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夫が私の移植用心臓を運ぶヘリを愛人の犬に回したので、目覚めた私は彼を知らないふりをした

作者: 熾星
掲載日:2026/07/16

夫が私の移植用心臓を運ぶヘリを愛人の犬に回したので、目覚めた私は彼を知らないふりをした



プロローグ



 宗一郎がシャツの三つ目のボタンを留めたときには、私はもうスマートフォンで銀行アプリを開いていた。


 ベッドの脇には女物のワンピースと彼のベルトが散らばっている。神崎美月はホテルのバスローブをまとい、浴室の入り口に立っていた。鎖骨には意味ありげな赤い痕。まるで私に見せつけるために、そこに立っているようだった。


 カーテンは完全には閉じられていない。朝の光が絨毯に差し込み、部屋の惨状を残酷なほど鮮明に照らしていた。


 初めてこんな場面に出くわしたとき、私は部屋のグラスを叩き割り、宗一郎の胸ぐらをつかんで理由を問い詰めた。


 あのときの彼はベッドヘッドにもたれて煙草を吸い、ズボンすらまともに穿かないまま、淡々と言った。


「部屋が暗くて、お前と間違えた」


 その後、同じような「人違い」は二度起きた。


 それをきっかけに、私たちは書面で取り決めを交わした。不貞行為が一度発覚するたび、離婚成立前の解決金として、彼は私に五百万円を支払う。


「振り込んで」



1.五百万円の「人違い」


 宗一郎は灰を落とし、私のスマートフォンの画面に目を向けた。


「凛、お前、今じゃ金にしか反応しない犬みたいだな」


「振込記録に、合意書に基づく解決金だと分かる形で残して。あとで経理ともめたくないから」


 彼の口元から笑みが消えた。それでもスマートフォンを手に取り、送金の手続きを済ませた。


 美月が後ろから宗一郎の腰に腕を回す。甘ったるい声が耳にまとわりついた。


「奥さま、全然怒らないんですね。さっき宗一郎、私の名前は間違えませんでしたよ?」


 入金額を確認し、何事もなかったようにスマートフォンをバッグへ戻した。


「それは二人の問題でしょう」


「昔はあんなに騒いでたのに。今さら物分かりのいい女のふり?」


 宗一郎の手が、いきなり私の顎をつかんだ。指に力がこもった瞬間、胸の奥がきつく締めつけられる。


 ベッドの縁に手をつき、目眩が治まるのを待った。異変だけは悟られないようにした。


「もう、あなたを愛していないから」


 部屋から音が消えた。


 次の瞬間、宗一郎の指にさらに力が入る。


「金のためなら、ビリヤードラウンジで客と夜中まで酒を飲める女が、愛を語るのか?」


 五年前、黒瀬家の資金繰りは破綻寸前だった。借金の取り立てをめぐる揉め事で宗一郎が脚に重傷を負い、手術とリハビリの費用を用意するため、私は優勝トロフィーを売った。高金利の借金まで背負い、会員制のビリヤードラウンジで専属インストラクターとして働き始めた。


 客の手が肩や腰に触れるたび、吐き気がした。それでも仕事を失うわけにはいかなかった。


 宗一郎は何も知らない。再び歩けるようになり、家業を継いだ頃、彼が目にしたのは、人生で一番みじめだった私の姿だけだった。


「宗一郎、解決金をありがとう」


 彼の手を振り払い、出口へ向かう。


 背後で、グラスが壁に叩きつけられる音がした。


 廊下に出て間もなく、スマートフォンが震えた。宗一郎からのLINEだった。


『今夜、NOIR EIGHTに来い。美月がナインボールを習いたがっている。来ないなら、誤送金として銀行に組戻しを申請する』


 ホテルの外に出ると、冷たい風が頬を打った。乱れ始めた鼓動を抑えるように、胸元を押さえる。


 五百万円でドナーの臓器は買えない。


 けれど、移植を待つ間の家賃や介護費、術後のリハビリ費用にはなる。


 行くしかなかった。


 医師からは何度も言われていた。移植待機者にとって、安定した生活環境を失うことは命取りになる。手術の連絡は夜中に来るかもしれないし、仕事中に来るかもしれない。電話を受けたら、すぐ指定された病院へ向かわなければならない。


