義理の妹がこんなに毒舌可愛い
2.
『夢を見ました。
その夢の中で私は私ではなく、別の誰かでした。
周りにいる人たちが誰も彼もが知らない人、だけれど皆が私を知っている、そんな不思議で不安な夢でした。夢の中で私は白い部屋で一人過ごしていました。その時間は酷く退屈で私は考え事ばかりしていました。
そんな時、私は一人の少女に出会いました。その少女は一見して素敵な人でした。誰もかれもが羨むような可愛らしさと知性を持ち合わせていました。
私もすぐにその子の事が好きになりそうでした。私は移り気な性格なんです。すぐに人を好きになってしまうんです。
けれど、その少女は他の皆と一緒で私の事を知っていました。そして、私の事を大好きだという事がすぐに分かりました。
だから私はこの素敵な少女の事を嫌いになろうと思います。
その気持ちは私に向けられたものではないのですから。この子の想いが私に届く事も、私がこの子を好きになっても、私たちの想いは絶対に交わらない事が分かったのです。
だから、私はこの子のことを嫌いになろうと思います。貴方が思いを向ける相手は私ではないんだよって教えるためにも。
凄く残念です。私は可愛い女の子が大好きなのですから。たくさんの可愛い女の子と仲良くなりたいのに幸先不安です。』
誰も自分の人生の行く先を知りはしない。
それが人生であり、それが人間である。未来の分かる人生なんて自明な事を自明だと証明しながら生きて行くようなものであり、楽しさの欠片もない。けれど、知らなくて良いとはいえ、こんなにも早く死が私を待ち受けていたとは思わなかった。これならば、知っていても知らなくても大差なかったのではないかとそう思うぐらいだった。
未来に夢見たことはすべてここで潰え、私が今まで行ってきた事の何もかもが未来に続かず、何の意味のない人生になるのだ。未来が分からないとはいえ、私は未だ何も残していない。私という存在がいた事でこの世界に与えられた影響というのはきっととても小さなものだろう。湖を僅か波立たせただけのそんな人生なんて、
「無意味だ」
瞬間、轟音が耳に響いたのを最後に私の意識は途切れた。少なくとも、私の記憶にはそれ以降の記憶はない。だから、厳密にいえば私は自分の死因を把握していない。恐らく交通事故なのだろうと思う。
覚えているのは車で帰宅途中だったこと。夜遅いからと自転車通学だった後輩とその自転車を車に乗せ、帰り道で延々と百合と魔法使いと妖精について議論をして、後輩を送り届けてすぐの事だった。後輩を巻き込まなくて良かったと本当に思う。もう少し早ければ一緒に死んでいただろう。あいつは大変優秀な奴なのだ。大事な後輩なのだ。良かった。ほっとした。
そう、死んだ後に私はほっとしたのだ。
人間の思考は電気信号なのだから器官が破壊されれば電気信号を送る事ができなくなるだけであり、死後にその意識が連続するわけがない、というのが私の意見だった。きっと後輩も、世間一般の意見はそう言うだろう。だからこそ、始めは死ぬ直前に見る夢だと思っていた。こんなにも都合の良い、まるで中学生の考える妄想日記の内容のような状況なんて信じられるわけがない。
ゆえに、目が覚めた後、即座に病院にぶち込まれた。
「妹にはかわいそうな事をした。とはいえ、知らないのだからしょうがないのだよと言いたい。言いたいけど悪い事をしたと思うのも事実」
病院のベッドに横たわり、この世界に訪れた時の事を思い出す。
よくある目が覚めたら、ある日突然女の子になっていたという奴である。
昔からアニメや漫画や映画、果ては娯楽小説やライトノベルやネットの自作小説などを読んでいたからだろう。しばし混乱したが、しかしすぐにこの状況はテンプレート的だよなぁ、と嘆息しながら冷静に自分の状況を考えたりしたものだ。
そんなテンプレートな物語のように、知らない誰かになった後に巧く嘘をついて周囲に溶け込むというストーリーを何度か見たことがあるが、これは正直な所、無理だと思う。自分が別人になる事、これに関しては適応が早いと思う。というよりも、むしろそのような状況に陥ると、あまりの出来事に思考が停止して人間わりと冷静になる。そして時間がある程度経過してから脳みそが動き出したと同時に焦り出したりするのだ。経験者が云うのだから間違いない。
