意しただけでは回避できぬこともあるのじゃよ……」
「……それでも、親ですから。心配なんです……明るく振る舞ってたけど」
「……そうか。それなら、わしも行くのじゃ」
「お爺さんも?」
「絶対に連れていくのじゃ」
お爺さんの真剣な顔を見て、幾分気圧されるようにして私は頷いた。
家を出て、駅までの道に一か所だけ通りの激しい道がある。そんなに広くないのに大型のトラックもよく通る少し危険な道路だ。
電車に乗るまでの間に死んでしまうとすればここだろうなとぼんやりと考えながら、その道に突入する。今までは小走りだったのをその道に入ってからは速度を緩めて早歩き程度にした。車たちは狭い道でもスピードを緩めようとしないで走行している。通り過ぎたときに起きるぬるい風が私の頬を滑った。
何事もなくその道を終えようとしたその時。
一匹の猫が道路に突然飛び出してきた。
丁度向かってくる車線から一台のトラックが走ってきて、猫に気付いたのか急にハンドルを切った。スピードを緩めず急にハンドルを切ったせいでトラックはタイヤはキキーっと音を鳴らし、コントロールが利かなくなったのかそのトラックは私めがけて突進してきた。
「――――!!」
瞬間、お爺さんがバッグのポケットから飛び出し、私とトラックの間に入り込んだ。そして、お爺さんが両腕をトラックに向けて突き出すのがなんとか見えたのを最後に辺りは一瞬真っ白にはじけ飛んだ――。
「――ああ。助けられたんじゃな……」
眩しさに目を閉じているとそんな声が聞こえた。
目を恐る恐る開いてみると。
「!! お爺さん!! しっかりして!」
そこには倒れているお爺さんがいて、私は、小さな体を道路のアスファルトに投げだしている彼を両手ですくい上げた。すると、一つ溜息をつき、お爺さんは細く眼を開けて私と目を合わせた。
「これが『幸せ』なのじゃな……」
しみじみと呟くお爺さんを見つめていると、どうしていいかわからない。
突然のことでよく分からなかったが、お爺さんが私をかばったことは分かった。私がトラックにひかれそうになったところ、辺りがパッと明るくなり光が消えたと思ったら、目の前にはお爺さんが倒れていたのだ。
「こんな気持ちだと知っていれば、もっと早く知ろうとしたじゃろうに……。もったいないことをしたのう」
お爺さんの体は指先から手、腕……つま先、かかと、ふくらはぎ……と透明になっていく。
「サムライを守れて良かった。怪我はなかったかのう?」
「どうすればいいんですか? どうすればお爺さんを助けられますか!?」
道路の端に座り込みながら、持ちあげた両手に向かって懸命に話しかけている私は、周りから見ればとても滑稽だったに違いない。しかし、今は周りの反応なんかにかまっている余裕はなかった。
「これはサムライを助けられて幸せを感じているから消えているんじゃよ。もう止められぬよ」
「私の、せいですね……ご、ごめんなさいっ」
「サムライのせいじゃのうて、サムライが今日死んでしまうと分かってしまった日からわしは決めておったのじゃ。何があっても助けると」
「どういうことですか……?」
「小人の世界で、サムライが死んでしまうと分かって、こっちに来た……。もう大丈夫じゃよ……。ありがとう、サムライ、ありがとう、サムライ……サムライがずっと幸せであるように……」
お爺さんの透明化はどんどん進んでいった。胸が消えていって、首が消えていって、顔が消えていった。
「…………」
お爺さんが全て消えてしまって、手のひらに残されたのは、丸く白い石だった。
その白い石をぎゅっと握りしめる。唯一残されたお爺さんの形見のような気がした。
その瞬間、私の中に何年も前の記憶が押し寄せてきた。
それは私が小学生の頃の記憶。
下校の途中、一匹の野良犬が吠えているのを発見した。何に向かって吠えているのか、遠くからでは判然としない。ただ地面に向かって吠えているように見えた。
私は不審に思いながら野良犬に近づいた。
「助けて~~」
「え?」
私は目を疑った。そこには、小さなお爺さんが小さな体を震わせながら犬に向かって頭を抱えていたのだ。三角帽をかぶったお爺さん。私は、目を見開いてその現実的ではない光景に見入っていた。
小人というのだろうか。その小人がちらちらと私の方を見て、帽子を手で押さえていた。
多分一分くらい経っただろうか。私は、どうしようか正直迷ったが、結局野良犬に近づいていって追い払った。そして、そのまま小人に目をやらないでその場を立ち去ったのだった。その頃は長かった髪をポニーテールにして、それを揺らしながら。
「……サムライじゃ……」
その小さな声は私には聞こえなかった。
サムライとは私のことだったのかと、やっと認識した。今さっき見た光景があってもおぼろげに思いだしたという程度だ。私は小さい頃、お爺さんを助けていたらしい。その恩返しだとしても私の方は覚えていなかったのだから、恩なんて感じなくてもよかったのに。
私は母親が待っていると分かっていてもその場をしばらく動けなかった。じっと白い石を見つめる。そうすると、お爺さんの声が聞こえないかと思って。お爺さんの顔が浮かばないかと思って。
お爺さんは最後に「ありがとう」と何回も口にしていた。私の方こそお爺さんと会えて感謝の気持ちでいっぱいだ。たった二日だけだったが、私にとってその二日は宝物のように不思議で素敵な二日になった。
「大丈夫ですか?」
しばらく白い石を胸元で握って道路で蹲っていたら、人のよさそうなおばさんが私に声をかけてくれた。顔を上げるとおばさんが差している日傘で逆光になっていておばさんの表情は窺えなかった。
「すみません、大丈夫です」
私はおばさんにかたい笑顔を向けながらその白い石をお爺さんがいたバッグの定位置にしまい、溢れてくる涙をぬぐい立ち上がった。
母親は骨折してしまったということで足首にギプスを巻いていた。階段から滑って落ちたとか言っていたがなんてそそっかしいんだろう。会計を済まし、家に帰る。その間私に危険なことは何も起きなかった。
私は、お爺さんと見に行った海に今度は一人で行った。そして、海辺の砂を少しだけ拝借する。それを小瓶に入れてその中に白い石を入れた。ただの気休めかもしれないが、海が好きだと言っていたお爺さんにせめてもの恩返しだ。白い石を海辺に置いてこなかったのは私がまだお爺さんと離れたくなかったからである。
あと少ししたら、この白い石をあの海辺に置いてこようと思っている。私の心の準備ができてから。
それまでは、私はお爺さんの笑顔を思い出しながら毎日を過ごすのだ――。