「唇に春を灯して。〜デパコスデビューの彼女と最初の一色〜」
誰にでも、『ここは自分には似合わない』と感じてしまう場所があると思います。
私にとって、それは昔、百貨店の化粧品売り場でした。
磨き上げられたガラス。
整いすぎているカウンター。
綺麗な人たち。
漂う香り。
どこを見ても完成されていて、その中に入るには、自分はまだ足りない側の人間のような気がしていたのです。(´・ω・`)<今も、ぜんぜん足りてないですけどw
本当は、少し興味がありました。
口紅も、アイシャドウも、試してみたかった。
でも、「似合わなかったらどうしよう」「場違いだと思われたらどうしよう」という気持ちのほうが、ずっと強かった。
だから、何も選ばない。
選ばなければ、間違えなくて済むから。
この物語は、そんな選べなかった側の記憶と、新しいことに向かう人への応援から生まれました。
誰かに綺麗にしてもらう話ではなく、自分で「これがいい」と決めるまでの話です。
唇に乗せる小さな一色が、ほんの少しだけ、自分の明日を好きになれる理由になる。
そんな春の、おしごとの物語を、楽しんでいただけたら嬉しいです~♪(*´▽`*)
百貨店一階。
光と香りが、静かに層をなす場所。
いくつもの高級ブランドが放つ芳香が、計算された湿度の中で溶け合い、訪れる人の緊張をほどいていく。
その設計を、私は知っている。
だからこそ、その外側にいる人の硬さも——分かる。
今の私は、迎える側にいる。
私は、BAの藤原。
誰かの「なりたい」を肯定するために、この場所に立っている。
ゆるやかにウェーブさせた髪を後ろでまとめ、柔らかなベージュのジャケットを纏う。
鏡に映る自分は、誰かの理想を肯定するための輪郭。
腰のポーチには、数十本のブラシ。その一本一本が、うまく伝えられなかった日の記憶を、静かに抱えている。
——視線は商品に向いているようで、手には何も触れず、何度も展示棚の前を通り過ぎる女性がいた。
足取りは一定なのに、わずかにリズムが崩れている。
(入る理由を探している)
あるいは——
(引き返す理由を、まだ手放せていない)
やがて、彼女の足先が、ほんの一歩だけこちらへ向いた。
その数センチを、私は見逃さない。
私も一歩、前へ。
近すぎず、遠すぎず。
『逃げ場を残す距離』——それが、声をかける間合い。
「——佐々木 志乃様でいらっしゃいますか。本日はご予約、ありがとうございます」
彼女は一瞬だけ驚き、それから小さく頷いた。
「……SNSで拝見して……初心者でも浮かない春のメイクの……」
その声には、『ここにいていい理由を与えられた安堵』が揺れている。
来てもいい理由を、自分に確かめている。
「ありがとうございます。お越しいただけて、とても嬉しいです」
声の温度を、ほんの少しだけ下げる。
高すぎる期待は、緊張になる。低すぎる反応は、不安になる。
その中間を、探る。
「あの……お化粧なんて全然したことがなくて。でも、仕事先で失礼のないように……」
糊のきいた黒のリクルートスーツ。整えられすぎた髪。
乱れのなさは、美しさであると同時に——余裕の無さでもある。
(崩し方を、まだ知らない)
メイクはほとんどしていない。
何も纏わないその素顔は、無垢というよりも、判断を保留している顔。
似合わないものを選ばないために、最初から選択を狭めている。
——昔の私と、同じ。
私は彼女の震える手を取り、鏡の前へと促した。
椅子に腰を下ろした志乃様は、どこか固かった。
「私、こういうところ、初めてで……ちゃんとできるか、自信がなくて……」
『ちゃんと。』
その言葉に、私は一拍置く。
あの日、鏡の前で固まっていた私に、あの人は言った。
『似合うかどうかは、後でいいわ。——今は、あなたが選びたい色を教えて』
──正しくやる必要はない。
「今日はお時間がありますので、ゆっくりと、ひとつずつ進めていきましょう」
膝の上で拳を握りしめる志乃様の肌は、ファンデーションを重ねるのがためらわれるほど、内側から発光するような瑞々しさに満ちている。
──順番にやればいい。
その構造を、なだらかに渡していく。
彼女の深呼吸ひとつ。
吐息が、少しずつ柔らかくなる。
——やがて、色を選ぶ段階に来た。
三本だけ、横に並べる。
コーラルピンク——華やかだが、今の彼女には少し前のめりかもしれない。