なので自分の状況については良い。が、その自分が誰かを調べるのとか、家族に対してどう誤魔化すのとか相当に状況と都合が良くなければ無理な話である。私のようにぼろを出してしまうに違いない。
うん。ほんと。だって、知らない女の子が『お姉ちゃん、まだ寝てるの?入るよ』と言いながら部屋に入って来たらどうしようもなかろう。「え、誰?」と直接的な物言いをしなかっただけ偉いと褒めて頂きたいものである。
もっとも『まったく、神様も粋な計らいをしてくれる。百合の中で一番嫌いだったトランスセクシャルキャラに私を宛がうとはまったくもって粋な計らいだよ!』などと、神様相手に喧嘩を売っていたせいで調べる時間が減ったのも事実である。
「あぁ、ほんとどうしようね。まったく、これから先どうしようかなぁ。女になっちゃったしなぁ。とりあえず、結婚はできないだろうなぁ」
『この私』になるまでに二十数年を生きてきた魔法使い見習いは魔法使いになる事が確定し、加えて一生独身の身であるのは間違いない。それぐらいなら先が見えても人生は楽しいだろうか?そんな事を思う自分自身に苦笑しながら思考を続ける。
これも物語の話だけれども、女になったから男の精神が女の体に引っ張られて男を好きになるという話がある。個人的にあれは不可思議で不思議で仕方がない。
女の生活を続けていたから、女の子っぽい思考になる事はあれど、男を好きになる要素は無いと思う。人間は経験とそれに伴う記憶を元にして性格が形作られる生命体であり、突然女になったからといって男が好きになるという事はありえない。少なくとも以前の私と同じだけの時間を女の体で女の生活を過ごしていれば話は別だが、一年、二年で変わるような事は絶対にない。
もっとも、脳の記憶を形作るシナプスの接合が同じにならない限りは私は以前の私にはなりえないはずだから、現に私が以前の私の記憶を持って存在している時点で、私の知る範疇にはない論理で私が構成されているのも事実であり、体に精神が引張られる可能性も零とは言い切れないが、まぁ、ないだろう。うん。ない。男に触られる事を想像する事すら怖気が走る人間が男を好きになる事なんてありえない。そうやって強く言い聞かせていると意識している事になるよ!とか言われても、そんな想像を常にしながら生きている人間なんていないと言う話である。
そもそも、男の時代から私は百合が大好きな人間なのである。
独身貴族を貫くのだ!とか公言していたので、言ってみたものの正直な所をいえば、結婚に関してはあまり気にしていない。加えて、どうやらまだ高校生になりたてなのだから、そんな話なんて当分先だ。同性婚を認めている国も僅かながら存在するので、そこにいけば結婚はできるのだろうけれども、あれも儀式の一つであり、現代においては契約以外の何物でもないので興味もあまりない。
というか……女の子同士が良いのであってそこに私が入っては元も子もない。
何度も言うが、私は百合が好きなのだ。
恥ずかしげもなくそう言える程に女の子達がキャッキャウフフしている姿が大好きである。ラブラブな姿を見るのは大好物である。
そんな彼女達の中に男性的な要素はいらない。例えば世に広まる薄い本はそれが分かっていないものが多い。女の子同士の友情恋愛に男性器的な存在は不要なのだ。彼女たちの触れ合いにそんな愚物は不要だ。
彼女達の繊細な指先、触れるか触れないかの優しげな触れ合いが萌えるのだ。彼女達のまつ毛が触れ合うその瞬間が萌えるのだ。彼女達が雨の中、二人で一つの傘を分かち合うのが良いのだ。だから、暴力の象徴のようなそんなものはいらない。それは例えばアダルトビデオのコスプレ物でコスプレを脱がしてしまうようなそんなものである。無意味なのである。不要なのである。
それがたとえ物理的な存在でなくても、私のような男性的な精神が入り込んだ女が女の子とキャッキャウフフしている姿など私は認められないのだ。認めたくないのだ。
二次元と三次元を一緒にする事自体が間違っている?という意見にはこう返そう。
