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「唇に春を灯して。〜デパコスデビューの彼女と最初の一色〜」

作者: かぐつち・マナぱ
掲載日:2026/05/12

誰にでも、『ここは自分には似合わない』と感じてしまう場所があると思います。


私にとって、それは昔、百貨店の化粧品売り場でした。


磨き上げられたガラス。

整いすぎているカウンター。

綺麗な人たち。

漂う香り。


どこを見ても完成されていて、その中に入るには、自分はまだ足りない側の人間のような気がしていたのです。(´・ω・`)<今も、ぜんぜん足りてないですけどw


本当は、少し興味がありました。

口紅も、アイシャドウも、試してみたかった。


でも、「似合わなかったらどうしよう」「場違いだと思われたらどうしよう」という気持ちのほうが、ずっと強かった。


だから、何も選ばない。

選ばなければ、間違えなくて済むから。


この物語は、そんな選べなかった側の記憶と、新しいことに向かう人への応援から生まれました。


誰かに綺麗にしてもらう話ではなく、自分で「これがいい」と決めるまでの話です。


唇に乗せる小さな一色が、ほんの少しだけ、自分の明日を好きになれる理由になる。


そんな春の、おしごとの物語を、楽しんでいただけたら嬉しいです~♪(*´▽`*)


 百貨店一階。

光と香りが、静かに層をなす場所。


いくつもの高級ブランドが放つ芳香が、計算された湿度の中で溶け合い、訪れる人の緊張をほどいていく。


その設計を、私は知っている。

だからこそ、その外側にいる人の硬さも——分かる。


今の私は、迎える側にいる。


私は、BAの(ビューティー)藤原(アドバイザー)

誰かの「なりたい」を肯定するために、この場所に立っている。


ゆるやかにウェーブさせた髪を後ろでまとめ、柔らかなベージュのジャケットを纏う。

鏡に映る自分は、誰かの理想を肯定するための輪郭。


腰のポーチには、数十本のブラシ。その一本一本が、うまく伝えられなかった日の記憶を、静かに抱えている。



——視線は商品に向いているようで、手には何も触れず、何度も展示棚の前を通り過ぎる女性がいた。


足取りは一定なのに、わずかにリズムが崩れている。


(入る理由を探している)

あるいは——

(引き返す理由を、まだ手放せていない)


やがて、彼女の足先が、ほんの一歩だけこちらへ向いた。

その数センチを、私は見逃さない。


私も一歩、前へ。

近すぎず、遠すぎず。

『逃げ場を残す距離』——それが、声をかける間合い。


「——佐々木 志乃様でいらっしゃいますか。本日はご予約、ありがとうございます」


彼女は一瞬だけ驚き、それから小さく頷いた。


「……SNSで拝見して……初心者でも浮かない春のメイクの……」


その声には、『ここにいていい理由を与えられた安堵』が揺れている。

来てもいい理由を、自分に確かめている。


「ありがとうございます。お越しいただけて、とても嬉しいです」


声の温度を、ほんの少しだけ下げる。

高すぎる期待は、緊張になる。低すぎる反応は、不安になる。


その中間を、探る。


「あの……お化粧なんて全然したことがなくて。でも、仕事先で失礼のないように……」


糊のきいた黒のリクルートスーツ。整えられすぎた髪。

乱れのなさは、美しさであると同時に——余裕の無さでもある。


(崩し方を、まだ知らない)


メイクはほとんどしていない。

何も纏わないその素顔は、無垢というよりも、判断を保留している顔。

似合わないものを選ばないために、最初から選択を(せば)めている。


——昔の私と、同じ。


私は彼女の震える手を取り、鏡の前へと促した。


椅子に腰を下ろした志乃様は、どこか固かった。


「私、こういうところ、初めてで……ちゃんとできるか、自信がなくて……」


『ちゃんと。』


その言葉に、私は一拍置く。



あの日、鏡の前で固まっていた私に、あの人は言った。


『似合うかどうかは、後でいいわ。——今は、あなたが選びたい色を教えて』



──正しくやる必要はない。


「今日はお時間がありますので、ゆっくりと、ひとつずつ進めていきましょう」


膝の上で拳を握りしめる志乃様の肌は、ファンデーションを重ねるのがためらわれるほど、内側から発光するような瑞々しさに満ちている。


──順番にやればいい。


その構造を、なだらかに渡していく。


挿絵(By みてみん)


彼女の深呼吸ひとつ。


吐息が、少しずつ柔らかくなる。



——やがて、色を選ぶ段階に来た。


三本だけ、横に並べる。


コーラルピンク——華やかだが、今の彼女には少し前のめりかもしれない。


ローズベージュ——馴染みがいい。でも、それだけ。


春霞のピンク——透明感があって、淡い。決して主張しないのに、存在する色。


似合うだけでは選ばない。


「どれも素敵で……でも……」


揺れる余地を残す。


「……どれが似合うんでしょうか」


私は、答えない。


その沈黙は、あなたが選んでいいという許可。


志乃さんの視線が、三本の上をゆっくりと動く。

右へ。左へ。また右へ。


迷いながら、それでも何かを確かめている。


触れるか、触れないか。

その境界に、彼女はいた。


(まだ、選んで、決めていいか分からない)