ローズベージュ——馴染みがいい。でも、それだけ。
春霞のピンク——透明感があって、淡い。決して主張しないのに、存在する色。
似合うだけでは選ばない。
「どれも素敵で……でも……」
揺れる余地を残す。
「……どれが似合うんでしょうか」
私は、答えない。
その沈黙は、あなたが選んでいいという許可。
志乃さんの視線が、三本の上をゆっくりと動く。
右へ。左へ。また右へ。
迷いながら、それでも何かを確かめている。
触れるか、触れないか。
その境界に、彼女はいた。
(まだ、選んで、決めていいか分からない)
私はただ、その一本を、彼女の手元に少しだけ近づける。
それだけで、いい。
「……これ、触ってみてもいいですか」
志乃さんの指が——動いた。
自分で、聞いた。
私に、ではなく——自分自身に。
「もちろんです。……よければ、ご自身で使ってみてください」
そっと差し出したリップアプリケーターを、志乃は震える指先で受け取る。
鏡の中の自分と、初めて正対する。
志乃さんは小さく息を吐き出すと、唇の端から中央に向かって、なぞるように色を滑らせた。
瑞々しく、けれど確かな質感を持った春霞のピンク。
それは、もともとの唇の血色を否定するのではなく、内側から眠っていた生命力を呼び覚ますような、淡く透き通った色彩だった。
ひと塗りごとに、彼女の輪郭が鮮明になっていく。
リクルートスーツの硬さに埋もれていた彼女の表情が、春の陽だまりを吸い込んだように、ふわりと柔らかな光を放ち始めた。
最後に上下の唇をそっと合わせ、「ん、ぱ」と小さく音を立てて馴染ませる。
「……あ」
その瞬間、志乃さんの瞳に光が宿った。
誰かの指示を待つ光ではなく、自分で選び取ったものを抱きしめるような輝き。
鏡の中にいたのは、場違いにならないよう息を潜めていた自分ではなく、春の風を連れて歩き出そうとしている、一人の凛とした女性だった。
潤いを纏った唇が、わずかに弧を描く。
たった数ミリの色彩の変化が、彼女の纏う空気そのものを、一瞬で書き換えてしまった。
「……これで……いいんですよね……」
唇の色より先に、似合っていてほしいという祈りが、胸の奥に浮かんでいるのが分かった。
期待してしまうこと自体を、まだ少しだけ恐れている顔だった。
「——なんだ。結局、ここに来てたのか」
——そのとき、空気が変わった。
低い声。振り返った先に、薄い紺のスーツの男性——が立っていた。
(来るつもりは、なかった……けれども、見に来た)
そんな立ち方だった。
「……高瀬先輩が、来てくれるなんて……。でも、ちょっとだけ……心強いです」
高瀬は、並んだ三本を一瞥する。
「……帰り道だ。近くに用があってな」
ぶっきらぼうな声音。
どれも間違いではない。だが——ひとつに、視線が止まる。
「……それ。右のやつ」
軽く言う。
私は、その一本を手に取る。
「春っぽいし、お前に合ってるんじゃないか」
志乃さんの目が、少しだけ開く。
「……私が選んだ、口紅なんですけど……どうですか?」
鏡の中の志乃さんは、まっすぐ高瀬さんを見ていた。
高瀬は、一拍だけ視線を置いた。
まるで、彼女が自分でそこへ辿り着くのを待っていたみたいに。
そして、静かに言う。
「……似合ってる」
その言葉は、褒めるためというより——その選択でいいと、背中を押す響きだった。
「……いいじゃん。その唇、春らしくてお前らしい。……美味しそうな色だな」
春霞の色が、薄ピンクの表情に馴染んでいく。
「美味しそうって、ヘンなセリフ……これなら、私……明日、顔を上げて歩ける気がします」
選んだ後の『満足した笑顔』。それが、そこにあった。
多くの品が選ばれて——会計のとき。高瀬さんがスマートにカードを差し出した。
「就職祝い、まだだったな。選んだのまとめて——」
志乃さんの手が、ぴくりと揺れました。
「えっ……そんな……悪いですよ……」
一瞬、視線が下がる。
けれど――
志乃さんは、首を振る。
そして、そのままルージュを手に取る。
しっかりと、握る。
「……このリップだけは、自分で買います」
その声は、はっきりしていました。
「自分で選んで……先輩に褒めてもらったものだから。
これだけは、私の責任で、自分のものにしたいんです」
一瞬の沈黙。
「……いいな、それ」
高瀬さんは、小さく笑う。
