第7話:【急接近】第一王女の誘惑。アルテミス、愛の「シミ抜き」を決意する。
帝都がリトの手によって「丸洗い」された翌朝。
グラン・ゼニス城内は、かつてない活気と、それ以上の戸惑いに包まれていた。
あまりに磨き上げられた廊下は、うっかり素足で歩けば吸い付くような感触があり、鎧を着た騎士たちは自分の姿が鮮明に映り込む壁を鏡代わりにして、身だしなみを整えるのに余念がない。
そんな中、城の最奥――「白磁の宮」と呼ばれる離宮に、一人の女性が佇んでいた。
帝国の第一王女、フラウレルム・ゼ・グラン・ゼニス。
彼女は、生まれつき魔力に対する感受性が強すぎるがゆえに、わずかな空気の汚れや他者の濁った魔力に触れるだけで体調を崩してしまうという、極度の潔癖症を抱えていた。
「……信じられない」
フラウレルムは、自身の寝室の窓を開け放ち、外の空気を深く吸い込んだ。
これまでは、特製の魔法フィルターを通した空気でなければ、喉が焼けるような痛みを感じていた。だが今、肺を満たしているのは、雪解け水のように清らかで、かすかに花の香りが混じった至高の酸素だった。
「あの男……リト、と言ったかしら。彼が放った浄化の波紋は、私のこの忌々しい『過敏症』さえも一時的に沈めてしまった……」
彼女の冷徹な美貌に、熱っぽい色が混じる。
フラウレルムにとって、この世界は常に汚泥に満ちた場所だった。だが、リトという存在は、その泥を瞬時に真珠へと変える魔法の触媒に見えた。
彼女は傍らに控える侍女に、鈴を転がすような、しかし断固とした声で命じた。
「その『聖者様』を、今すぐ私の茶会へ招待なさい。……アルテミス部隊長には、適当な任務を与えて遠ざけておくように」
一方、リトは豪華な迎賓館の一室で、アルテミスに「徹底洗浄」を施していた。
もちろん、昨晩の「お姫様抱っこ」の流れから、彼女の鎧を脱がせ、インナーウェアの上から結界の波動を当てるという、非常に「密」な作業である。
「あ、あぁ……リト、様……。背中の、肩甲骨のあたりが……また、疼くのです……っ」
アルテミスはソファにうつ伏せになり、顔をクッションに埋めていた。
彼女の背中からは、昨日の戦闘で浴びた魔獣の呪毒の残滓が、黒い霧となって蒸発していく。リトが指先を滑らせるように結界の焦点を合わせるたび、アルテミスの指先がシーツをぎゅっと掴み、細い肩が震える。
「ごめんね、アルテミスさん。昨日の洗浄でだいたいの汚れは落ちたはずなんだけど、やっぱり根が深い呪いだったみたいだ。……でも大丈夫、今、芯までピーリングしてるからね。もうすぐ『新品』みたいに綺麗になるよ」
「新品……っ。はい、私は……リト様だけの、汚れなき剣に……あぁっ!」
アルテミスの脳内は、もはや洗浄の快感によってドロドロに溶かされていた。
かつて帝国騎士団を率いていた凛々しさはどこへやら、今の彼女は、リトという「巨大な清浄」に浸かっていなければ、不安で震えてしまうほどに彼に依存していた。
そこへ、王女からの使いが訪れたのは、まさにその時だった。
「リト様、フラウレルム第一王女殿下がお呼びです。……なお、アルテミス部隊長には、皇帝陛下より『帝都外縁の警備状況の確認』という緊急命令が下っております」
その言葉を聞いた瞬間、アルテミスの空気が一変した。
リトに撫でられ、蕩けきっていた表情が、一瞬で「死神」のそれに切り替わる。
「……緊急命令、だと? この私が、リト様の護衛を離れて外縁のゴミ拾いに行けというのか?」
アルテミスはゆっくりと起き上がり、インナー姿のまま、使いの者に凄まじい威圧感を放った。
「フラウレルム様か……。あの御方が何を考えているかは察しがつく。あの潔癖症の王女は、リト様の力を『自分専用の空気清浄機』にするつもりなのだ」
「あ、アルテミスさん。そんな言い方しちゃダメだよ。王女様が困ってるなら、ちょっと行って掃除してくるくらい、なんてことないよ」
リトの、あまりにも無防備で善良な言葉。
それが、アルテミスの独占欲に火を注いだ。
「リト様! 貴公はあまりにも純粋すぎる! あの王女は、獲物を狙う蜘蛛のような御方です。……わかりました。命令には従いましょう。ですが――」
