6話 花開く紅茶の香り
トポトポ。
お湯を注ぐ音。
室内に華やかな香りが広がってゆく。
思わず大きく息を吸い込んだ。
大きなテーブルに、ティーポットがある。
蓋の隙間からたちのぼる湯気が、テーブルに柔らかい影を落としている。
テーブルの前に二つ、椅子がある。リフィエルはそのうち一つに座って、彼の動作を眺めていた。
ルーディスは立ったまま、丁寧にお湯を注ぎ終えると電気ポットを置く。
デスクに置かれたスマホの画面をタップして、タイマーをセットした。
「蒸らし時間が必要だ。少し待ってろ」
その間に、彼はテーブルに物を置いていく。
瓶に入った黄金色の蜂蜜。
魔力灯の光をかすかに帯びた角砂糖。
透明なケースに入れられた、鈍色のティースプーン。
どれもこれも紅茶のためのセットが、彼の手で静かに、次々とテーブルへ置かれていく。
(コーヒーの方が好きそうな雰囲気だけど……)
意外だと思った。もちろん、表情には出さない。
「朝会についてだが」
静かで気まずい空気を割くような声。
ルーディスは僅かに彼女の方を見て、そっと逸らした。まるで何かを確認するような仕草に、リフィエルは自分を見る。
「これまで通り魔術研究課で受けてから此処へ来い。話は通してある」
アラームが鳴る。
ティーポットから茶葉を取り出し皿に置く。
紅茶を二つのティーカップにゆっくり注ぎ入れた。
動作は、とても丁寧だ。
指先まで意識しているようなしなやかさ。
リフィエルの視線はいつしか、彼の指先に注がれていた。
「蜂蜜と砂糖は?」
彼が聞く。彼女は首を振った。
「甘いものはあまり、」
「そうか」
蜂蜜を流し込む慣れた彼の手付きに、思わず目が止まった。驚きはしたが、何も言わずテーブルを滑るように差し出されたカップを受け取る。
いい香りだ。
優しく澄んでいて、花の香りがする。
(……ボクも、飲んでいいのかな)
用意してくれたものを無碍にするつもりはないが、彼が何を考えているのか分からない。
ぽちゃん。
何かが落ちる音。
視線を上げた。
彼が小さなトングを持って、角砂糖の瓶から、もう一つ取り出すところだった。
(蜂蜜、入れてたよね……。さらに砂糖まで入れるの?)
驚き凝視する間にも、彼はもう一つ角砂糖を入れ、トングを置く。
それから紙袋の中からミルクを取り出した。
(ミルクまで!?)
彼の目がリフィエルを見る。
視線に気が付いたのだろう。その目は少し、感情がある気がして息を呑む。
ミルクの蓋を、彼の爪先がつついた。
「……糖分は頭を働かせる」
まるで言い訳のようだ。
(だからってそこまで入れる?)