 この三年間、何かを決めるたびに考えたことは一つだけだった。


 それを選んだら、あの電話を取り逃すことにならないか。



2.踏み砕かれた、チャンピオンの右手


 NOIR EIGHTは、霧浜市星ヶ丘区にある会員制のビリヤードラウンジだ。


 五年前、私はプロツアーを回る女子ナインボール選手だった。最高成績は、全国招待大会での優勝。


 あのとき宗一郎は最前列に座っていた。試合が終わると真っ先に駆け寄り、私を抱きしめた。


『照明の下に立つ凛は、誰よりも輝いている』


 今、その人は個室の一番奥にあるソファに座り、ウイスキーのグラスを揺らしていた。


 美月は私のオーダーメイドのキューを持ち、何度も先端をテーブルの縁にぶつけている。


「これ、重すぎる。私には合わない」


 初優勝のあと、職人に頼んで作ってもらった一本だった。


 右手を負傷してからは安定して扱えなくなった。それでも、手放すことだけはできずにいた。


「だったら置いて」


 美月が顔を上げ、笑みを深くする。


「宗一郎が言ってたけど、今の凛さんって、ここの臨時インストラクターなんですよね? お客がどのキューを使うかまで、あなたの許可が必要なんですか?」


 周囲では何人かがスマートフォンを構え、面白がって成り行きを見守っていた。


 ここにいる客の多くは宗一郎を知っている。美月が彼に公然と庇護されている古い知り合いだということも。


 落ち目の元選手のために、黒瀬家の後継者を敵に回す者などいなかった。


 宗一郎も止めなかった。


「教えてやれ。今夜は追加勤務扱いにする」


 グローブを取り出し、美月のブリッジを直すために身を屈めた。


 その瞬間、彼女は力任せにキューを突いた。手球がクッションに当たり、跳ね返って私の右手の甲を直撃する。


 古傷を錐で貫かれたような痛みが走った。指先から、たちまち感覚が消えていく。


 美月はキューを引き、悪びれもせずに私を見た。


「元チャンピオンの手って、別に大したことないんですね」


 五年前、取り立て屋が私の住んでいた木造アパートに押し入ってきた。


 その月の利息を用意できなかった私は、右手を床に押さえつけられ、指の骨を一本ずつ踏み砕かれた。


 手術で指は残った。


 けれど、選手生命までは守れなかった。


 宗一郎はあとになって、私が高金利の借金をしたとだけ聞いた。その金を何に使ったのか、一度も尋ねなかった。


 美月はキューをテーブルの縁に横たえた。


「一ゲーム勝負しません? あなたが勝ったら、このキューは返します。負けたら、みんなの前で認めてください。昔優勝できたのは、男に取り入るのが上手かったからだって」


 宗一郎はソファに深くもたれ、青ざめた私の顔を見つめた。


「美月に勝て。そうしたら、もう五百万円やる」


 右手にグローブをはめ、左手でキューを握った。


「いいわ」


 ブレイクのあと、個室を満たしていた笑い声は少しずつ消えていった。


 右手では、もう安定したストロークができない。


 だからこの数年、左手で一から練習し直した。最初は真っすぐの球さえ外した。それでも閉店後、毎晩一人でテーブルに向かい、夜明け近くまで撞き続けた。


 角度も、力加減も、手球のポジションも、すべて身体に刻み込まれている。


 一球、二球、三球。


 的球が次々とポケットに沈み、最後に残ったのはナインボールだけだった。


 身を低くし、左腕をまっすぐ振り抜く。


 ナインボールはポケットの縁をかすめ、そのまま吸い込まれるように沈んだ。


 誰も口を開かなかった。


 キューをケースに収める。


「残りの五百万円は、明日振り込んで」


 宗一郎の目が、恐ろしいほど暗く沈んだ。


「ずいぶん上手く隠していたんだな」


 そのとき、着信音が鳴った。


 佐伯医師の声は切迫していたが、隠しきれない喜びがにじんでいた。


「凛さん、移植コーディネート機関から正式に連絡がありました。今回のドナー心臓のレシピエントに、あなたが選ばれました。現地の摘出チームと搬送チームは、すでに準備に入っています。すぐ病院へ来てください」


 スマートフォンを強く握りしめた。


 胸を締めつけていた痛みさえ、急に遠ざかった気がした。


 宗一郎には何も説明しなかった。二度目の五百万円を待つこともしなかった。


 あの瞬間、結婚生活も、屈辱も、個室にいる全員の視線も、すべて背後へ置き去りにした。


 手術室にさえ入れれば、彼に依存するしかなかった暮らしを終わらせられる。


 三年待った。


 ようやく、生きるための順番が私に回ってきた。



3.命を運ぶはずだった航路


 移植センターに到着すると、看護師はすでに術前検査の書類をそろえていた。


 佐伯医師に促されて病衣へ着替え、緊急連絡先と手術同意書をもう一度確認する。手の震えが止まらず、署名はひどく歪んだ。


「搬送を担当する医療ヘリは、四十分後に青嵐県を離陸する予定です。心臓が到着し次第、すぐに手術を始めます」


 病床に横たわり、看護師が静脈ラインを確保するのを見つめた。


 窓の外では、ヘリポートの誘導灯が点いている。当直のスタッフたちは反射ベストを着込み、決められた手順に従って準備を進めていた。


 誰もが当然のように動いているのに、私だけが、自分の番が本当に来たことを信じられずにいた。


 三年間、仕事を変えられなかった。霧浜市を離れることもできなかった。スマートフォンの電源を切ることさえ怖かった。


 知らない番号からの着信一つで、生死が決まるかもしれなかったからだ。


 突然、病室の外を慌ただしい足音が駆け抜けた。


 廊下の奥で、数人の医療スタッフが声を潜めて話している。佐伯医師は電話を切ったあと、その場に長い間立ち尽くしていた。


 病室へ戻ってきた彼の手には、術前検査表が握られたままだった。


「搬送が中止になりました」


 意味が分からなかった。


「黒瀬航空が、この気象条件でも飛行できる唯一のヘリを、急きょ別の任務へ振り替えたそうです。摘出チームは陸路に切り替えましたが、それでは心臓の搬送可能時間に間に合いません」


