第5話:捨てた魚は大きすぎた。一方その頃…
リトとアルテミスが、宿屋の「聖域」で安らぎのひとときを過ごしていたのと同じ頃。
町から遠く離れた、魔の森の深淵。帝国の精鋭が集まるはずのSランクパーティ『暁の牙』は、かつてない絶望の底に沈んでいた。
「おい、ふざけるなよ……。なんでこんなに火が点かないんだ!」
リーダーの剣士、カイルが苛立ちを露わにしながら、湿った薪を蹴り飛ばした。
本来なら、リトが独自に開発した『超乾燥・洗浄済み燃料(高効率薪)』によって、どんな悪天候でも数秒で温かなキャンプファイアが灯るはずだった。しかし、今の彼らの手元にあるのは、泥にまみれ、カビの臭いが漂うただの腐った木屑だ。
「……カイル、もうやめて。それより、私の杖を見て」
パーティの紅一点であり、聖女と崇められていた魔導師のリンネが、震える手で自身の宝杖を差し出した。
かつては眩いばかりの光を放っていた魔石が、今はどす黒い「煤」のようなものに覆われ、ひび割れている。
「魔力の通りが悪すぎるわ。……魔法を撃つたびに、杖の回路に『魔力の残りカス』がこびりついていくのがわかるの。今までのリトは、これを毎日、私たちの寝ている間に『精密洗浄』してくれていたんだわ。目詰まりを起こした魔法具なんて、ただの棒切れよ!」
「そんなバカな……! あいつはただの雑用係だぞ!? 戦闘スキルも持たず、ただ箒を振り回していただけのゴミじゃないか!」
「そのゴミに、私たちは生かされていたのよ!」
リンネの悲痛な叫びが、暗い森に響く。
彼らはリトを追放して初めて、自分たちがどれほど「異常なほど清潔で完璧な環境」を享受していたかを知った。
リトがいなくなってから、わずか数日。
彼らの装備は、魔獣の体液や大気の塵によって見る間に劣化していった。鎧は錆び、関節部はギチギチと異音を立て、革製品は湿気で腐り始めている。
さらに深刻なのは、食事だった。
「なんだこのスープ……ジャリジャリするし、獣臭くて吐きそうだ」
戦士のゴルドが、リトの代わりに作ったスープを地面にぶちまけた。
リトが作っていた料理は、ただの「雑用飯」ではなかった。彼は食材に含まれる微細な毒素や「エグみ」を、洗浄スキルによって徹底的に排除していたのだ。不純物を一ミリも含まない食材から作られる料理は、たとえ野草であっても王宮料理を凌ぐ絶品へと昇華されていた。
しかし、今の彼らの胃袋に入るのは、泥の落ちきっていない野菜と、血抜きの甘い肉。
栄養を摂取するどころか、不衛生な食事によってパーティ全員が軽度の腹痛と倦怠感に襲われていた。
「くそっ、あいつさえ……あいつが『掃除は僕の生きがいです』なんて、ニヤニヤしながら完璧にこなしていたから、俺たちは勘違いしたんだ……!」
カイルは、自分の剣を抜いた。
刀身は曇り、かつての鋭さはどこにもない。
「あいつを探し出すぞ。……連れ戻して、また俺たちの道具を磨かせればいい。あんな無能、俺たちが声をかけてやれば泣いて喜ぶはずだ」
彼らはまだ気づいていない。
彼らが捨てた「魚」は、もはや一介のパーティが飼い慣らせるようなサイズではないことを。
そして、その背後には帝国最強の女騎士が、抜身の剣よりも鋭い独占欲を持って立ちはだかっていることを。
一方、宿屋『黄金の竪琴亭』。
リトは、宿の厨房を借りてアルテミスのために簡単な夕食を作っていた。
「お待たせ。市場で買った残り物の野菜だけど、丁寧に洗っておいたから」
リトが差し出したのは、透き通ったスープと、ふっくらと焼き上がったパン。
アルテミスは、その料理から立ち上る「香り」だけで、自身の脳が蕩けていくのを感じた。
「……いただきます」
震える手でスープを一口、口に含む。
その瞬間、彼女の瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。