「じゃあ、それ以外は俺に回せ。それくらいはさせろ」
私は何も言わず、手を動かします。
それぞれの選択を、壊さないように。
それぞれの矜持を、包むように。
薄紙で商品を包み、箱へ収める。
リボンをかける、その一瞬のあいだに――
私は、小さなカードを一枚、そっと手に取りました。
白地に、ごく控えめな金の縁取り。
主張しすぎず、けれど記憶には残る一枚。
ペン先を走らせる。
『お二人の新たな春を、心より応援いたします。』
書き終えた文字は、あくまで簡潔に。
けれど、ほんの少しだけ温度を込めて。
それを、リップの箱の下へと静かに忍ばせました。
気づくかどうかは分からない。
けれど――いいのです。
言葉は、ときに「後から効いてくる」ものだから。
「お待たせいたしました」
袋を手渡すとき。
志乃さんの指は、もう震えていませんでした。
「ありがとうございました」
来たときよりも、明るい声。
高瀬さんが私に向き直り、ふっと頭を下げた。
二人は、並んで出ていく。
歩幅は、自然に揃っていた。
自動ドアの向こうは、薄桃色の空気。花びらが、肩に落ちる。
二人を見送った後、背後から「コッ、コッ」と規則正しい、硬質な靴音が近づいてきた。
フロアマネージャー。
かつて私にメイクの魂を叩き込んでくれた、生涯の師匠だ。
「……藤原。あんた、あの彼が次に一人で来たら、迷わず炭酸配合の導入美容液と目元用の冷却ジェルを勧めなさい」
年配の女性ならではの、慈愛と鋭さが同居した声。
「……お気づきでしたか」
「当たり前でしょう。あのお客様、靴の踵のすり減り方と、目の奥の血管の浮き方を見ればわかるわ。相当なハードワークが続いて、神経が逆立っている。あの子の門出を祝うために、無理をしてここへ寄ったのよ」
師匠の観察眼に、私は息を呑んだ。
「言葉で労う必要なんてないわ。ただ、肌の火照りを取って差し上げなさい。それだけで男の人は救われるものよ。……でも、今日のお客様への『あのリップ』の提案、あれは満点。あんたの指先、今日は迷いがなかったわね」
師匠は私の肩を一度だけポン、と叩き、凛とした背筋を伸ばしたまま去っていった。
かつての彼女なら、ここで「修行が足りない」と突き放していたはずなのに。
(……ずいぶんと、丸くなられた)
そう思い、私は少しだけ胸が熱くなった。
いえ、違う。
師匠は「丸くなった」のではない。
お客様の心に寄り添うために、この時代に合わせて、ご自身の「厳しさ」の形を変えておられるのだ。
「売上を追わない日のほうが、結果的に数字がついてくる。……先生に教わった通りですわ」
私は艷やかに微笑んで見せた。
でも、師匠にはすべてお見通しなのだろう。
私はまだ、彼女の掌の上で踊る魔法使いの弟子に過ぎないことも。
──あの一本が、いつか彼女にとって「覚悟の赤」に変わる。
迷った日の色は、すぐに減っていく。
人は、確かめるように何度も手に取るから。
私はポーチの中の筆を一本、愛おしむように撫でた。
(あの日、届けられなかった言葉)
今は、間に合う場所にある。
(さあ)
視線を上げる。
(次の魔法を——準備しましょうか)
——数日後、あのリップの色を迷いなく重ねる姿を、私は鏡越しに見つけた。
この物語を書きながら、私は何度も「最初に自分で選んだもの」のことを思い出していました。
服でも、靴でも、化粧品でも。
誰かに勧められたからではなく、「これが好きかもしれない」と、自分の意思で手を伸ばした瞬間。
それは、たぶん物そのもの以上に、「自分で決めた」という感覚が嬉しかったのだと思います。
志乃にとって、春霞のピンクは、ただの口紅ではありません。
「場違いにならないように息を潜めていた自分」から、一歩だけ前へ進むための、小さな灯りでした。
そして、迷いながら選んだ色ほど、案外すぐ減っていきます。
何度も確かめるように使うから。
ちゃんと自分のものになったか、確かめたくなるから。
もし今、あなたにも「踏み込むには少し勇気がいる場所」があるなら。
どうか、その迷いごと大切にしてください。
迷いながら選んだものは、きっと長く、あなたの中に残っていくはずです。
あなたの春にも、優しい色が灯りますように。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。(*人´ω`*)