 黒瀬航空は、緊急医療チャーター、臓器摘出チームの輸送、重症患者の転院搬送などを請け負う民間航空会社だ。


 針を刺した箇所から、小さな血の粒がにじんだ。


「どうして、別の任務に?」


 佐伯医師は私と目を合わせなかった。


 病室のテレビでは、夜のニュースが流れていた。


 画面の中で、黒瀬航空のヘリコプターが御島高度動物医療センターの緊急離着陸場へ着陸する。


 最初にタラップを下りてきたのは宗一郎だった。腕には、美月が飼っているボーダーコリーを抱えている。美月は目を赤くし、そのすぐ後ろを歩いていた。


 記者がヘリポートの入り口まで追いかける。


「黒瀬社長、神崎さんの愛犬を搬送するためだけに、医療搬送用のヘリを急きょ使用したというのは事実ですか?」


 宗一郎は、犬へ向けられたフラッシュを手で遮った。


「ルナに重い不整脈が出ました。陸路での搬送は危険が大きすぎる。美月にとって、ルナは家族です。家族を失わせるわけにはいきません」


 記者は、この臨時任務がほかの医療搬送に影響していないかと続けた。


「発生した費用については、会社が責任を持って負担します」


 宗一郎は静かに答えた。


 遅らされたものが、帳簿上の費用でしかないかのように。


 ニュース映像からヘリが消えるまで、画面を見つめ続けた。


 あれは、ただのヘリコプターではない。


 本来なら、青嵐県へ臓器摘出チームを運び、摘出された私の心臓を霧浜市へ連れ帰るはずだった機体だ。


 看護師が術前用の留置針を抜く間も、涙は出なかった。


 ただ、病室の空気がどんどん薄くなっていく。どれだけ息を吸っても、胸の中が満たされなかった。


 手首にはまだ術前用のリストバンドが巻かれている。氏名、血液型、登録番号がはっきり印字されていた。


 数分前まで、看護師は薬剤アレルギーの有無を確認していた。それなのに今は、準備した器具を一つずつ片づけている。


 ベッド脇に置かれた未開封の手術用品が、どんな慰めの言葉より残酷だった。


「凛さん、今夜はこのまま入院して経過を見ましょう」


 掛け布団を払い、ベッドから降りた。


「彼に会いに行きます」



4.愛人の犬に奪われた心臓


 黒瀬家の邸宅は、月影ヶ丘にある。門の外側には、一面に目隠しガラスが張られていた。


 到着したときも、リビングには明かりがついていた。


 美月は絨毯に座り、検査を終えたばかりのルナをあやしている。宗一郎は掃き出し窓の前で電話をしていた。


 犬はすでに元気を取り戻し、尻尾で美月のスカートを軽く撫でていた。獣医が残した薬の袋がローテーブルに置かれている。


 検査結果によれば、命に別状はない。今後も経過を観察し、治療を続ければいいだけだった。


 止めようとする使用人を押しのけ、宗一郎の前まで進んだ。


「搬送任務を病院へ返して」


 彼は電話を切り、眉をひそめた。


「今度は何を騒いでいる?」


「あのヘリは、本来、臓器摘出チームを迎えに行く予定だった」


 美月がルナを抱き寄せ、顔色をわずかに変えた。


 それでも宗一郎は、私だけを見ていた。


「会社は別のルートを手配している」


 胸の奥を、鋭い痛みが突き抜けた。


 テーブルの角をつかみ、どうにか膝をつかずに耐える。


「もう間に合わない。あの心臓は、私のためのものだったの」


 宗一郎の表情が、一瞬止まった。


「末期の拡張型心筋症なの。移植待機登録をして、三年待った。今日、初めてドナー心臓のレシピエントに選ばれた」


 青ざめた顔を見つめていた彼の目から、驚きが消えていく。


 代わりに浮かんだのは、冷たい疑いだった。


「五百万円欲しさに、そこまでの嘘をつくのか?」


「嘘じゃない」


「前は借金だと言い、今度は死にかけていると言う。次は何だ。俺の子を妊娠したとでも言うのか?」


 美月はルナのそばにしゃがみ込み、慰めるような柔らかい声を出した。


「凛さん、臓器の搬送にはいろいろな機関が関わっているんですよね? 宗一郎が一言命じたくらいで、手術そのものが駄目になるなんて……何か勘違いしていませんか?」


 ニュースの中で、宗一郎は臨時の運航変更を認めていた。


 黒瀬航空は臓器搬送の契約を請け負い、その代表取締役社長が運航管理責任者の反対を押し切って緊急命令を出した。


 それだけで、予定されていた便を止めるには十分だった。


「あなた、あのヘリに別の任務があったと最初から知っていたのね?」


 美月は答えなかった。


 宗一郎が、彼女とルナを庇うように前へ出た。


「もういい。ルナはやっと落ち着いたんだ。ここでわめくな」


 コートのポケットから、傷だらけのビリヤードのキーホルダーを取り出した。


 宗一郎が最も苦しかった頃、一か月分のアルバイト代で買ってくれたものだ。安い金属の縁はすっかり色あせている。それでも私は、ずっと持ち歩いていた。


「部屋が暗かったから、人を間違えたって、いつも言っていたよね」


 キーホルダーを握った指を開く。


「もう、見分けなくていい」


 それをゴミ箱へ落とし、門を出た。


 二度と振り返らなかった。


 宗一郎は追ってこなかった。


 門越しに聞こえたのは、美月がルナをなだめる声と、宗一郎が使用人に絨毯の血を拭くよう命じる声だった。


 そのとき、ようやく分かった。


 この家では、私が残した痕跡のほうが、一匹の犬が起こした騒ぎより簡単に消される。


