とてもとても遠い青
コメディ以外を書くのは、何だか久しぶりのような気がしました。
青い惑星が、すぐそこにある。
手を伸ばせば指先が届きそうなほど近くにだ。でもそれは、私にとっての楽園でも現実でも未来でもなく、クリアケースに包まれた宝石のように、ただ見つめることしか出来ない代物でしかなかった。
どんな綺麗な絵画だって、毎日見ていれば飽きてくる。そしてそれが現実の風景であれば、この手に触れてみたくもなる。ましてそれが、小さい頃から憧れていたモノであれば、尚のことだ。
ふと気づけば、背後が随分と賑やかだ。
世間には、同じ学び舎で学んでいる者達全員で勉強するために旅行をするという『修学旅行』なるイベントがあるらしい。この小さな軌道ステーションで、家庭教師を相手に勉強したことしかない私でも、そのくらいのことは知っている。
振り返るとそこには、たくさんの笑顔。思い出話を花のように咲かせて、楽しそうに歩いている。整然としていないところが、自らの自由な意思を感じられて羨ましかった。背丈からすると中学生くらい――つまり私と同じくらいだろう。
そうだ。私と彼らとは、そう違わない。なのにどうして、こんなにも違うのだろう。
私は一つだけ大きな病気を抱えている。
ネオンアレルギーという極めて珍しい症状だ。ネオンは大気中に含まれる物質で、希ガスとしてはアルゴンに次いで多い。多いと言ってもその比率は0.01パーセント以下だから、普通の人が気にするようなものじゃない。でも私にとっては毒ガスと一緒だ。
だから私は、この窓から見える青い惑星に降り立ったことは、一度としてなかった。あの子達の持っている当たり前を、私は何一つ持ってはいないのだ。
このステーションに居ても、新鮮な空気を吸うことはできるし重力を感じることはできる。でもそれは、やっぱり本物じゃない。これがどれだけ良くできた偽者なのかさえ、確かめることもできない。
小さい頃は、何とも思っていなかった。それがただ当たり前だった。でも少しずつ成長して、知識を得て、色々なことに興味が湧いてくると、当たり前を持っていない自分という存在が、酷く薄っぺらなものに思えてくる。何を考えても何をしても、それは結局現実感のない妄想の産物なんじゃないかと、そんな気さえしてくる。
だから、一度でいい。私は本当の大地に触れたかった。そこで大きく深呼吸をしてみたかった。そうすることで、自分が本当に生きていることを確かめたかった。
修学旅行の帰りと思われる人の列は、まだ続いている。あの学校に制服はない。今の私が紛れたところで、あるいは見つからずに済むかもしれない。もちろん、軌道エレベーターがそんなずさんな管理をしているとも思えないから、きっと途中で追い返されることになるだろう。だけど、諦めるのは確かめてからでも遅くない。
私は息を潜め、その列にこっそりと加わった。
その日は多分、運が良かったのだろう。あるいは最も運が悪かったのかもしれないけど。
起きた時、私はビニール袋の中に居た。
何が何やらわからず、霞の向こうにある記憶へと手を伸ばしてみる。それは思い出すというより、刻まれた傷をなぞるような行為で、触れるだけで気分が悪くなる。抉るような頭の痛みとお腹の底から突き上げるような気持ち悪さ、そして何より身体の中心から粘性の高い闇が広がっていくような感覚、こみ上げる胃液を何とか押しとどめ、辛うじて記憶を切り離す。
そういえば、私はまだ死んでいないのだろうか。先生の言葉を信じるならば、私はアナフィラキシーショックとやらで死んでいるハズだ。
「ひょっとしてここは、天国?」
だとしたら、随分と殺風景な天国だ。しかも窮屈な生から解放されているというのに、まだ何かに閉じ込められている。
「そんなワケないじゃない」
「え?」
不意打ちにも等しい声に驚いて、素早く右側へと視線を向ける。そこには、一人の少女が立っていた。多分私とそう変わらない年齢の、ショートヘアが良く似合う快活そうな女の子だった。私のような飾り気のないボブカットとは違う。少なくとも毎日鏡を見ているだろうことは間違いないと思えるくらいには、整って見えた。
「あ、やっぱり気づいてなかった」
窓枠に手をついたままクルリと振り返った彼女は、屈託のない笑顔を浮かべながら、闇に染まる窓を背にしてこちらを見ている。まるで私の驚いた顔を期待しているかのような物言いに、少しだけカチンときた。
「そりゃ、誰か居るなんて普通は思わないし」
自分が普通じゃないことは、誰よりも自分がよくわかっている。他人と同じ病室に入ることなんて、まず有り得ない。私は人とは違うのだ。ここが個室なのは、むしろ当然のことだった。
