第1話「1分遅れ」
朝、神谷ゆたかが目を覚ました瞬間から、世界はいつも通りに見えた。
天井の染み、カーテンの隙間から差し込む光、遠くで鳴る車の音。どれも昨日と変わらない。
だが、その“変わらなさ”が逆に違和感だった。
時計を見る。6時59分。
あと1分で7時になる。いつもと同じ時間。
しかし、その「あと1分」が妙に長く感じられた。
ゆたかは布団から起き上がり、制服に袖を通す。
鏡の前で髪を整えるとき、自分の動作と鏡の中の動作が、ほんのわずかにズレている気がした。
――気のせいだ。
そう処理できる程度の違和感。
だが、それが最初だった。
家を出ると、朝の空気は冷たくも温かくもなく、ただ“中途半端”だった。
通学路の電柱、犬の散歩をする老人、交差点の信号機。すべてがいつも通り配置されているはずなのに、何かが微妙に噛み合っていない。
駅に向かう途中、ゆたかはふと気づく。
足音が、自分より半拍遅れている。
コツ、コツ、と地面を踏む音のあとに、わずかに遅れて“同じ音”が返ってくる。
風の音も、車の音も、すべてがほんの一瞬だけ遅れて届くような感覚。
駅前のデジタル時計を見ると、表示は「7:12」。
問題ないはずの時刻。
だがその数字が、ゆたかの認識の中では「7:11」のまま止まっていた。
視線をそらす。
もう一度見る。
7:12。
――1分だけズレている。
ゆたかは立ち止まる。
周囲の人間は普通に歩いている。誰も時計を見ていない。誰も立ち止まらない。誰も違和感を持っていない。
自分だけが、世界のリズムから外れているような感覚。
改札を通る。
ICカードの読み取り音が、ほんの一瞬遅れて耳に届く。
ピッ。
その音は確かに鳴ったはずなのに、鳴った“あと”に気づく。
ホームに上がると、電光掲示板が揺れて見えた。
次の電車の到着時刻は「7:15」。
だがその数字が、ゆたかの目には一瞬「7:14」に見えた。
すぐに戻る。
視界の揺れか。疲れか。
そう考えようとしても、身体の奥に引っかかる感覚が消えない。
電車が来る。
ゴォォ、と走行音が響く。
しかしその音は、実際に電車が見えてから聞こえるのではなく、見える“前”に鳴っているように感じられた。
ドアが開く。
――その音も、遅れて聞こえる。
乗客たちは何も気にせず乗り込んでいく。
スマホを見ている者、眠そうにしている者、イヤホンをしている者。
誰も“ズレ”を感じていない。
ゆたかだけが、その場に立ち尽くしている。
電車に乗り込むと、車内の時間はさらに歪む。
吊り広告の文字が一瞬だけ読めなくなる。
窓の外の景色が、わずかに逆再生のように流れる。
隣の人の瞬きと、瞬きの“残像”がずれている。
そして気づく。
音と映像と感覚が、すべて1分だけずれている。
正確には、「現実」ではなく「認識」が遅れている。
ゆたかはスマートフォンを取り出し、メモアプリを開く。
指が少し重い。
そこに文字を打つ。
「1分遅れ」
入力した瞬間、画面が一瞬だけノイズのように歪んだ。
まるでその言葉を拒否するように。
ゆたかは画面を見つめる。
他の人間はこの違和感に気づいていない。
それどころか、このズレそのものが“最初からそうであったかのように”世界に馴染み始めている。
このまま放置すれば、誰も違和感を持たなくなる。
――いや、もう持っていないのかもしれない。
電車が動き出す。
ガタン、と揺れた瞬間、窓の外の景色だけがわずかに遅れて流れ始めた。
そしてその遅れの中に、一瞬だけ“誰かの視線”が混じった気がした。
ゆたかは反射的に窓を見る。
何もいない。
だがそのとき、スマホのメモに勝手に一行が追加されていた。
> 「観測対象:未確定」