アルテミスはリトの手を取り、その手の甲に、誓印を刻むかのように深く唇を寄せた。
「私が戻るまで、決してその身を汚されぬよう。……もし、王女が貴公に指一本でも触れたなら、私は帝国の法を捨ててでも、その『シミ』をこの聖剣で消去します」
「……え、あ、うん。行ってらっしゃい?」
リトは、彼女の言葉の裏にある「ヤンデレ的な重圧」をまったく理解せぬまま、ひらひらと手を振って彼女を送り出した。
フラウレルム王女の離宮「白磁の宮」。
案内された部屋は、すべてが純白で統一されていたが、リトが足を踏み入れた瞬間、彼は思わず鼻を押さえた。
「……うわ。ここは、重症だ」
バルコニーで彼を待っていたフラウレルムが、優雅にティーカップを置き、彼を振り返った。
「ようこそ、聖者リト。……重症、とはどういう意味かしら? 私はこの部屋を、一日に三回も魔法で滅菌させているのだけれど」
「掃除の仕方が間違ってるよ、王女様。……表面だけ焼いて綺麗にしたつもりでも、魔法の『燃えカス』が壁の裏側にビッシリ溜まってる。それに、王女様自身の魔力も、無理に抑え込んでるから淀んじゃってるんだ」
リトは、フラウレルムの美貌を恐れることもなく、スタスタと彼女に近づいた。
フラウレルムは、他者が自分に近づくことに強い嫌悪感を抱くはずだった。だが、リトが近づくにつれ、彼女を苦しめていた「魔力の雑音」が静まり、代わりに心地よい静寂が広がっていくのを感じた。
「王女様、ちょっと失礼するね。……これ、かなり『詰まってる』から」
リトが、フラウレルムの細い首筋に手を当てた。
瞬間。
フラウレルムの視界が、真っ白に爆ぜた。
「……っ!! あ……、ああぁ……っ!!」
彼女の体内に滞っていた、行き場のない高濃度の魔力。
それが、リトの指先から流れ込む「洗浄波動」に触れた瞬間、一気に中和・浄化され、全身の経絡を駆け抜けたのだ。
それは、彼女が一生をかけて拒んできた「他者の干渉」でありながら、同時に一生をかけて求めていた「救済」でもあった。
「リト、あなた……何を……っ、私の、中が……こんなに、熱くて、白いものに……っ」
膝の力が抜け、フラウレルムはリトの胸元に崩れ落ちた。
リトは彼女を支えながら、真剣な表情で言った。
「動いちゃダメだ。今、魂の根っこにこびりついた『絶望のシミ』を抜いてるところだから。……ふぅ、よし。これで王女様も、もっと楽に息ができるようになるよ」
フラウレルムは、リトの腕の中で、激しい動悸に襲われていた。
彼女の潔癖症は、リトという「究極の純粋」によって上書きされた。
一度これを知ってしまえば、もう二度と、彼なしの生活には戻れない。
「リト……。決めたわ。あなたは今日から、私の『専属司祭』になりなさい。……あなたの望むものなら、この帝国の半分だってあげる」
うっとりとリトを見上げる王女。
だが、その背後の庭園から、凄まじい「殺気」と共に、一振りの剣が飛来し、リトと王女の間の地面に突き刺さった。
ドゴォォォォォン!!
そこには、予定より数時間も早く警備任務(という名の追放)を武力で終わらせ、全身をどす黒い怒りのオーラで包んだアルテミスが立っていた。
彼女の持つ新生・聖剣は、主人であるアルテミスの嫉妬心に反応し、不気味なほどに白く、鋭く輝いている。
「フラウレルム様。……私のリト様に、何と破廉恥な真似を」
「あら、アルテミス。随分と早かったのね。……見ての通りよ。リトは今、私の『魂のシミ抜き』をしてくれているの。邪魔をしないでくれるかしら?」
「シミ抜き……だと? ……それは、私だけが許された秘跡だ」
アルテミスが、静かに剣を構える。
帝都最強の騎士と、帝国一の権力を持つ王女。
リトという「世界一の掃除屋」を巡る、泥沼の、しかし最高に「ピカピカ」な女の争いが、今ここに幕を開けた。
リトは、足元に突き刺さった聖剣を見て、一人呟いた。
「……あーあ。せっかく磨いた剣を、こんな土に刺しちゃって。……あとで、しっかり『水洗い』しないとダメだね」
彼の戦いは、いつだって「汚れ」との戦いなのだ。




