エピローグ 踏み込む勇気
二章区切りです。
明日の更新は一旦なしとさせてください。
ルーディスの部屋は大きな高層マンションの中間、その一室にある。
その階層の中廊下に響く靴の音はいつもよりもうんと速い。
電子キーのロックを外し、玄関の奥に滑り込む。
背後でバタンと扉の音がすることも気にせず、ルーディスは靴を脱いでリビングへ向かった。
部屋の電気のスイッチを指先が荒々しく叩く。
黒の革製ソファーが光を受けて艶やかに照り返した。カーテンの隙間から差し込む光はまだ強く、日の落ちる気配を感じさせない。
音を立てて、ソファーに沈み込む。
それからようやく、ため息をこぼした。
「……あれは本当に、予測が出来ん」
声は掠れていた。
ドッグカフェを出た後、無事にリフィエルを送り届け帰ってくるまで、ルーディスはずっとこの心に蓋をし続けていた。そうしないと、彼女の境界線に足を入れてしまいそうだった。
瞼を閉じる。
『知りたい』と言った、彼女の言葉が反芻する。
己がただ名を呼んだ。それだけで照れた、あの顔がずっと頭にこびりついている。
リフィエルは時折、口説き文句を素で吐く。きっと彼女には口説いているなんて自覚すらないだろう。
ルーディスを知りたいと言った時も、照れた様子一つもなかったのだから。
(知りたいと言われて、どれだけ俺が歓喜したと思っている)
それすらきっと、理解していないだろう。
(だと言うのに、名前一つであそこまで)
――真っ先にこの心に熱い刃を突き立てたのは、リフィエルだというのに。
あの赤らんだ顔に手を伸ばしそうになるのを、堪えるので必死だった。
表情を、言動を取り繕って、いつもの自分を演じ切って見せた。そのはずだ。
人に触れられることすら苦手だった彼女が、ようやく自分に心を許し始めているというのに、衝動に負けて信用を失うなど、考えたくもない。
「……いや」
目を開く。
天井に吊るされた人工の光に、目を細める。
「許し始めている、だなんてもう生ぬるいか」
踏み込みすぎた自覚はある。
止まらなかったのは自分であり、その結果、彼女の心を占め始めた感情が何であるのかも分かっている。確証を得たのは、最近のことだ。
――そして、自分もまた、同じものを持っている。
「手遅れ、だな」
そう口では言うのに、溢れるのは笑み。
体を起こす。乱れた黒い髪の毛先がソファーに取り残された。
(ここで踏み込みすぎたら、どうなるだろうか)
ソファーの背もたれに背を預け、想像する。
自分がこの気持ちを言葉にして、彼女がどんな反応をするのかを。
今日のように顔を赤らめる?
そして、受け入れるか?
――否。
彼女の根幹に深く根付く何かがきっと、それを阻む。
言葉の意味を理解したその瞬間、彼女は手の届く範囲から姿を消す。
たったそれだけの想像が、心の奥に小石を落としたようだった。
立ち上がりキッチンへ向かう。電気ポットの電源を指先が入れた。
浮かぶようだった心は、小石の重さで沈んでいく。
それを蜂蜜と砂糖で誤魔化そうと思った。
「……なかなか、難度のある問題だ」
リフィエルの心を引き寄せつつ、柔らかく変わり始めている彼女を、外野から守る。
しかし、そういう駆け引きは嫌いじゃない。
蜂蜜の瓶をカウンターから取る。それはもう残り僅かになっていた。
きらりと光る琥珀色に、赤い瞳がうっすらと映り込む。
「買い足さねばな」
彼はそれ以上、何も口に出さなかった。




