4話 後悔は春風に吹かれ
ルーディス・ヴェイルは無魔だ。
魔力を持つ人間の方が珍しい世の中で、彼はその一般人と同じ位置にあった。
ルーディスの目の前には、管理局の看板がある。出入り口の前で足を止めて、ビルを見上げた。
魔術士管理局は魔術士たちだけの居場所ではない。特に管理課では半数が無魔だ。
しかし彼が着任したのは、魔術士全てを纏める者。
ルーディスは、魔力を持たない身でありながら、魔術士の頂点に立ったのだ。
ルーディスの赤い瞳は、ビルを通して空を見ている。
春風が吹き、柔らかな陽が肌を撫でた。
晴れ渡る青い空が赤い瞳に写り込む。
「こんな時、カメラがあればな」
声に僅かな柔さが滲む。
そんな独り言を呟いてから、自動扉をくぐった。
魔術士管理局窓口では、既に受付嬢が朝の準備を始めている。緊張した面持ちで挨拶する彼女に軽く返答し、エレベーターに乗り込んだ。
このエレベーターは魔力を動力源として動いている。現代ではもうほとんど見る事は叶わない物だ。機械音もなく、まるで空間がスライドするように動くこれを、ルーディスは存外気に入っている。
喧しくなく、珍しく。
ーーーそして、魔術の匂いがする。
自然と口元に笑みが浮かんだ。
彼は手に持っていた大きな封筒を少し持ち上げた。リフィエルの異動届の承諾書が、中に入っている。
ルーディスはこの職に就く前から、目をつけていた人物がいる。
リフィエル・ローベイン。
魔術学園時代での彼女の成績は面白いものだ。
実技は壊滅的。
しかしながら、彼女は在学中に新たな魔術構築、技術を世に知らしめた天才である。
チン。
エレベーターの音が到着を知らせ、扉が開く。
ルーディスはエレベーターから降り、日の当たる廊下を歩く。すれ違う人々はみな、緊張した面持ちで男に挨拶していく。
それに応えながらも考えるのは、あの深い青色の瞳の彼女のこと。
魔術教科書に載っている一部の魔術は、彼女の生み出したものだ。
それを天才と言わず何と言うか、彼はそれ以上の言葉を持ち得ない。
だと言うのに、この局での立場は雑用係。
魔術という学問が軽視され始めているのだ。
(いや、そもそもあれは目立つのを嫌うのか)
教科書には、魔術式構築者の名前が「匿名」とだけ記されている。
興味本位で調べてみなければ、リフィエル・ローベインという名前には辿り着けない
「おはようございます」
「ああ」
目も合わせず、僅かに頭を下げる職員。
その横を通り過ぎる。
恐怖に体をすくめ、目を合わせようともしないリフィエルの姿がふと、脳裏に浮かんだ。
(ーーあれは、人を寄せ付けない目をしている)
自分を怖がっているというより、人間全てに警戒を向けている目だった。
しかしそれでも魔術に関しては、あの深い青色の瞳に強さを宿す。
あの瞳を、ルーディスは存外気に入っていた。
(ローベインを手中に収めておきたいが……、まずは、あの警戒心をどうにかしなければな)
ーー天才は環境に大きく左右されるのだから。
研究課のオフィスは広く、窓から差し込む光はまだ柔らかい。その光は床を照らし、男のくたびれた靴を温めていた。
リフィエルの指先が、所在なさげに絡み合う。
「新規プロジェクトを発表するぞー」
少し気の抜けた男の声。
大柄な体格に似合わない柔和な顔をし、朝会を仕切っているのは魔術研究課、課長のバーナードだ。
気苦労が絶えないのだろう。
彼の目元にはうっすらと影がある。薄茶色の髪は乱れ、ほんの少しよれたシャツが、彼の忙しさを知らせていた。
「研究内容は人工魔石の製造。責任者はルーディス・ヴェイル管理官。研究員として、リフィエル・ローベイン。以上だ」
想像もしていなかった名前に空気がざわめく。
視線を一心に受け、ごまかすように笑った。
(見るな)
不愉快だ。