 鏡森町の木造アパートへ戻った頃には、夜が明けかけていた。


 部屋は六畳一間の和室だけ。浴室と台所が狭い廊下に押し込められ、冬になると古い窓枠の隙間から冷たい風が入り込む。


 結婚写真と古い新聞記事を一枚ずつ破り、台所の流しへ投げ入れた。


 蛇口をひねる。


 写真の中の宗一郎が水に濡れ、輪郭を失っていった瞬間、心臓が強く縮んだ。


 畳の上へ倒れ込み、そのまま意識を失った。



5.運航変更命令に残された署名


 宗一郎は、長い間ゴミ箱の前に立っていた。


 やがて身を屈め、ビリヤードのキーホルダーを拾い上げる。


 使用人がリビングを片づけていたとき、玄関脇に私の忘れたキューケースがあることに気づいた。


 蓋はきちんと閉まっていなかった。隙間から薄い家計簿が滑り落ち、折り畳まれた診療明細も数枚こぼれた。


 最初のページには、五年前の日付が記されていた。


 感情を書き残すための日記ではない。


 何度も計算し直した、生き延びるための帳簿だった。どのページにも、収入、利息、医療費が並んでいる。


『選手時代のメダル、記念品、貯金をすべて処分。百八十万円入金。入院費、自由診療のリハビリ費、黒瀬家の返済期限が来た債務を合わせると、あと四百万円足りない』


 次のページには、高金利ローンの返済額と、霧浜リハビリセンターへ毎月支払った金額が書かれていた。


『右手の手術終了。細かい動きを取り戻すのは難しいと医師に言われた。構わない。宗一郎がまた歩けるなら、それでいい』


 宗一郎の指が、そこで止まった。


 すぐに秘書の三浦を呼びつけ、五年前の治療費を確認させる。


 銀行に残る記録によれば、彼の入院中に支払われた費用は、複数の口座から分割して振り込まれていた。


 振込人は、すべて高瀬凛。


 宗一郎が遊ぶために作った借金だと思い込んでいた金も、すべて彼の手術とリハビリの時期に借りられたものだった。


 三浦は、もう一つの書類を机に置いた。


「社長、今夜の運航変更記録です。運航管理責任者は二度にわたって反対しています。しかし社長が管理者権限を使用し、もとの任務を上書きしました」


 画面の最下部には、宗一郎の電子署名がはっきり残されていた。


「もとの任務は何だった?」


「青嵐県立医療センターへ向かう臓器摘出チームの輸送です。レシピエント側の病院は、霧浜高度医療センターでした」


 宗一郎の顔から、少しずつ血の気が引いていった。


 三浦はさらに、社内通話の記録を呼び出した。


 運航変更の前、美月は運航管理責任者が「心臓の搬送可能時間」について話すのを聞いていた。


 それでも彼女は宗一郎をせかし続けた。ルナは陸路の救急車が到着するまで持たない、と。


 誰かが移植の機会を失うかもしれないと分かったうえで、自分には関係がないと思っていた。


 その誰かが本当に死ぬかもしれないことだけは、考えなかった。


 宗一郎はコートをつかみ、家を飛び出した。


 霧浜高度医療センターの心臓外科には、まだ明かりがついていた。


 宗一郎の名を聞いた佐伯医師の顔には、わずかな温度もなかった。


「凛はどこにいますか」


「権限のない方に、患者の情報はお伝えできません」


「私は夫です」


「凛さんは、あなたを緊急連絡先から外しました」


 宗一郎は廊下の中央で動けなくなった。


 佐伯医師は、会社宛ての事故連絡書を差し出した。


「この件については、監督官庁、警察、臓器移植コーディネート機関へ全記録を提出します。黒瀬社長、あなたが失うのは、一件の搬送契約だけではありません」


 宗一郎は、その書類に触れなかった。


 廊下の向こうでは、家族たちが手術の知らせを待っていた。


 壁にもたれて眠る人。何度もスマートフォンを確認する人。


 ここでは、地位を使って移植の順番を変えられる者はいない。家族のために、次の心臓を予約できる者もいない。


 その人々の中に立ち、宗一郎は初めて知った。


 生と死の前では、自分が持っているものなど何の役にも立たない。


「凛は、本当に死ぬんですか」


「本来なら、生きられる可能性がありました」


 その一言が、宗一郎に残されていた最後の希望を砕いた。



6.私は自分の墓を選んだ


 翌朝、私を見つけたのは水野コーチだった。


 現役時代のコーチであり、宗一郎に代わって新しく登録した緊急連絡先でもある。


 部屋の中でスマートフォンが長い間鳴っているのに誰も出ない。不審に思った大家が管理会社へ連絡し、鍵を開けてもらったのだという。


 病院で目を覚ましたとき、あの心臓が使える時間は、すでに過ぎていた。


 佐伯医師は嘘を言わなかった。


 今の身体では、待ち続けても次の連絡まで持ちこたえられるとは限らない。薬で負担を減らすことはできても、広がってしまった心室を元には戻せない。


 無理は避けなければならない。


 それでも、静かに眠っている最中、致死性不整脈を起こす可能性さえあった。


 退院後、水野コーチが経営する古いビリヤード場の二階へ移った。


 もとは従業員用の休憩室で、シングルベッドと小さな衣装ケースしかない。それでも、鏡森町のアパートよりずっと暖かかった。


 宗一郎は私を捜し始めた。


 彼の写真がニュースに映り、臓器搬送便の変更をめぐって調査が始まった。黒瀬航空は一部の医療搬送業務を停止され、宗一郎自身も代表取締役社長としての職務を一時停止した。