今までの私にとって女の子と一緒にキャッキャウフフするのはファンタジーだったのだ。二次元よりも近い三次元ではあったが、最も遠い三次元だったのだ。それはフィクションであり、ファンタジーだ。だから、今、女となった私はファンタジー世界に飛び込んだようなものだ。ファンタジー世界に転生したり移動したりする物語の主人公がファンタジー世界を満喫するように、できうる事ならば私も女の子達と一緒になってキャッキャウフフしたい。猛烈にしたい。もう、頼まれるならば喜んでやりたい。けれど、駄目なのだ。私は男なのだから、キャッキャウフフしている姿を見ても、そこに参加しても……私は楽しくない。楽しめない。それは私の求める百合ではないのだから。
矛盾。
存在自体が抱える矛盾。決して解決しえない自己矛盾を抱えてこれから先、私は生きていかねばならないのだ。
無知は罪だけれど、知らない方が幸せな事なんて多々ある。知っているからこそ言えない言葉なんていくらでもあるのだ。私が女の子になるというこの現実がなければ私は空想の中で、アニメや漫画の少女達のキャッキャウフフを楽しんでいられたのだ。もし私が女であればなんていう空想に悶えられていたのだ。現実に私がその中に入る事ができるという小さな希望の光の存在を私は決して知りたくなかった。現実は汚いからなんてオタ発言で誤魔化す事なんてできなかった。それができるのならば、私は現実の女の子とキャッキャウフフしたい。
あぁ、もう二度と純粋に百合が楽しめない。
これを絶望と云わずして何と云えば良いのだろう。
神様、女の子にしてくれるのは別に良い。二十数歳という年齢からこの多感な時期に時間を戻してくれるのも別に良い。けれど、どうして私から百合を奪ったのだ。私の唯一無二の楽しみを何故奪ったのだ。あぁ、憎い。この私をこの状況に押しやった存在が憎い。
けれど、きっとそんな神様なんてのはいないのだろう。そんな誰かの一存で何かが決まるようにこの世界は出来ていない。そんな世界は構築する方も構築する方で先の知れた物語を延々と作る作業を行う必要があるのだ。そんなマゾヒスティックな神様がいてたまるものか。それは例えばチートを遣ってステータスを限界突破させたあげく世界を蹂躙する勇者の如き所業だ。楽しいと思えるのは最初の数分だけ。
「……あぁ、もうやだ……別の病棟に移されそうだよほんと」
言いながら立ち上がり、姿見の前へと。
映る自分の姿を焦点の合わない目で見つめる。
背は比較的高い方だった。以前の私よりも少し低いくらいだろう。ただ、足の長さが今の体の方がかなり長い。乳房の大きさはさほどではないが、しかし脇から腰の曲線は見事なものでスレンダーな素敵スタイルといえよう。長い足と加えてデニムのミニスカートでも履けば格好良く見えるのは間違いない。
顔の方はなんだか皇帝ペンギンのような顔だったが、化粧映えはしそうであった。とはいえ、今の私に化粧の知識があるわけはない。百合が好きなだけの独り身のオタク大学院生だったのだからそんな知識があるわけもない。きっと暫くはノーメイクだろう。それも追々学んでいかなければならないのだろうと思うが、今の私にはそんな活力は無い。
ちなみに、髪は肩のあたりまでだった。ロングが好きな私としては是非伸ばしたい。うん、こっちは活力がなくても勝手に伸びるし……。
「百合が好きな女の子が、ゆりんゆりん言っているのが好きだったんだ。好きだったんだ……好きだったのに、どうして私は男なのだ」
そんな台詞を口ずさみながら姿見の前で絶望を覚えつつゆらゆら揺れていれば、廊下から声が聞こえてくる。看護師と妹の声、そして……見舞いの人の声だろうか。少なくとも私の知らない声だった。
「お姉ちゃん、おとなしくしてる?勝手にどこでも行ったら駄目だよ、また記憶飛ばしちゃうよ」
扉を開けて開口一番微妙にブラックな台詞を吐いてくれたのは妹だった。この世界で最初に出来た私の知り合いでもある。
ペンギンのような顔の私とは違い、かなり美少女然とした彫の深い顔立ちの背の低い少女である。それもそのはずであり、今の私の両親は再婚しているようで、彼女と私では父親が違う。その所為で双子でもないのに年齢は私と同じであり、今年一緒に高校入学だったのだが、生憎と私は病院。
ともあれ、彼女の母、今の私の母でもあるが、その母の血を色濃く継いだからだろう、かなりの美人さんである。
「やぁ、いなほ。お姉ちゃんはいつもの通り元気だよ」
鞍月いなほ。
それが妹の名前だった。何だかとっても稲っぽい名前ではあるが、別に両親が農家出身なわけでもなく、稲のように強く生きて欲しいという意味と、語感の可愛らしさとひらがなの柔らかさがその名前を付けた理由だそうである。流石に、収穫時期が来たらさっさと刈られてしまいますね、とは言わないのが大人の対応である。というか、稲ってそんなに強い植物だったかね……。
