第4話:宿屋の夜。聖域の中で二人は
ギルドをパニックに陥れた後、リトとアルテミスは町で一番の宿屋『黄金の竪琴亭』へと向かった。
この宿は、帝国から派遣された高官や高ランク冒険者も利用する、この界隈で最も格式高い宿屋だ。しかし、リトがロビーに一歩足を踏み入れた瞬間、彼は立ち止まり、深く溜息をついた。
「どうした、リト様? 気分でも悪いのか?」
アルテミスが心配そうに覗き込む。彼女の視線は、もはや護衛のそれではなく、崇拝する対象を気遣う信者のそれであった。
「いや……。ここ、一見綺麗だけど、空気の『通り道』が塞がってるよ。建物の隅に数十年分の澱みが溜まってる。アルテミスさん、先に部屋に行ってて。僕、ちょっとここらへんを『整えて』から行くから」
「そんな、リト様に雑用など……! 私が宿の者に命じて――」
「ダメだよ。これは僕にしかできない『掃除』なんだ」
リトの揺るぎないプロ意識に、アルテミスは「は、はい……」と頬を染めて引き下がるしかなかった。
リトが案内された最上階のスイートルームに入ると、彼は即座に「清掃モード」に切り替わった。
背負っていたバケツを下ろし、愛用の箒を手に取る。
「【全自動・洗浄結界】――最大出力、限定空間展開」
パチン、と乾いた指鳴らしの音が室内に響く。
瞬間、部屋の景色が「再定義」された。
壁紙に染み付いていた微かな煙草の臭いや、歴代の宿泊客が残した情念、さらには建材の隙間に潜んでいた目に見えないカビやダニまでが、純白の光に焼かれて消滅した。
窓から差し込む夕日は、濁りのない空気を通すことでプリズムのように輝き、絨毯の毛先一本一本が意思を持つかのように立ち上がる。
それはもはや「清掃」ではない。その部屋だけが、地上の物理法則から切り離された「神域」へと昇華されたのだ。
「ふぅ……よし。これでようやく人間が住めるレベルかな」
リトが額の汗を拭う(といっても、彼の肌からは不純物である汗など出ず、心地よい水蒸気が立ち上るだけなのだが)。
そこへ、着替えを終えたアルテミスが部屋に戻ってきた。
「待たせたな、リト様。……っ!?」
彼女は入り口で絶句した。
つい数分前まで「豪華だが古臭い」と思っていた部屋が、今は王宮の最上級客室すら泥溜めに見えるほどの、圧倒的な「癒やしの空間」に変わっていたからだ。
空気が甘い。
一呼吸するごとに、肺の奥から細胞が活性化し、体内の魔力が急速に、かつ濃密に回復していくのがわかる。
「あ、おかえりアルテミスさん。ベッド、磨いておいたよ。旅の疲れがあるだろうから、先に休んで」
「リト様、その……流石にベッドまで洗浄しなくても……」
アルテミスは顔を林檎のように赤くして立ち尽くした。
リトが磨き上げたシーツは、雪のような白さを超え、真珠のような光沢を放っている。触れずともわかる。あれは、肌に吸い付くような極上の手触り。一度横になれば、二度と現世の汚れには戻れなくなる「魔の寝具」だ。
「何を言ってるの。睡眠は最大のデトックスだよ。さ、座って」
リトに促され、アルテミスはおずおずとベッドの端に腰を下ろした。
その瞬間、彼女の口から「ひゃんっ」という、騎士団長らしからぬ可愛らしい声が漏れた。
「な、なんだ……この感触は!? 柔らかいという次元ではない……まるで、温かな光に包まれているような……」
「あ、まだ鎧を着たままだったね。脱ぐのが大変なら、そのまま結界の出力を上げるよ。鎧の下、戦場からずっとそのままだから、かなり『蒸れてる』でしょ? 隅々まで、徹底的にリフレッシュしてあげる」
リトが無垢な笑顔で、アルテミスの方へ手を伸ばす。
彼の指先が、彼女の白銀の胸当てに触れようとした。
「っ……!? あ、ああ……っ!」
リトの手が触れる直前、彼の周囲に渦巻く高密度の洗浄波動が、アルテミスの肌に直接干渉し始めた。
彼女の防具の隙間から、入り込んでいた砂埃や、汗の不純物、そして彼女が長年抱えてきた「戦士としての殺気」までが、優しく、しかし強引に剥ぎ取られていく。
それは、究極の「清算」だった。
鎧を脱いでいないのに、まるで全身を愛撫されているような、全裸で清流に身を投げ出したような、形容しがたい快感が彼女を襲う。
「リト……様……貴公は……私を、どうするつもりだ……」
アルテミスの視界が熱く潤む。
彼女は厳格な騎士として、常に自分を律し、汚れなき正義を貫いてきた。だが、リトの隣にいる今、その強がりさえも「不純物」として洗浄され、一人の無防備な女としての本能が剥き出しにされていく。
(この男の隣は、あまりに清らかで……。そして、あまりに熱い。私の心まで、彼に『洗浄』かれているようだ……っ)
リトの洗浄魔法は、身体的な汚れだけでなく、精神的な「壁」さえも取り払ってしまう。
アルテミスは、自分の鼓動が早まるのを感じていた。リトの手が、ゆっくりと彼女の肩に置かれる。
「リラックスして。不純物を溜め込むのは、体に毒だよ」
「は……はい……。リト、様……」
アルテミスは、抗うのをやめた。
リトという強烈な光(洗剤)の前に、彼女の矜持はもはや溶け去るのを待つだけの汚れに過ぎなかった。
彼女は吸い寄せられるように、リトの胸元へと体を預けた。
リトの体からは、清涼な森の香りと、天日干ししたばかりの太陽の匂いがした。
この男にすべてを委ねれば、自分はどこまでも白くなれる。いや、白く塗りつぶされて、彼の所有物になれる。
「……リト様。私は、もう……貴公なしでは、生きていけぬ」
アルテミスの呟きは、リトの耳には届かなかった。
彼はただ、「あ、やっぱり枕の角度も少し調整したほうがいいかな」と、どこまでも誠実(掃除バカ)な思考を巡らせていた。
だが、窓の外では、不穏な影が動いていた。
リトが放った規格外の浄化波動を察知した、町の暗部――そして、彼を追放した元パーティの影が、この聖域へと近づきつつあった。