「だから、」
口に出かけてた言葉を、寸前で止める。
紅茶のせいだろうか。少し気持ちが緩んでいる気がする。
誤魔化すつもりでティーカップの縁に唇を当てた。
……熱くて、飲めない。
「ローベインも試すか?」
「いやです」
つい、食い気味に返した。
(しまっ、)
その瞬間、彼の眉が僅かに下がる。
息を止めた。湯気が目の前に立ち登る。
(……いま、すこし)
優しい顔だったような。
いや。気のせいだ。
彼は笑う時、いつも口角を上げて笑う。あんな風に眉を下げて柔らかく笑ったところは、見たことがない。
だから、そう見えただけだと、思い込んだ。
(気の、せいだ)
たぶん、きっと。
何度か息を吹きかけ、恐る恐る口に運ぶ。
僅かな苦味と、鼻を抜ける柔らかな花の香りは、あっという間にどこかへ消えていってしまった。
(ーー変な感じ)
冷めたティーカップに残る僅かな琥珀色が、波紋を一つ立てる。
二人の目の前には、紅茶セットの代わりに資料が広がっていた。
リフィエルが作成した『人工魔石の器』候補のリストに、ルーディスが手を加えた書類だ。
新たに追加した物が空白に書き連なっている。
入手が不可能なリストに、ルーディスが赤ペンで斜線を引いた。
「こんなところだな。管理局で保管している素材については、明日には入手出来るだろう」
ペンの音。
幾つかの素材名にマークを入れた後、ペンを置いた。
「では、本格始動は明日からですね」
「ああ。今日は設備の点検が主な仕事になる。あれらの使用経験は?」
「学生時代に、簡易的な物なら触りましたが……」
リフィエルが視線を移す。
学生時代に触れた物よりもどれも大きく、複雑な機械達。
見ただけで扱えるかと問われれば、否、と言うしかない。
(壊して損害賠償、なんて事態嫌だ)
「なら俺が見よう」
「管理官が、自ら?」
機械を見ていた視線が彼に戻る。
彼のその手にはいつの間にか、取扱説明書や分厚いマニュアルが握られていた。紙の捲れる音とともに、ルーディスの口から吐息がこぼれ落ちる。
「資格は持っている」
「……なら、お任せします。わたしは何をしますか?」
ルーディスの目が、中央に向けられた。
その視線の先を追うように、首を傾ける。
ガラスに阻まれた、防魔装置があった。
ひやりと、季節外れの風が心を吹き抜ける。
「俺は無魔だからな。あれの点検は無理だ」
「……わたしが、あの中で魔術を使えと?」
「簡単なものでいい。防御結界が発動すれば問題ない」
(……魔術を使うのは、苦手だ……)
しかしそれ以外に己が出来そうな事はない。
渋々、頷いた。
ガラス区画の中に入り、戸を閉じる。
内側に取り付けられた魔力回路に魔力を通せば、金属音を立てて扉にロックが掛かった。
錠の音が枷を嵌め込んだようで、息が苦しい。
ガラスの向こう側で、ルーディスが機械を見ている。
彼が一つ、頷いた。
「………では、はじめます」
管理局員の証である白のコート、胸ポケットから取り出すのは、ステッキ。
それを宙に向けてーーー、すこし、震えた息を飲み込んだ。
『……ひかりは、やいばとなりて』
辿々しい、魔術語。
リフィエルの眉が険しげに寄る。
魔力を無理やり外に連れ出される感覚。
これがひどく、彼女には不快だった。
『いちめんのとちの、』
魔力が腕を伝い、ステッキに向かっていく。
持つ手が、びりびりと痺れる。
『いのちの、めぶきを……きりさきたまえ』
ステッキの先から、白い光が溢れ出す。
それは空に向かいーーー。
一閃。
ガラスを裂くように、一筋の線を付けた。
(……ボクはやっぱり、魔法がいい)
ステッキを持つ手が、だらりと下がる。
焼け付くような感覚が、手から身体中へ広がっていくようだ。
ーーー痛い。
右足が、全ての痛みを飲み込んだようで。
熱を帯びた赤い線が、ゆらりと揺れる。
防御結界が傷を受けてゆらめき、それからす、と塞がっていく。
数秒も経たぬ内にそれは、何事も無かったように魔力の光を瞬かせた。
ルーディスの「問題ないな」という声が、背中の向こう、何処か遠くに聞こえた気がして。
静かに瞼を閉じる。
「ローベイン、何かあったか」
問いかけが思ったより近くで聞こえた。
目を開き、背後を見る。
いつの間にか彼は、機械のロックを外して扉を開けていた。こもっていた防魔装置に、涼しい風が流れてくる。
思わず、詰め込んでいた息を吐き出した。
「……はい。結界は正常に作動。なにも、問題ありませんでした」
赤い目が僅かに細まる。
けれど彼は何も言わずにただ、リフィエルの瞳を見つめていた。
その目は心の奥を覗き込む雰囲気を感じる。
(ボクを、見るな)
目を、合わせられない。
ーー見透かさないでくれ。