その後ろでくすくす笑っているのが看護師さんであり、神野弥生という。私の、というよりもこの区画の担当の人だった。良く笑う人で、いつも笑いながら恋人の話をしている印象が強い人だ。正直、惚気は勘弁しろと思う。その弥生さんは案内終了!じゃあまた後でねー!とそのまま立ち去って行った。フットワークの軽い人である。
そして、去って行った弥生さんの後ろに隠れる様にしていた人は……この人は見たことのない人だった。
制服姿の女の子。
いなほのお友達だろうか?と思っても、お友達もお友達でいきなり記憶喪失の姉の所に連れて来られても困るだろう。時期的に高校一年なってすぐである。重たいにも程がある。そんな風に視線を向けていたからだろう、彼女がこちらに気付き、口を開こうとして、閉じる。
ついで、足に力を入れ、一歩前に出て私を見つめながら、今度こそ口を開き、声を紡ぐ。
「お初お目にかかります。わたくし旭丘高等女学校の生徒会長をしております、柚木此花と申します」
僅か震えるような声音は緊張からか、それとも別の理由か。私に分かるはずがない。私に分かる事といえば身体的特徴ぐらいだ。
同年代の少女にしては背の高い方だった。おそらく身長百六十中盤のメガネをかけた文学少女。顔も十分可愛らしいといえる顔をしていると思うし、加えて生徒会長とはこれ如何に。天はこの子にどれだけの物を与えたというのだろう。私からは百合を奪ったくせに。
「ゆのきこのはなさん?どんな漢字書くんだろう。……って女学校?旭丘が女学校?女子校?え、私、女子高生なの?あぁもうやだこの世界。厳しすぎるよハードモードより酷いよ。ルナティックだよ」
この世界はというか、この街は以前私の住んでいた街と同じ街であり、地名や、例えばこの病院の名前に関しては記憶にあるものそのものだった。だから、それ以外のものも同じだと思っていたのだけれど、私の記憶にあるその学校名は県下有数の進学校であり、共学だったと記憶している。いなほとの会話の中で旭丘という名前は聞いていたのだけれど、まさか女子校になっているとは思いもしなかった。
ただでさえ自己矛盾を抱えた存在である私が女子校に通うとか、まるで毒入り餌に釣られて必死に走る馬の気分である。神のいないこの世界で私を救ってくれるのは悪魔しかいないのだろうか。
「あ、あのいなほさん彼女に一体何が……?」
「ごめんなさい、此花先輩。お姉ちゃん記憶失ってから何かとおかしいんです。それとお姉ちゃん。女子高生に女子校に通っている生徒って意味は無いからね。記憶喪失も大概にね」
いなほ酷い。此花ちゃんはきょどりすぎ。いや、悪いのは私なんだけれども。
「あ、ごめんなさい。えっと、私の名前は……蓮花っていいます。鞍月蓮花。蓮の花と書いてレンゲ」
そんな二人を落ち着かせるためというわけでもないが他人が慌てるのを見ていると冷静になるというのは事実なようで、私は二人に向き直り自己紹介する。
男子生徒の妄想を形にしたかのようなヒロインの名前みたいな感じがしてならず、どうにも言うのが凄く恥ずかしい名前だった。全国の蓮花さん申し訳御座いません。
「素敵なお名前ですね。私は、ゆずの木に、止にカタカナのヒと言えば分かるでしょうか、それで『この』?それとお花の『はな』です。変な名前でしょう?」
静々と笑うその仕草は大変素敵である。図書室にこもって一人読書やら勉強していたら悶えるレベル。好物です。
「そういうのは変ではなく、珍しいというのだ。私は素敵だと思うよ此花ちゃん。それに名は体を表すというじゃない。柚の木に咲くその花はきっと貴方のように可憐なのでしょう。まさに貴方は木花咲夜姫の如く、です」
臭い台詞だった。
悪臭漂う気持ち悪い台詞だった。案の定、いなほは何この姉気持ち悪いという顔をしている。あぁ、可愛い顔が台無しだ。
対して、此花ちゃんはというと、意外にまんざらでもない様子だった。この子はきっと素質がある。厨二病の。
「その、ありがとうございます。そう言われたのは初めてです……嬉しいですね、自分の名前を褒められるって」