 その後の報道は見なかった。


 水野コーチはテレビのリモコンを引き出しにしまい、記者をビリヤード場へ近づけなかった。


 毎日、医師から指示された時間になると薬を飲むよう声をかける。それ以外は、何も尋ねなかった。


 疑われることに慣れきっていた私にとって、その問いかけない優しさが、最も静かな庇護だった。


 残った金を二つに分けた。


 一つは治療費と介護費の予備として病院へ預け、もう一つで白樫記念霊園の小さな樹木葬区画を契約した。


 契約書に署名を終えた頃、雪が降り始めた。


 霊園の入り口で、宗一郎が待っていた。


 いつもの隙のないスーツ姿ではない。髪は風に乱され、靴には泥がついていた。


「凛、帰ろう」


「どこへ?」


 彼は二歩離れた場所で立ち止まり、それ以上近づこうとしなかった。


「新しい医療チームにも連絡した。調査にも協力している。もう一度だけ、次の機会を待てば――」


「移植を待つかどうかを、あなたが決めないで」


 宗一郎は雪の上に膝をつき、私のコートの裾をつかんだ。


「凛、あの心臓が君のためのものだとは知らなかった」


「私じゃなかったら、見殺しにしてもよかったの?」


 コートをつかんでいた指が、ゆっくりと離れた。


 見下ろしても、仕返しを果たしたような喜びは湧かなかった。


 残っているのは、ひどい疲れだけだった。


「あなたは、見知らぬ患者を傷つけたから後悔しているんじゃない。傷つけた相手が、たまたま私だったと分かったから後悔しているだけ」


「違う……」


「もう遅いよ、宗一郎」


 木の下にある、まだ名前の刻まれていない小さなプレートを指した。


「これは私のために用意したの。あの結婚を葬るためにも」


 宗一郎は雪の中に座り込んだまま、二度と追ってこなかった。


 霊園を離れる足取りは遅かった。それでも振り返らなかった。


 以前なら、喧嘩をするたびに彼が追いかけてくることを期待した。手首をつかんでくれるだけでもよかった。


 今、ずっと求めていた人がようやく背後で膝をついている。


 それなのに、少しでも早く、彼の姿が見えない場所まで行きたかった。



7.最後のナインボール


 霧浜女子ナインボール記念招待大会のエントリー締切を前に、出場申込書を提出した。


 何日も試合を続ける全国プロ大会ではない。引退した選手と現役チャンピオンを招く、一日限りのイベントだった。


 大会運営側は私の体調を把握していた。出場が認められたのは、エキシビション形式の特別マッチ一試合だけ。会場には医師と救急用の機器を待機させることが条件だった。


 すべて受け入れた。


 それでも、佐伯医師は賛成しなかった。


 致死性不整脈、失神、循環不全。


 考えられる危険を一つずつ紙に書き出した。最後まで許可書に署名はせず、医師の立場を使って断念させることもしなかった。


 ただ一つ、会場のモニターに危険な数値が出た場合は、すぐ試合を中止すると約束させられた。


 あの大会は、かつて最も戻りたかった場所だった。


 右手を負傷してから毎年招待状が届いたが、一度も会場へ足を運ばなかった。


 出場を知った宗一郎は、スポンサーを通して招待を取り消させようとした。


 水野コーチは電話を、そのまま私に渡した。


「私のことを、あなたが決めないで」


 電話の向こうで、長い沈黙が続いた。


「凛、その身体では耐えられない」


「分かってる。でも、これは私の身体よ」


「凛……」


「あなたは一度、私から選ぶ権利を奪った。二度目は許さない」


 試合当日、霧浜スポーツ会館の客席は満員だった。


 大会側は私の病気を宣伝材料にはしなかった。入場者リストに記された肩書きは、ただ一つ。


『特別復帰選手 高瀬凛』


 久しぶりに見るその姓の前で、通路に数秒立ち止まった。


 昔の黒い競技用ベストを身につけ、左手でキューを握って照明の中へ歩き出す。


 客席の最後列には、宗一郎が一人で座っていた。暗がりから動かず、近づいてもこない。誰かに私の邪魔をさせることもなかった。


 対戦相手は、現役女子チャンピオンの早川澪。


 彼女は私の体調を理由にプレーを遅くすることも、わざと球を外すこともしなかった。


 スコアが二対〇になった頃には、左腕に痺れが出始めていた。


 休憩スペースで、水野コーチが血圧を測る。


「今やめても、誰も責めない」


「あと十分だけ」


 右手では、もうプロレベルのショットを打てない。


 けれど左手が、失った年月を一つずつ拾い集めてくれた。


 再びテーブルへ向かい、二ゲームを連取する。


 スコアは二対二。


 最終ゲーム、テーブルに残ったのはナインボールだけだった。


 手球の角度は厳しい。一度クッションへ当て、わずかな力で戻さなければならない。


 会場が静まり返った。


 身を低くし、呼吸を整える。


 最後のストローク。


 手球がクッションを叩き、折り返した白球がナインボールにそっと触れる。


 ナインボールはポケットの縁を半周し――落ちた。


 拍手が湧き上がったとき、もう周囲の音はほとんど聞こえていなかった。


 視界の端から、ゆっくり暗くなっていく。


 手の中のキューからも重さが消えた。


 身体が前へ崩れる直前、客席から誰かがテーブルへ駆け上がり、私を受け止めた。


 宗一郎の腕は、支えきれないほど震えていた。


 胸元には、一般観客用の入場証が下がっている。


 以前なら、彼が一言命じるだけでスタッフは会場を封鎖しただろう。


 今回は最後列から人混みをかき分け、何もできないほかの観客たちと同じように、必死で私のもとへ走ってくるしかなかった。


「救護の医師を呼んでくれ!」


 それが、意識を失う前に聞いた最後の言葉だった。



8.二度目の移植通知


 霧浜高度医療センターへ搬送された時点で、私は重度の心原性ショックに陥っていた。


 医療チームは一時的な補助循環装置で血流を維持した。しかし、衰弱した心臓そのものを治せるわけではない。


 佐伯医師は、再び水野コーチへ病状説明書を渡した。


 宗一郎は廊下の向こう側に立つことしかできなかった。


 医師を脅すことも、特別な対応を求めることもなかった。


 最初の臓器搬送事故のあと、会社、病院、移植コーディネート機関は臨時の監督体制を設けていた。


 黒瀬航空が請け負う医療搬送は、すべて外部管財人の承認を必要とする。宗一郎は運航管理システムへの接触を禁じられていた。


 深夜、臓器移植コーディネート機関から、再び連絡が入った。


 脳死下臓器提供者の心臓と適合したという知らせだった。


 ドナーは月代県にいる。搬送は二社が共同で担当し、全行程がリアルタイムで記録されることになっていた。


 廊下の長椅子に座っていた宗一郎は、その知らせを聞いてもすぐには立ち上がらなかった。


 両手で顔を覆い、しばらくしてから三浦を見た。


「外部管財人に連絡して、代替航路と陸上搬送車両が手配済みか確認してくれ。追加費用は私個人が負担する。ただし、私の名前で誰にも圧力をかけるな。医学的な優先順位にも、絶対に手を触れるな」