私はただ、その一本を、彼女の手元に少しだけ近づける。


それだけで、いい。


「……これ、触ってみてもいいですか」


志乃さんの指が——動いた。


自分で、聞いた。

私に、ではなく——自分自身に。


「もちろんです。……よければ、ご自身で使ってみてください」


そっと差し出したリップアプリケーターを、志乃は震える指先で受け取る。


鏡の中の自分と、初めて正対する。


志乃さんは小さく息を吐き出すと、唇の端から中央に向かって、なぞるように色を滑らせた。


瑞々しく、けれど確かな質感を持った春霞のピンク。


それは、もともとの唇の血色を否定するのではなく、内側から眠っていた生命力を呼び覚ますような、淡く透き通った色彩だった。


ひと塗りごとに、彼女の輪郭が鮮明になっていく。


リクルートスーツの硬さに埋もれていた彼女の表情が、春の陽だまりを吸い込んだように、ふわりと柔らかな光を放ち始めた。


最後に上下の唇をそっと合わせ、「ん、ぱ」と小さく音を立てて馴染ませる。


「……あ」


その瞬間、志乃さんの瞳に光が宿った。


誰かの指示を待つ光ではなく、自分で選び取ったものを抱きしめるような輝き。


鏡の中にいたのは、場違いにならないよう息を潜めていた自分ではなく、春の風を連れて歩き出そうとしている、一人の凛とした女性だった。


潤いを纏った唇が、わずかに弧を描く。


たった数ミリの色彩の変化が、彼女の纏う空気そのものを、一瞬で書き換えてしまった。


「……これで……いいんですよね……」


唇の色より先に、似合っていてほしいという祈りが、胸の奥に浮かんでいるのが分かった。


期待してしまうこと自体を、まだ少しだけ恐れている顔だった。


「——なんだ。結局、ここに来てたのか」


——そのとき、空気が変わった。


低い声。振り返った先に、薄い紺のスーツの男性——が立っていた。


(来るつもりは、なかった……けれども、見に来た)


そんな立ち方だった。


「……高瀬先輩が、来てくれるなんて……。でも、ちょっとだけ……心強いです」


高瀬は、並んだ三本を一瞥する。


「……帰り道だ。近くに用があってな」


ぶっきらぼうな声音。


どれも間違いではない。だが——ひとつに、視線が止まる。


「……それ。右のやつ」


軽く言う。


私は、その一本を手に取る。


「春っぽいし、お前に合ってるんじゃないか」


志乃さんの目が、少しだけ開く。


「……私が選んだ、口紅なんですけど……どうですか?」


鏡の中の志乃さんは、まっすぐ高瀬さんを見ていた。


高瀬は、一拍だけ視線を置いた。


まるで、彼女が自分でそこへ辿り着くのを待っていたみたいに。


そして、静かに言う。


「……似合ってる」


その言葉は、褒めるためというより——その選択でいいと、背中を押す響きだった。


「……いいじゃん。その唇、春らしくてお前らしい。……美味しそうな色だな」


春霞の色が、薄ピンクの表情に馴染んでいく。


「美味しそうって、ヘンなセリフ……これなら、私……明日、顔を上げて歩ける気がします」


選んだ後の『満足した笑顔』。それが、そこにあった。



多くの品が選ばれて——会計のとき。高瀬さんがスマートにカードを差し出した。


「就職祝い、まだだったな。選んだのまとめて——」


志乃さんの手が、ぴくりと揺れました。


「えっ……そんな……悪いですよ……」


一瞬、視線が下がる。


けれど――


志乃さんは、首を振る。


そして、そのままルージュを手に取る。


しっかりと、握る。


挿絵(By みてみん)