「それで生徒会長さんが何用でしょうかね?まだ入学もしていない身でご迷惑をおかけした記憶はなのですが。あぁ、もしかして入学もせず病院でごろごろしているのが問題なのでしょうか?」
話が変な方向に飛び火しそうだったので強引に引き戻す。
「あ、いえ。そういう事ではないのです。単に確認をしたかっただけなのです。本当に初めましてになるんですね……分かってはいたのですが、信じられず騙すような真似をしてしまいました」
突然、悲しそうに表情を歪めながら彼女が私に向かう。
「遅くなってしまいました。本当はもっと早く来たかったのだけれど、どうも駄目ね私は。昔から。頼まれると断れないね。早く来たかったのに。すぐに来たかったのに。ねぇ、蓮花ちゃん。何があったの?何があったというの?どうして貴方みたいな良い子がこんな事にならないと駄目なの?ねぇ、ねぇ何があったのっ!」
口にしながら激昂していく感じが微妙に怖い。厨二に加えてヤンデレ要素まであるのかこの人は、と戯れた感じでしか物事を考えられないのは、きっとどうあがいても他人事になってしまうからだろうと自己分析をする。
彼女にとってはこの私は大事な誰かであるが、私にとっては初対面のお嬢さんなのである。そのお嬢さんが突然激昂しだしても私には何もできない。むしろ一歩といわず引いてしまう。仕方がない。無理して同情する事に意味がないとはいわない。けれど、今この私が何かを言う必要はないだろう。言えば言うほど彼女を傷つけるだけだ。
「此花先輩はお姉ちゃんの幼馴染さんだったんだってさ」
そして、いなほもまた他人事のようにそう口にした。それもまた当然。いなほという少女が私と家族になったのは一カ月と少し前らしいのだから。
『高校入試真っ只中で何を考えてるのよ!お互いの娘が受験で必死になっている最中にお前らは恋愛三昧か!このド低能』と、実際にいなほは言ったらしい。可愛い顔して台詞が怖いよいなほ。大好物だ。
そんな風に戯れた思考をしながら客観的に此花ちゃんに目を向ければ、メガネを外し、涙を拭き、自分を落ち着かせようと胸に手を当てていた。
「ごめんなさいね……分かってはいるの。いなほさんに聞きました。貴方の脳はもう何も問題はないと。後遺症も何もないと。だから、きっと貴方が私を思い出すことはないのでしょうね。だから……今のは忘れてください。これからの私と貴方は初対面の女の子同士。出会いだけはこんな形だけれども、それでも……仲良くしてくれると嬉しいわ、蓮花さん」
今にも涙が零れ落ちそうな震える声で口にするこの人の気持ちはわかる。が、しかし、やはり同情する事に意味はない。私には女だった私の記憶など一切ないのだから。だから、この人との関係はこの人が言うように、この時この場で出会った少女達という関係が一番良い。もっとも、初対面にしては強烈である。
僅か苦笑しながら手を差し出す。
「えぇ、こちらこそよろしくね、此花ちゃん」
その瞬間、はっと私の方を見上げ、そして次の瞬間には瞳を伏せ、そして閉じた目蓋に震えるまつ毛。食いしばる歯の音が聞こえてきそうな程に閉じられた唇。差し出した手を握ろうと、手を伸ばし、私の手を捕まえようとして掴めず、あれ、おかしいなと呟くその仕草。そして、ようやく捕まえた私の手から伝わる震え。
「一応、これでも年上なんだよ?」
「じゃあ、此花さんにしておくよ、今のところは」
あぁ、この目の前で強がる少女の想いがたまらなく私の心を震わせる。
人間の痛切な思いに心を震わせる私は、そう考える私は、きっとまともな思考の人間ではない。言葉から仕草から視線から人の心を、感情を洞察する事はできる。できるけれど、それに共感できる心を持ち合わせていない欠陥を抱えた生命体。ただひたすら女の子の作る想いだけに心が震える非人間。死んでも蘇る妖怪百合女。
それからしばらく、初対面らしく此花さんが自分の趣味などの話をして、私がそれに質問するという形で話していた。見た目通りというとあれだがやはり読書が好きらしい。ベタだけど銀河鉄道の夜が好きなのと告げる此花さんの笑みを私は当分忘れないだろう。その後、時間が来たのか此花さんだけが帰り、残ったいなほが口を開く。
「可哀そうに。あれだともうきっと来ないよあの人。お姉ちゃんったら冷たいんだから」
「と。言われてもね。あの人にとって私は別人なんだよ。それこそ顔が同じなだけの全くの別人。だからきっと正直会わない方がお互い良いんじゃないかと思うレベルだよ」