 少なくとも、それ以降の彼は、金で移植の順番を変えようとはしなかった。


 自分のために例外を作れと求めることもなかった。


 搬送ヘリは夜明け前、病院の屋上へ到着した。


 地上スタッフはあらかじめ搬送通路を閉鎖し、移植外科、麻酔科、集中治療チームが順番に時刻を確認する。


 宗一郎がそこにいるからといって、手順を変える者は一人もいなかった。


 あとで水野コーチから聞いた話では、十二時間に及んだ手術の間、宗一郎はずっと一般待合スペースにいたらしい。


 家族説明室には入らなかった。


 私がすでに、説明を受ける権限を水野コーチへ移していたからだ。


 手術室のランプが消えると、佐伯医師はまず水野コーチへ状況を説明した。


 そのあとで、宗一郎の前へ向かった。


「移植は終了しました。現在、循環動態は安定しています」


 宗一郎は壁に手をつき、その場にゆっくりしゃがみ込んだ。


「凛は、目を覚ましますか」


「手術前の低酸素状態が長く続いています。神経学的な障害が残っているかどうかは、経過を見なければ分かりません」


 今度の彼には、確かな答えを求める資格がなかった。


 夜が明けると、三浦が辞任書類と調査協力の資料を持ってきた。


 宗一郎は取締役辞任届に署名し、会社の代表者印を三浦へ預けた。


 それを条件に面会を求めることもなければ、集中治療室にいる私へ知らせろと命じることもなかった。



9.目覚めた私は、彼を知らなかった


 一か月後、目を開けた。


 最初に見えたのは白い天井と点滴台、それから窓辺にいる水野コーチだった。


 佐伯医師はベッドの足元に立ち、名前を言えるか、なぜ入院しているか覚えているかと尋ねた。


 自分の名前は答えられた。


 ナインボールの試合も、右手の古傷も覚えていた。


 宗一郎が病室へ入ってきたとき、数秒だけ彼を見つめた。


「こちらの方は?」


 彼の足が、病室の中央で止まった。


「凛、俺だ」


 続きの説明を待つように、静かに彼を見返した。


「黒瀬宗一郎。俺たちは、五年前に結婚した」


「すみません。覚えていません」


 その後、画像検査と認知機能評価が行われた。


 手術前に長時間続いた低灌流によって、部分的な記憶障害が起きた可能性はある。ただし、どの範囲の記憶が失われているかは、検査だけでは断定できなかった。


 少女時代のことも、水野コーチのことも、ビリヤードのルールも覚えている。


 ただ、結婚後の五年間だけが思い出せない――私は医師にそう説明した。


 宗一郎は結婚写真と、あの古いビリヤードのキーホルダーを持ってきた。


 写真の中の自分を見ても、懐かしそうな表情は見せなかった。


「昔はいろいろあったのかもしれません。でも、今は無理に思い出そうとは思いません」


 宗一郎はキーホルダーを掌へ戻した。


「凛、俺は待つ」


「待たなくて結構です」


 弁護士に離婚協議書の作成を依頼した。


 宗一郎が署名したあと、正式に離婚届を提出し、旧姓の高瀬へ戻した。


 黒瀬家から提案された財産分与はすべて断った。


 正式な和解に基づき、受け取ったのは、本来支払われるべき不貞行為の慰謝料と、最初の搬送事故に対する民事上の損害賠償だけだった。


 手続きが終わると、病室のネームプレートも「黒瀬凛」から「高瀬凛」へ変わった。


 宗一郎は署名を終えたあと、一度も病室へ入ってこなかった。


 一度だけ、扉の外に立っていたことがある。


 看護師が私へ知らせるか尋ねると、彼は首を横に振り、差出人の名前がない白いトルコキキョウの花束を受付へ預けた。


 水野コーチはその花を共用ラウンジに飾った。


 誰が持ってきたのか、私は最後まで尋ねなかった。


 退院の日、宗一郎は病院正面の向かい側にある木の下に立っていた。


 その前を、ほかの見知らぬ人と同じように通り過ぎた。



10.他人としての距離


 リハビリには半年かかった。


 水野コーチのビリヤード場へ戻り、最も簡単なストレートショットから練習を始めた。


 移植後の薬の影響で疲れやすい。長い間、右手をかばい続けた左手にも故障が残っている。


 それでも、私はもう一度テーブルの前に立てた。


 ビリヤード場はその後改装され、「ビリヤードスクール LUMEN」と名前を変えた。


 費用はクラウドファンディングと、競技復帰支援制度から出ている。会計はすべて弁護士が確認し、宗一郎は関わっていない。


 医療搬送事故の調査が終わると、宗一郎の取締役辞任届は正式に受理され、会社における経営権限もすべて失われた。


 しばらくの間、メディアは謝罪会見のたびに彼を追いかけた。やがて新しいニュースが過去の事件を押し流したが、宗一郎の生活が元に戻ることはなかった。


 黒瀬航空は病院と臓器移植コーディネート機関へ公式に謝罪した。関係者には行政処分が下され、宗一郎は運航管理への違法な介入、運航記録の不正操作、会社業務の妨害などで起訴された。