「……このリップだけは、自分で買います」


その声は、はっきりしていました。


「自分で選んで……先輩に褒めてもらったものだから。

 これだけは、私の責任で、自分のものにしたいんです」


一瞬の沈黙。


「……いいな、それ」


高瀬さんは、小さく笑う。


「じゃあ、それ以外は俺に回せ。それくらいはさせろ」


私は何も言わず、手を動かします。


それぞれの選択を、壊さないように。


それぞれの矜持を、包むように。


薄紙で商品を包み、箱へ収める。

リボンをかける、その一瞬のあいだに――


私は、小さなカードを一枚、そっと手に取りました。


白地に、ごく控えめな金の縁取り。

主張しすぎず、けれど記憶には残る一枚。


ペン先を走らせる。


『お二人の新たな春を、心より応援いたします。』


書き終えた文字は、あくまで簡潔に。


けれど、ほんの少しだけ温度を込めて。


それを、リップの箱の下へと静かに忍ばせました。


気づくかどうかは分からない。

けれど――いいのです。


言葉は、ときに「後から効いてくる」ものだから。



「お待たせいたしました」


袋を手渡すとき。


志乃さんの指は、もう震えていませんでした。


「ありがとうございました」


来たときよりも、明るい声。


高瀬さんが私に向き直り、ふっと頭を下げた。


二人は、並んで出ていく。


歩幅は、自然に揃っていた。


自動ドアの向こうは、薄桃色の空気。花びらが、肩に落ちる。


二人を見送った後、背後から「コッ、コッ」と規則正しい、硬質な靴音が近づいてきた。


フロアマネージャー。


かつて私にメイクの魂を叩き込んでくれた、生涯の師匠だ。


「……藤原。あんた、あの彼が次に一人で来たら、迷わず炭酸配合の導入美容液と目元用の冷却ジェルを勧めなさい」


年配の女性ならではの、慈愛と鋭さが同居した声。


「……お気づきでしたか」


「当たり前でしょう。あのお客様、靴の踵のすり減り方と、目の奥の血管の浮き方を見ればわかるわ。相当なハードワークが続いて、神経が逆立っている。あの子の門出を祝うために、無理をしてここへ寄ったのよ」


師匠の観察眼に、私は息を呑んだ。


「言葉で労う必要なんてないわ。ただ、肌の火照りを取って差し上げなさい。それだけで男の人は救われるものよ。……でも、今日のお客様への『あのリップ』の提案、あれは満点。あんたの指先、今日は迷いがなかったわね」


師匠は私の肩を一度だけポン、と叩き、凛とした背筋を伸ばしたまま去っていった。


かつての彼女なら、ここで「修行が足りない」と突き放していたはずなのに。


(……ずいぶんと、丸くなられた)


そう思い、私は少しだけ胸が熱くなった。


いえ、違う。


師匠は「丸くなった」のではない。


お客様の心に寄り添うために、この時代に合わせて、ご自身の「厳しさ」の形を変えておられるのだ。


「売上を追わない日のほうが、結果的に数字がついてくる。……先生に教わった通りですわ」


私は艷やかに微笑んで見せた。


でも、師匠にはすべてお見通しなのだろう。


私はまだ、彼女の掌の上で踊る魔法使いの弟子に過ぎないことも。


──あの一本が、いつか彼女にとって「覚悟の赤」に変わる。


迷った日の色は、すぐに減っていく。


人は、確かめるように何度も手に取るから。


私はポーチの中の筆を一本、愛おしむように撫でた。


(あの日、届けられなかった言葉)


今は、間に合う場所にある。


(さあ)


視線を上げる。


(次の魔法を——準備しましょうか)



——数日後、あのリップの色を迷いなく重ねる姿を、私は鏡越しに見つけた。



この物語を書きながら、私は何度も「最初に自分で選んだもの」のことを思い出していました。


服でも、靴でも、化粧品でも。

誰かに勧められたからではなく、「これが好きかもしれない」と、自分の意思で手を伸ばした瞬間。

それは、たぶん物そのもの以上に、「自分で決めた」という感覚が嬉しかったのだと思います。


志乃にとって、春霞のピンクは、ただの口紅ではありません。

「場違いにならないように息を潜めていた自分」から、一歩だけ前へ進むための、小さな灯りでした。


そして、迷いながら選んだ色ほど、案外すぐ減っていきます。

何度も確かめるように使うから。

ちゃんと自分のものになったか、確かめたくなるから。


もし今、あなたにも「踏み込むには少し勇気がいる場所」があるなら。

どうか、その迷いごと大切にしてください。


迷いながら選んだものは、きっと長く、あなたの中に残っていくはずです。


あなたの春にも、優しい色が灯りますように。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。(*人´ω`*)

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― 新着の感想 ―
どきどきで、素敵なお話でした。 ゜+(人・∀・*)+。♪ どきどき >踏み込むには少し勇気がいる場所 何処だろう?……うーん。 色々考えたけど、分からないや……。 しかし、かぐつち・マナぱ様は多彩です…
デパコスという言葉を初めて聞いたんですが、デパートのコスメの略なんですね♪(*^^*) 僕があまり立ち入らない領域なので新鮮でした〜、と感想を書こうと思ったんですが、ちょうど去年に友達の娘の誕生日に…
理解できないようで理解できる世界観だ( ̄∇ ̄) まあ、セールスマン的な思考という意味でね。 でもこんな風に任せてくれる上司は、居るようで居ないんだよなあ。 経験と、見るべき所を見るための先人の知恵を…
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