「そうだね。それが良いのかもね。無理して友情を作り直す必要なんてないもんね。うん。同情しなかったお姉ちゃんを私は偉いと思うよ。大人だね、お姉ちゃん。見直したっていうのも変かな。ほんと、別人。まぁ、でも両親の再婚でうじうじしていたお姉ちゃんとはそんなに交流があったわけじゃないし、寧ろ入院してからの方が話してるしね、私としてはこっちがお姉ちゃんって感じだよ。仲良くやれそうだね。お姉ちゃん。宜しくね」
「こちらこそよろしく。しかし、昔の私ってうじうじしてたんだ。自傷の跡はないし、過食、拒食だった感じでもなし、見た目も普通だし何を悩んでいたんだろうね」
「そうだよ。私みたいな可愛い妹が出来たというのに何をそんなにうじうじしてたのかなぁ。お姉ちゃん何か知らない?」
満面の笑みを浮かべてブラックな台詞を口にするいなほは意外と良い性格である。好物だ。
「むしろ私が教えてほしいよ、ほんとに」
「あ、日記はあるかも。うん。確かあったと思う。でも他人の日記なんて見たって面白い事何もないから見ない方がいいかもしれないね」
まったく、私が違う人間だという事を理解しているようにしか思えない台詞だった。もっとも、その方が私としては楽で良い。一々過去の私とこの私を比較されて、腫れ物に触るように対応されても困るだけなのだ。まさに知ったことじゃない、他人の事だ。
「それで?お姉ちゃん何か退屈じゃないの?もうそろそろ退院は出来ると思うのだけれど、それでも一週間ぐらいはかかるだろうし、何か持ってこようか?」
「あぁ、じゃあ、えーっと……パソコン?」
「うちにはノートパソコンないよ。っていうか何でパソコンが最初に出てくるのよ。ネットしたいならお姉ちゃんの携帯持ってくるからそれでいいと思うんだけど、それじゃ駄目?」
「んじゃ、そんな感じでよろしく。いなほ」
「ん。分かったよ。お姉ちゃん」
自宅に帰宅できたのは結局それから十日後だった。
何度かいなほが病室に訪れたが、さして何があったわけでもなく有意義な無駄話に明け暮れたくらいであり無事退院と相成った。ちなみにいなほが携帯を持って来てくれたのは数日前、まったく使い方の分からないスマートフォンとやらのおかげで結局、メモリの初期化ぐらいしかしできなかった始末。
結局、私の記憶喪失に関してはさっぱり分からないというのが医者の見解である。ストレス性ではないか、彼女は大きなストレスを受けていたのではないかと考察していた。まぁ、そうなるだろうなぁと私でも思う。物理的に不備がない以上、精神的なものに原因があると思うのは当然だろう。おかげで、いわゆる精神安定剤を処方されたりもしていたのだが、最終的にそれすら止まってしまった。長い目で見た方が良いというのが今回の退院の最も大きな理由である。
医者にまで気を遣わせる辺り、申し訳ないとは思うものの、この私が私の中に入っているという証明は私からすれば自明だけれども、他者からすれば狂言としか思われない類のものである。だから、これも仕方がない。
そんなこんなで自室へ帰って来たのだった。もっとも、自室という印象は全くない。まさに他人の部屋に帰ってきた気分であり、印象的だったのはビジネスホテルの部屋より広いこととあまり物がないという事ぐらいである。
確かにこの世界で最初に目覚めたのはこの部屋であるが、その時は見ていられる余裕は殆どなかった。改めてみると本当に物がない。誰かが片付けたからとかではなく。
特徴と言える特徴もない。有体に言えばつまらない部屋だ。
それこそこのスマートフォンとやらでネットをするしか暇がつぶせないのではなかろうか。もっとも元々の私の生活が大学の研究室でひたすら研究ばかりだった事を思えば、紙、鉛筆、脳があれば論理と理論を構築できるし、それで時間は十分に使えるというものだ。
専門ではないとはいえ、自分の状況に対して色々考察するのは面白い。別の世界があった事自体が私の知る範疇ではなかったのだから、そこから構成される理論はどのようなものなのだろうか。胸が躍る。
百合スキーとはまた別の私が喜びだしている。知れば知るほど深い世界が私の中で更に深くなったのだ。これ程楽しい事は無い。
そんな風に諸々考えていれば、目に入ったのは机の上にぽつんと置かれた一冊の本。クリーム色の一見して使い古された手帳だった。