 美月の商業契約も、すべて打ち切られた。


 調査記録によれば、彼女は通話の中で「臓器摘出チーム」という言葉をはっきり聞いていた。それでも、ルナの搬送を優先するよう宗一郎へ求め続けた。


 事件後は責任をすべて宗一郎に押しつけ、SNSでは自分が陥れられたと匂わせる投稿を繰り返した。


 宗一郎から連絡が来ることはなくなった。


 ただ、一般公開の試合を開くと、時折、客席の最後列に彼の姿を見かけた。


 いつも試合が終わる前に席を立ち、控室へ近づくことはなかった。


 ビリヤード場には、新しい音が増えていった。


 子どもたちは色とりどりのキューを取り合い、引退後の高齢者たちは決まって午後に練習へ来る。昔のプロ仲間が、たまに一ゲーム付き合ってくれることもあった。


 移植を受けたからといって、人生が楽になったわけではない。


 それでもようやく、宗一郎の選択を中心に回らない毎日を手に入れた。


 ある日、新しく入った若いインストラクターが尋ねた。


「あの、いつも濃い色の帽子をかぶってる男性、凛さんの知り合いですか?」


「知らない人よ」


 その三文字を口にしたとき、手は少しも震えなかった。



11.刃の前に立った男


 美月も、医療搬送を妨げる行為への関与と、虚偽の運航理由を提示した疑いで起訴された。


 公判が始まる前に保釈されたものの、裁判所は保釈条件として、私、病院関係者、黒瀬航空の関係者への接触を禁じた。


 弁護人からも、公の場での発言をやめるよう繰り返し警告されていた。


 それでも彼女は、自分が宗一郎の庇護を失っただけだと思い込んでいた。


 美月は保釈条件を破り、刃渡り十センチ近い折り畳みナイフを持ってLUMENへ押し入った。


 その日、教室では子ども向けの体験会を開いていた。


 入り口のスタッフが止めるより早く、彼女は人混みをかき分けて突進してきた。


「高瀬凛!」


 振り返った瞬間、照明を弾く刃だけが見えた。


 横から誰かが体当たりし、私を突き飛ばした。


 ナイフは宗一郎の腹部へ突き刺さった。


 彼は身体を折り曲げながらも、私と美月の間に立ち続けた。


 スタッフがすぐ非常通報ボタンを押した。近くにいた警察官が駆けつけ、美月を床へ押さえ込む。


 宗一郎はテーブルにもたれるように座り込んだ。


 白いシャツが、見る間に血で染まっていく。


 彼の前に膝をつき、救急箱から取り出したガーゼで傷口を強く圧迫した。


「話さないで。すぐ救急車が来るから」


 宗一郎は青ざめた顔で、私を見た。


「君が無事なら……それでいい」


「目を閉じないで」


 救急隊員が彼を担架へ移したとき、指先が私の袖に触れた。


 けれど、すぐに引っ込めた。


 宗一郎の弁護士へ連絡し、警察で事情聴取に応じた。


 病院には同行しなかった。


 数日後、三浦が一通の手紙を届けに来た。


 宗一郎が書いたのは、二行だけだった。


『止血してくれて、ありがとう。君は、俺に何一つ借りていない』


 手紙は弁護士へ渡して保管してもらった。


 返事は書かなかった。


 命を助けたからといって、過去に与えた傷が消えるわけではない。


 自分が傷ついたことも、私の人生へ戻るための通行証にはならない。


 あの瞬間、彼が刃を受けたことには感謝している。


 けれど、その感謝はあの場だけのものだ。


 自動的に許しへ変わることも、終わった結婚をつなぎ直すこともない。


 美月は殺人未遂と銃刀法違反の疑いで現行犯逮捕され、裁判所はその後、保釈を取り消した。


 宗一郎は手術を受け、一命を取り留めた。


 その後の公判では、自らが行った権限逸脱をすべて認めた。減刑を求めることはなく、処分可能な個人資産を医療搬送事故の補償基金へ充てたいと申し出ただけだった。


 それは贖罪ではない。


 せいぜい、彼がようやく自分の行いの結果を引き受け始めたというだけだった。



