あんまり読む必要のないプロローグ
ダジャール城砦は、その名を神話に出てくる最も硬い石――ダザル石から採っている。
それほどに堅牢ということだ。北と東は断崖絶壁であり、残る二方は遮蔽物が少なく、攻め入る敵は高い城壁の上から丸見えである。
その城砦が陥落寸前だった。
尖塔の一つに見張りとして立っていた傭兵は、下から階段を上ってくる聖騎士の姿を見とめて
「よぉ」
と声を掛けた。
時刻は早朝。先ほどようやく太陽が山際から覗いたばかりだ。
「よく眠れたかい?」
「ああ。ぐっすりと眠った」
そう答える聖騎士の目の下には大きな隈があった。
強がりだと知りつつ、傭兵は笑う。
「そりゃ頼もしい。奴らの鳴き声はうるせぇからなぁ。おまけにここまで臭ってくるほどクセーし」
彼らの眼下に広がるのは、真っ黒に埋め尽くされた大地だ。よく目を凝らせばそれは一つ一つが魔族の戦士だった。
10万にも達しようかという魔族どもの軍団。
精神を削るためなのか、はたまた獣のようにただ気の赴くまま吼えているのか。
奴らは昼夜を問わず喚き散らしている。ろくに眠れるわけがない。
「絶景だよなあ。これだけの魔族を拝めるなんて一生に一度あるかないかだぜ」
「弓矢を撃つのに狙いをつける必要がないのは有難いな」
聖騎士はニヤッと笑う。
「くっくっく。違いねぇ。そういや下の奴らはどうしてる? そろそろ逃げようって奴もいるんじゃないか?」
「いや、皆士気が高い。ここまで残った連中だ。いまさら弱気になるくらいならあの時逃げているだろう」
当初、ここは人類側の最前線であった。
人種、宗教、国家のしがらみを捨て、全ての人類が力を合わせて戦うはずだった。
それが情勢悪しとなるや、「お前らのせいだ」「いや、お前らが……」といがみ合いを始め、
包囲されそうになると「一旦態勢を立て直す」とたちまちここを放棄したのだ。
今残っているのはその時逃げなかった勇敢な、あるいは無謀な人間ばかりだ。
いても立ってもいられず武器になりそうな農具を持って馳せ参じた農民もいる。騎士の従者、いわゆる盾持ちの少年兵は、仕えるべき主人が尻尾を巻いて逃げた後、残していったひと回り大きい鎧と槍を装備して戦っている。砂漠に住む騎馬兵は最初に参加した200名がそのまま全員残った。エルナーと呼ばれる僧兵もいる。国家の威信と信仰する女神のために聖騎士も残った。義憤に駆られた山賊までいる。傭兵が次々と遁走する中、そのリーダーだけはここを死に場所と定めていた。
800人弱の決死隊だ。
ここでは誰もが平等で、優劣も上下もなかった。
当初の理想は、規模を縮小したものの実現していた。だからこそ今日まで防衛してこれたのだ。
「聖騎士さんよぉ。これならまだまだいけるぜ。武器も食料もたんまりありやがる。最初は5万人が戦う予定だったもんな。あと一週間は余裕で凌げるんじゃねぇか?」
「……確かに。油断は禁物だが」
昨日の二度目の攻防で、城壁に架けられたハシゴから魔族の侵入を許してしまっていた。すぐに排除できたものの、防衛が薄氷を踏むような危ういものであることは明白だった。
しかし持ちこたえれば――。
後方では今頃人間側の大軍団が再集結し、陣地を設営しているはずである。ダジャール城砦が少しでも長く落ちなければ、それだけそこの守りは磐石となるだろう。それまで少しでも時間を稼がなければならない。
魔族の群れの黒い塊が波のようにうねりを見せた。攻撃が始まる兆候だ。
「そろそろ来るな」
「おーし、そいじゃあ配置に着くかねぇ。おう、あんた。俺はよ。聖騎士なんて連中はスカしてて鼻持ちならない奴ばかりだと思ってたんだ。けどあんたみたいに話せるやつもいるんだってわかった。今度酒を酌み交わそうぜ。だから……死ぬなよ」
「ああ……お互いにな」
そう言って二人は別れた。
傭兵は西側の、聖騎士は南側の城壁を衛るのだ。
「今日は豚どもかい」
西側の城壁の下に陣取っているのはオークと呼ばれる種族だ。表皮は緑色で、下あごから生えている凶悪な二本の牙が嫌でも目に付く。ほとんどの固体がでっぷりとした腹を出しているので人間は彼らを豚と呼んでいた。
口の端からよだれをこぼし、プギー! グギー! と鳴いている様は、理性の欠片すら感じられない。
行動もごく単純。ひたすら壁にへばりつきハシゴを架けようとするだけだ。
遠ければ矢を射掛け、近ければ上から熱湯や石をくれてやると、半刻もせぬ間にオークたちは混乱に陥り壊走しはじめた。
「へへっ、おととい来やがれってんだ!」
傭兵が城壁の上から叫んだ。
周囲の者たちもそれに続く。多少の怪我はみなしているが、誰も死ななかった。
南側でも、ワッと歓声が上がった。どうやら南側も撃退したようだ。
いい調子だ。これなら今日も乗り切れる。誰もがそう思った。
捨て駒を喜んで引き受けた者たちの戦いはまだまだ続く――――はずだった。
城砦が陥落したのはその日の日没前だった。