「あぁ、日記ね。わざわざこんな所におかんでも良いのに」
きっといなほが置いたに違いない。見るなと言われると見てしまうのは人情だろう。
この私ではない私が書いた日記。
そこに何が書かれているのか。見たくない事はない。キャッキャウフフしているシーンが記録に残されていれば私は悶えられるので。誰に咎められることなく女の子の生態を直接感じられるものを見る事ができるのだから、見たくないわけがない。
などと考えていれば、私の指先がついつい日記を開いていた。瞬間、ぎょっと目が開く。
おおぅ。
『3月13日
此花ちゃんと勉強した。
3月14日
此花ちゃんと勉強した。明日が本番。
3月15日
受験。此花ちゃんと同じ学校を受ける。全部書けたから大丈夫。
3月16日
今日も受験。家にかろうとしたら此花ちゃんが校門で待っててくれた。嬉しい。
3月17日
あいつが来た。鬱陶しい。
3月18日
此花ちゃん。会いたい。
3月19日
此花ちゃん。会いたい。
3月20日
鬱陶しい。
3月21日
此花ちゃん。会いたい。
3月22日
合格発表だった。受かった。此花ちゃんが褒めてくれた。嬉しい。嬉しい。
3月23日
此花ちゃん。会いたい。
3月24日
此花ちゃん。会いたい。
3月25日
此花ちゃん。会いたい。
3月26日
あいつが部屋に来た。最悪だ。
3月27日
此花ちゃん。会いたい。
3月28日
此花ちゃん。会いたい。
3月29日
此花ちゃん。会いたい。
3月30日
此花ちゃん。会いたい。
3月31日
明日から四月だ。此花ちゃんと一緒の高校だ。此花ちゃんに会える。』
「百合っ子万歳」
呟く。ヤンデレっぽいにおいが正直溜まりません。はっきり言ってしまえば狂人の戯言にしか見えないが、これを書いた気持ちを思えば私の心がほくほくしてくる。うんうん、とニコニコしながら次のページをめくれば、もはやファンタジーだった。
『3月32日
3月が終わらない。どうして。今日から一緒の高校なのに。どうして?
3月33日
3月が終わらない。
3月34日
3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。 3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。3月が終わらない。
3月61日
明日で3月が2回分。誰もかれもが当たり前にこの月を過ごしている。意味が分からない。みんながみんな私を騙しているみたいだった。此花ちゃんも皆、皆。誰も不思議に思ってない。61日もたってるんだよ!と言ってもそうだねとしか言われない。意味が分からない。なんで、なんで、なんで、なんで私は高校生になれないの?ねぇ、4月1日はいつくるのっ
3月92日
明日で3回分。終わらない。終わらない。終わらない。終わらない。
3月……数えるのが面倒になった。けど、今日で一年経つ。もうやだ。もうやだ。皆は普通で、私だけが異常で、だから……死にたい。死にたい。死んでしまいたい。死んでしまった方が楽になれる。何もかもを忘れられる。私は、もう……。4月1日が遠い。ねぇ、此花ちゃん。私はいつになったら此花ちゃんと一緒の高校に通えるの?ねぇ、いつになったら……』
ごちそうさまと小さく一息吐いて、日記を閉じ、元の位置に戻し、
「4月が遠いって、もう5月半ばだっていう話ですよ。で、この手の込んだいたずらはなんぞ?いなほ」
声を掛ける。まるでタイミングを見計らったように、いなほが私の後ろにぴたりと張り付いていた。正直そっちの方が怖い。
「面白くないよお姉ちゃん。ちゃんと怖がってくれないと。あぁでもね、これをそこに置いたのは私だけど、書いたのは本当にお姉ちゃんだよ」
「あれ?てっきりいなほが書いたのかと思ったよ」
私が入院したのが4月1日だからそれ以降に私は日記を書けるはずがない。
「まさか。私はそんなに暇人じゃないよ。あれだよ別にダイアリーと書いてあるからって日記を書かなきゃいけない理由もないよ、お姉ちゃん。叙述トリックというにしても稚拙だね。単なる妄想の羅列だよ。創作日記。設定がぱくりっぽいのが駄目だよね。まぁ、もっとも此花先輩への想いはその日記らしきものの通りなのは間違いないけど。自分を主人公に妄想世界に引きこもるなんて、そんなに、私との高校生活が嫌だったのかなぁ?ねぇ、お姉ちゃんそこんとこ分からない?」