「美味しい……っ! 味が……あまりに『純粋』すぎる。これまで私が食べてきたものは、一体何だったのだ……?」
リトが「不純物」を徹底的に洗浄した野菜は、雑味が一切なく、素材本来の生命力がダイレクトに魂へと染み込んでくる。一口食べるごとに、戦場で傷ついた心と体が、内側から「洗浄」され、輝きを取り戻していく。
「リト様……貴公を……貴公を絶対に他のパーティには渡さん……絶対にだ」
アルテミスはスプーンを置き、身を乗り出してリトの両手をがっしりと握りしめた。
その瞳は、もはや騎士の凛々しさなど微塵もなく、愛しいものを独占したいという狂おしいほどの「女の情念」に満ちていた。
「え、あ、アルテミスさん? 急にどうしたの?」
「貴公の『洗浄』が必要なのは、私だけだ。世界などどうでもいい。私の鎧も、剣も、そして……この心も、貴公だけに磨いてほしいのだ」
彼女の指が、リトの手に深く食い込む。
リトは「あはは、光栄だなぁ。掃除のしがいがあるよ」と、いつものように無邪気に笑うが、アルテミスの瞳の奥にある「重すぎる愛」には気づかない。
その時。
宿の廊下から、騒がしい足音が近づいてきた。
「ここか!? 凄まじい浄化の気配を感じるぞ!」
「どけ! 俺たちが先に見つけたんだ!」
扉が荒々しく開かれる。
そこに立っていたのは、リトを追放した『暁の牙』の面々と、噂を聞きつけて集まった高ランクの冒険者、さらには教会の司教までもが含まれていた。
カイルは、リトの姿を見つけるなり、傲慢な笑みを浮かべて言い放った。
「よお、リト。ずいぶんいい暮らしをしてるじゃないか。だが、遊びは終わりだ。お前のいないせいで俺たちの装備はボロボロだ。……特別に許してやる。今すぐ戻って、俺たちのテントを掃除しろ」
リトは困ったように眉を下げる。
「えっと……もう僕は君たちのパーティをクビになったはずだけど……」
「黙れ! 掃除係がリーダーに口を答えるな!」
カイルがリトの襟首を掴もうと手を伸ばした、その刹那。
キンッ!
冷徹な金属音が響き、カイルの目の前に、見たこともないほど白く、神々しい刀身が突きつけられた。
アルテミスが、いつの間にかリトの前に立ち、その「磨き抜かれた聖剣」を抜いていたのだ。
「……リト様に、その汚れた手を触れるな。不純物が」
アルテミスから放たれる殺気は、以前の比ではなかった。
リトに「洗浄」され続けたことで、彼女の闘気は一切の無駄を削ぎ落とされ、ただそこにいるだけで空間を斬り裂く「極致の剣」へと変貌していた。
「あ、アルテミス殿!? なぜ、帝国騎士団の貴女がこんな雑用係を!?」
「雑用係だと?」
アルテミスは、氷のように冷たい笑みを浮かべた。
「このお方は、世界をあるべき姿へと導く聖者様だ。貴様らのような泥にまみれた凡夫が、その衣の端に触れることさえ許されぬ至高の存在……。……失せろ。さもなくば、その汚れた魂ごと、ここで『洗浄』してやる」
アルテミスが剣をわずかに振るっただけで、宿の壁が一文字に割れ、その断面は塵一つないほどに美しく磨き上げられていた。
圧倒的な力の差、そして何より、リトを崇拝するアルテミスの「狂気」に当てられ、『暁の牙』の面々は腰を抜かして逃げ出していった。
「……ふぅ。お騒がせしたな、リト様」
剣を鞘に収めると、アルテミスは再び、リトへと振り返る。
その顔は、先ほどまでの冷徹な死神の面影はなく、まるで主人に褒めてほしい小犬のような、蕩けた笑みへと戻っていた。
「私のリト様。これからも、私だけを……隅々まで、綺麗にしてくださいね?」
「あ、あはは……。もちろん、頑張るよ」
リトが掃除をするたびに、伝説の装備が生まれ、世界が浄化され、そして最強の女騎士の愛が重くなっていく。
世界一清潔な男の旅は、ここからさらに予想外の方向へと加速していくことになる。




