13話 知りたいきみのこと
店内に入り、注文を取ってすぐ。
真っ白の毛並みの犬が、膝に頭を垂れる。
温かい毛並みと、息遣いに両の手が自然に宙に上がった。
くつ、と笑う声。
視線を向ければ彼が、面白そうに笑っていた。
ここのドッグカフェは人気店だった。
人数制限があり入るのにも時間がかかったが、その価値のある内装と雰囲気がある。
犬が通りやすいようにと等間隔に設置された椅子とテーブル。全て丸みを帯びたデザインなのは、犬への配慮だろう。
優しい曲が店内を流れている。人の話し声はその曲をかき消さず、時折犬の鳴き声が響く。
カチカチと犬の爪が床をかく音。
全て木材で作られた、温かみのある店内。
寒すぎない冷房と、天井を飾る優しい淡い緑の照明。
カウンターの向こうにいる店主は、右手に鈍色の腕輪を嵌めていた。
動く犬たちの影が室内を縦横無尽に駆け抜けていく。ずっと外にいて熱くなった体が、ようやく冷めてきた。
あの電車での一件で熱くなっていた心は、ようやく、落ち着きを取り戻したばかりだった。
「管理官、笑ってないで助けてよ」
「助ける必要がどこにある? 犬が甘えているだけだろう」
くつくつと笑いながら、ルーディスがそばに寄ってきた茶色の大きな犬の頭を撫でる。
その顔があまりにも優しくて、視線が逸らせない。
(犬、好きなのかな)
また一つ、彼のことを知る。
それがなによりも嬉しくて、胸の中が暖かくなる。
湯気のたった紅茶と、アイスティーが目の前に運び込まれた。甘そうな苺のケーキが店員の手でリフィエルの目の前に置かれる。
(これ、ボクが頼んだんじゃないんだけど)
ルーディスの見目では甘いものを食べるようには見えないからだろう。
店員が去る姿を見てから、リフィエルの手がそっと、ケーキの皿を彼の方に動かした。
「『あまねく星々よ。照らし導き、示したまえ』」
店主の魔術語とともに、天井がキラキラと光を帯びる。登っていく光に釣られて上を見上げた。
歓声と感嘆が、耳を通り抜けた。
光が動く度、鱗粉みたいに小さな光の粒が降り落ちる。
その粒が一つ、リフィエルの銀糸に触れて弾けた。
「……綺麗な魔術だ」
ぽつり、つぶやく。
膝上に触れないよう上げ続けていた両手が、そっと下がる。
手にふわふわとした何かが当たった。
「ここの店主は一級魔術士だったらしい」
ルーディスの声がどこか遠く、けれど確かに耳に残る。
無意識に手が何かを撫でた。
柔らかくて、温かい肌触りの良い何かを。
(魔術は、生活に溶け込んでる)
不思議だ。
魔法はもう、溶け込むこともできないのに。
(……やめよ)
思考を遮るように、天井から視線を下ろす。紅茶を飲もうとテーブルまで視線を下げた。
そうして気が付いたのは、自分の手が犬の頭を撫でていたこと。
驚きの声を上げそうになり、思わず口を手で塞ぐ。
犬を怯えさせないように、急な大声はやめてください。と、入店前の注意事項の記載を咄嗟に思い出したのだ。
(な、撫でてた。無意識に、撫でてた!)
けれど不快感はなく、恐怖もない。
口から手を離し、そおっと手を犬の頭に乗せた。
ずっと膝の上に頭を置いていた犬は、リフィエルの手に撫でられて、嬉しそうに口を開けた。にこり、笑みを浮かべたような顔に胸がきゅうと切なくなる。
「かわいい、かも」
「だろう? 動物たちはみな、愛嬌があっていい」
犬を撫でながら、ルーディスを見る。
彼は紅茶に口をつけながら、片手で犬を撫でていた。犬を撫でるその手は紅茶を入れる時のように丁寧だ。
彼の前にあったケーキはいつの間にか姿を半分消していた。
口元に自然と笑みが浮かぶ。
「犬以外も気に入ってるの?」
「ん、ああ。大抵の動物は嫌いじゃないな。動物園もよく行く」
「へえ、そっか」
カップが、音も立てずにソーサーに置かれた。
犬を撫でていた彼の手が止まり、目がリフィエルを向く。
ほんの少し、眉が下がった。
「なんだ。俺の事が気になるか?」
揶揄うような声色。背もたれに体を預けて頬を上げる姿に、リフィエルはそっと、視線を逸らした。
「……あのね、ボクさ。君のこと何も知らないんだ」
呟くのは、昨日感じた気持ち。
一度、目を閉じる。
(知らないことが苦しくて)
店内のざわめきを耳にしながら、ゆっくりと、開く。
目を、ルーディスに向けた。
彼は揶揄うような表情が抜け落ちていて、感情が分からなかった。
(今も、何考えてるか理解出来ないから)
「だから、知りたいなって。君のこと」
(ボクを理解してくれる、管理官のことをちゃんと知りたい)
そうすればきっと、この心の違和感にも説明が付く。
「だから管理官のこと、教えてほしい」
(ボクはきっと……、教えてもらわなければ、理解出来ないから)
ルーディスの赤い瞳が、見開かれる。
手が一度震えて、カップに触れた。
小さな音が食器からこぼれる。
大きな波紋が紅茶の水面を揺らした。
「――そういえば、ずっと思ってたんだけど。外で管理官っていうの、変だよね」
彼の動揺を、彼女は見抜けない。
静かに目を逸らし、アイスティーの入ったコップを持つ。
指先が縁をなぞった。
「嫌じゃなければ、その……外では、ヴェイルさんって呼んでも良い……?」
それから少し慌てた声で、「嫌ならいままで通り管理官って呼ぶから」と、そう言って。
ちらりと、視線を向ける。
「………? 管理官?」
彼は呆然と、僅かに開きっぱなしだった口を――
、ゆっくり閉ざした。
紅茶の波紋は静まり、綺麗な琥珀色が天井の灯りを淡く写す。彼の瞳は、たった一人だけを見つめていた。
躊躇いがちに彼の口が開く。
「……ならば、ルーディスで」
「えっ」
今度はリフィエルが動揺を見せた。
ルーディスはそれを正確に見抜いている。
目が楽しそうに細まった。
「ルーディスと呼べ。――リフィエル」
どくん。
心臓が騒ぎ出す。
抑えようと、胸元に拳を添えた。
視線が下がる。近くにいたままだった白い犬が不思議そうに首を傾げている。
(な、なに……、これ)
顔が熱い。
胸の中が急に、熱い紅茶で溢れ返ったみたい。
ただ、名前を呼ばれた。
――本当にただ、それだけなのに。
「ふ、」
笑う声。
顔を上げたくても、リフィエルはもう顔を上げられない。
「――俺の事ならいくらでも教えてやる。
お前になら」
わんっ!
元気な犬の声が、響いた。