「分かるわけないよ」
「だよね」
くすくす笑みを浮かべるいなほ。嫌われていたと分かっていても笑えるのは何故だろう。まぁ、今はさておいて。
この私ではない私が書いた妄想日記とやらは、つまり、培養層の中の私、みたいな話と思えば確かに、デジタルテイストな培養層ならプログラムの不具合で延々と繰り返す日々が送られる事もあるだろう。そんな話にでもしたかっただろうか。
趣向として日記を用いたという点では面白いが、いなほの言う通り、高校生という新しい舞台に立つ事を前にした不安といなほという存在が急に現れた事による不安を書き綴ったもの。これから先、此花さんと一緒に楽しい日々を送れると思った矢先に自分の領域を侵してくるいなほという妹との同学年での生活、その辺りの不安からくるストレスの発散のためにこれを書き綴ったのだろう。
初々しい悩みで大いに結構なことだ。
が、やはり他人事だった。いなほにとってもそう。他人になら何を言われても気にする必要はない。
とはいえ、私の中の理系部分が、本当に妄想で済ませて良いのだろうか?と考えているのも事実。
この私にとって世界は唯一ではなくもっとファンタジーな存在であるという事が分かっているのだ。だから、本当にこの世界はデジタルテイストな培養層で、彼女の書いたように一日を繰り返す事があってもおかしくはない。特に四月一日からこの子は記憶を失っているのだから。その境目の日にこのような物を書いたのだとすれば本当にそうだったのかもしれない。ずっと訪れない四月一日を苦に記憶をなくしたのかもしれない。
デジタルテイストな培養層を仮定すれば私が私になった事を証明する事もたやすい。デジタルデータを入れ替えるだけの話なのだから。以前有名になった映画のように人間の認識する世界とはあくまで脳が認識する世界なのだから確かに女になるという現実よりも脳が見せている幻覚だと考えた方がまだ説明が付く。
けれど、そんな事、当たり前に証明不可能である。
ゲーテルの不完全定理が示すように公理の中にいるものが、その公理が正しいかを証明することは原理的に不可能だ。これが脳の見せる幻覚かどうかなんて私にはわからない。この世界がある事さえ不確かに思える。たとえ、そうであったとしてもその不確かさを認めて生きて行くしかない。仮に元の世界と称する世界が幻覚だったのではないかと問われても私には証明できないのだから。だから、結局、胡蝶の夢の如く、私はこれが現実と思うしかない。そう思って生きて行くしかない。
「何難しい顔してるの……はぁ、ごめんね、やっぱり冗談でもこんなもの机の上に置いておくんじゃなかったよ。ブラックジョークは外れると引かれるから難しいよね」
いなほが日記を手にとり、そのまま部屋を出て行こうとした所で、声を掛ける。
「いや、それはそのままにしておいて。折角だからその先書くことにするよ。仮に私の記憶が戻った時に慌てないようにね」
「日記じゃないっていうのに……」
言いながらもしょうがないと、いなほは日記を机の上に置き直す。
「お姉ちゃんはそっちの意味では腐らないでよね?家族の中から厨二病罹患者が発生したとか恥ずかしいし」
「私はどちらかというと花を眺めている方が好きだから安心してよ。どうせ書くのも花の観察日記ぐらいだからさ」
「ほんと、趣味嗜好が別人だね」
「記憶がなくなって経験がなくなれば、人間そんなものだよ」
「経験がゼロの人が花を眺めたいなんて言わないよ。花の存在すら知らないんだからさ」
「経験が零でも何も知らなくても子孫は繁栄されていたからこそ人類は誕生しているんだよ。愛だの恋だのという精神行動を交えるから駆け引きだのなんだのと話が難しくなっているだけで本当はもっと簡単なのさ」
「それとこれとは関係ないと思うんだけど。まったく、お姉ちゃん、戯言も大概にね」
「お互いにね。ブラックジョークはほどほどにだよ、いなほ」
くすくすとお互いに笑みを浮かべる。旧知の友人のような気軽さだった。
元の私の切々とした想いなどやはり、私たちには他人事。
そして、今後も私にとってこの世界の住人はそれこそ培養層の中を生きる人間のようで、その培養層を眺める人間な私は他人事のようにこの人生を生きて行くのだろう。美少女達がキャッキャウフフしていれば、それで良い、そう言いながら。