12.私は最初から、すべて覚えていた


 公判と控訴審、上告審を含む三年にわたる裁判の末、宗一郎には実刑判決が下された。


 刑務所へ移送される前、刺傷の古傷が感染したため、彼は一時的に拘置所の医療区画で治療を受けていた。


 三浦がビリヤード場を訪れ、最後に一度だけ会ってほしいと頼んだ。


 二度断った。


 三度目に、会うことにした。


 気持ちが揺らいだからではない。今さら謝罪を期待したわけでもない。


 ただ、病室とビリヤードテーブルとヘリコプターに絡みついたあの過去を、本当に終わらせるには、意識のはっきりした私自身の口で伝えなければならない言葉があると思った。


 面会室は、分厚いガラスで仕切られていた。


 机には二台の受話器が固定され、壁際の時計はひどくゆっくり進んでいる。


 職員は、双方を見渡せる位置から一度も動かなかった。


 宗一郎は、記憶の中よりずっと痩せていた。


 いつもきれいに整えていた髪は短く切られている。腹部の手術の後遺症が残っているのか、椅子に座る姿勢も安定していなかった。


 彼は受話器を取り、私の顔を見つめた。


「凛、元気にしているか」


「元気よ」


「まだ、ビリヤードを?」


「来月、復帰戦がある」


 宗一郎は、少しだけ笑った。


「そうか。よかった」


 長い沈黙が流れた。


「凛、本当に俺のことを何一つ思い出していないのか?」


 ガラスに映った自分の顔を見る。


「私、最初から記憶なんて失ってない」


 受話器を握る宗一郎の手に、急に力が入った。


「手術後の検査で、一時的な記憶の混乱が見つかったのは本当。でも、目を覚ましたときから、あなたが誰か分かっていた」


 ホテルの部屋。


 NOIR EIGHT。


 そして、航路を変えられたあのヘリコプター。


「全部、覚えてる」


 宗一郎の唇が動いた。


 声は聞こえなかった。


「覚えていると認めたら、あなたは罪悪感を新しい鎖に変えたでしょうね。病室の外に立ち続けて、医師も、住む場所も、私の未来も勝手に手配する。そして、これは償いだと周りに説明する」


「俺は、君を救いたかっただけだ」


「私が本当に救いを必要としていたとき、あなたは美月と、その犬を選んだ」


 ガラスの向こうで、宗一郎が俯いた。


「そのあと私は生き延びた。だから、もう二度とあなたに何かを決めてもらう必要はない」


 バッグから、あのビリヤードのキーホルダーを取り出した。


 離婚後、弁護士が共有物を整理した際、私のもとへ郵送してきたものだ。


 捨てずに持っていた。


 職員へ渡し、宗一郎に届けてもらう。


「これ、返すね」


 宗一郎はガラス越しに私を見た。


「俺を、憎んでいるか」


「もう憎んでいない」


 一つの関係が本当に終わるのは、憎しみが最も強くなったときではない。


 その人の名前を聞いても、心の中に、もう返したい言葉が何一つ残っていないときだ。


「宗一郎、来世では会わないようにしよう」


 受話器を置き、立ち上がった。


 彼は私を呼び止めなかった。


 背後でガラス扉が閉まっても、勝ったとは思わなかった。


 宗一郎は刑期を終えたあとも生きていく。


 自分がどのように一人の人間を失ったのか、覚えたまま。


 私もあの出来事を忘れない。


 けれど、もう彼の苦しみを使って、自分の価値を確かめる必要はなかった。


 拘置施設を出ると、外には眩しい日差しがあふれていた。


 街角から吹く風には、初春の冷たさがわずかに残っている。


 水野コーチが車で路肩に待っていた。


 後部座席には、私の左手のプレースタイルに合わせて作り直された新しいキューが置かれている。


「このまま店へ行くか?」


「もちろん」


 今日は、いい天気だ。


 ビリヤードをするのに、ちょうどいい。




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