顔は笑うのに、心は強張って、苦しい。
(見るな、ボクを)
彼女の顔を見て怪訝そうに歪める顔もある。きっと、何故リフィエルなのだろうと、そう思っているのだろう。
そんなもの、こっちが聞きたい。
なぜ自分なのかと。
「えー、管理官自らの推薦だ。その他人員については、
『人工魔石自体が特殊なプロジェクトであるため、考えていない』との事だ。
ローベインが行っていた作業内容の一部は、別の人員が引き継ぐことになっている。各自、頭に入れておいてくれ」
けれど決まってしまった以上、仕方がない。一社員の自分に管理官からの命令を断れるわけもないのだから。
後悔しても、もうどうしようもないところに来ている。
(……やるだけ、やるしかない)
どれだけ居心地が悪かったとしても。
「すごいねローベインさん。出世したようなものじゃん」
休憩所までの道すがらだ。偶々出会ったノエが、嬉しそうに顔を綻ばせていた。
新規プロジェクトの話は、彼の所属する管理課でも話題になっていたのだろう。
(そんな顔されたら、嫌だ、なんて言えない)
だから笑って、何も答えない。
足を止める事なく職場を通り抜ける。
魔術士管理課の上階が、休憩室のあるフロアだ。人混みを避けるように階段に踏み込んですぐ、息が上がるリフィエルに、ノエが苦笑した。
「もっと運動はした方がいいよ、ローベインさん」
「……検討しておきます」
(気が、向いたらだけど)
リフィエル達の横を雑談しながら通り抜ける職員達の声が耳に届く。ヒールの音が軽やかに上へ登って行った。
その中に「管理官」の単語があって、思わず彼の顔が頭に浮かぶ。
管理官に就任した彼の話題を、最近よく耳にする。
リフィエルにとっては近寄り難く怖い人であっても、彼らにとっては新たな話題の種に過ぎないらしい。
「管理官って見た感じちょっと怖そうだったけど、実際話してどうだった?」
ノエに問いかけられ、一歩ずつ階段を登りながら言葉を選ぶ。手すりに捕まっていた手に力がこもった。
「よく、分からない人、です」
「分からない?」
ノエは数段先で足の遅いリフィエルを待っている。青い髪を揺らして首を傾げると余計、彼は可愛らしく見えた。
「雰囲気がすこし、独特で」
(ボクが言葉に詰まっても、早くしろと言わないし、苛立つ素振りすら見せない)
優しい人、とは違う。
怖い人、とも違う。
いや、雰囲気は未だ怖いし、言葉は冷たく突き放すようだが。
「……よく、分からない人です」
結局その答えに辿り着く。
視線の先でノエが苦笑した。
「まあ、まだ着任して数日だしね」
ノエが背を向けて階段を登っていく。ようやく縮まった距離はあっという間に遠のいた。
「……でさ。今回、管理官が持ち込んだ新規プロジェクトの人工魔石ってあれでしょ、数年前に頓挫したやつ」
ぴくり、手が強張る。
「正直、今更じゃない?」
ノエの言葉が、なんだか胸に刺さる。
否定出来ずにリフィエルの足が止まった。
(そんな事、言われなくても分かってる)
分かっていてもやるしかない。
管理官の命令に背く人など、この局にどれだけいるのか。
深呼吸を一つ。
足を一歩、踏み出した。
ヒールのない靴が、軽やかな音を鳴らす。
「……わたしは、言われた仕事に取り組むだけ、です」
(ボクは、目立たないようにしなくちゃ、いけないんだから)
「そうなるよね。相手は管理官。現場の最高責任者だもんね……」
ノエの言葉は、己に逃げ道などないとそう告げているようで。
ふと思い出したのは、彼の声。
低くて、威圧的で。
ーーーでも決して、リフィエルの言葉を馬鹿にも、聞き流したりもしなかった。
あの赤い目は真剣に取り組む真面目さがあった。
(あの、血みたいな色はまだ、苦手だけど)
以前よりは恐怖の減った赤い目を思い出して、息を飲み込んだ。