いや、個室なんていう当たり前のものなんかじゃない。きっと特殊な病棟の特別な病室なのだろう。設備を一つ一つ確かめるまでもない。そういう場所でなければ、私は生きていけないのだから。
「凄いよねぇ。箱入り娘っていうより、浄室の姫様って感じ?」
「……というか、アナタ誰なんですか? 看護師さんには見えないけど」
「患者よ。アナタと同じ」
とても病気には見えない。元気な患者もあったものだ。ナースコールで人を呼んで、さっさと出て行ってもらうことにしよう。
「空気を吸うと死んじゃうってホント?」
伸ばしかけた手が、ピタリと止まる。こんなことを正面から、しかも堂々と聞いてくる人は初めてだった。本来なら、失礼な相手と切り捨てるべきだろう。でも私は、どこか嬉しかった。腫れ物を触るように、触れただけで壊れてしまう高価な人形を触るように接する相手ばかりだったから、自分が生身の人間なのだと実感できたからなのかもしれない。
「そうよ。珍しいでしょ?」
「初めて見た。そういう人」
私も自分以外に見たことはない。
「それがどうして地上に? 何か欲しい物でもあったの?」
「欲しい物……」
強いて言えば、経験だろうか。それが叶わないなら、死が欲しかったのかもしれない。
「こんなちっぽけな星じゃなくて、宇宙で探せば良かったのに」
「ここにしかないんだから仕方ないでしょ!」
ついムキになって声を荒げてしまう。でも彼女は、そんな私の態度を予測していたのか、気分を害することなく穏やかな口調のまま言葉を続けた。
「探したの?」
「え?」
「ここ以外の場所で、欲しい物を」
そう言われると言葉が出てこない。私は目の前にある青い輝きに惹かれただけだ。ただない物ねだりをしたに過ぎない。
「まぁ、わかるけどね。手に入らないものほど欲しいと思う気持ちは」
「そう言うアナタは何が欲しいの?」
「うーん……ひなたぼっこ、かな」
「何それ」
奇妙な注文に小首を傾げる。
「私の身体はね、陽の光に当たると毒を作っちゃうの。それだけなら、陽の光を遮断すれば普通の生活もできたんだけど、その毒ってのが私にとってアレルゲンでねぇ。そりゃもう致命的よ」
明るい物言いでとんでもないことを話す女の子だ。
「だからこうして、私は建物の中でしか生きていけないの。それもこうやって自由に歩き回れるのは夜の間だけ。もちろん、この星から出るなんて夢のまた夢かな」
「……でも、今は私より自由だよ」
「そうね。別に不自由を感じたことはないよ。食べて寝て遊んで、少しだけ勉強して、友達が少ないのは少し寂しいけど、普通の子供らしい生活をしていると思う」
勝てないと思った。
不幸や不運のレベルの問題じゃない。目の前にあるものを、手に届くものを大事にしている彼女は、私よりも確実に強い。そんな当たり前のことを、生まれて初めて思い知った。
「だからさ、全部じゃないけど気持ちはわかるんだ。生き方を選べないなら、せめて死に方くらい選びたいって思うよね」
「……うん」
死にたいと、心の底から思ったワケじゃない。でも、そうなっても構わないと思っていた自分は確かに居た。彼女もきっと、そんな風に思ったことがあるんだろう。それも多分、一度や二度じゃないに違いない。
憧れの大地は不安に揺れて、空気は美味しいどころか気持ち悪かったけど、それでもこの青い星は、私にとって大切な場所のままだった。
友達が、そこにいるから。
アレルギーを無くすことはできない。
しかし症状を緩和させることは可能だ。それは言うなれば毒に身体を慣らすようなもので、僅かな分量から始めて少しずつ増やしていくという苦行だ。それは苦しいし気持ち悪いし、個人的には良いことなんて一つもない。
去年までの私が嫌がって避けていたのも、それはそれで当然のことだ。
地上に降りて倒れ、一命を取り留めた私はステーションに戻ると、それまで避けていたリハビリに注力するようになった。だけど結局、私の限界は大気の濃度に耐えられるものではなかった。そこまで身体を慣らすには、果てしない未来を見据える必要があった。
今までの私なら、ここで諦めていただろう。
でも今は違う。青い星は、何も目の前にそれだけではないのだ。ネオンは大気に含まれる可能性の高い物質ではあったけど、その濃度は惑星によって結構開きがある。私が日常を送ることに支障のない星も、きっとあるハズだった。
あの子が、光と温もりを求めて死んでしまってから、もう半年以上になる。彼女の世界は小さな病院の中だけだった。私は、確かの目の前にある青い星には降りられないけれど、そこから振り返るだけで広大な世界が広がっている。
私は、歩いていかなければならない。
自らの果てを見る、その時まで。
今、私の目指している青は、とてもとても遠い。
それがとても、嬉しかった。