11話 知らない君のこと
月に一度通う美容室も、もう何度目か。
切られた毛先を弄りながら、床を柔く這う風の音を聞いていた。
リフィエルの頭の中に情景が浮かんでいる。窓際。梅雨の時期、曇天の下。ルーディスの少し困ったような顔。
彼の指先が触れたそこを、青い瞳はずっと見ていた。
もう何日も前のことだというのに、まだ彼の指の感覚が残っている気がする。
視線を上げて窓を見た。強い日差しが窓から差し込んでいる。冷房が効いているのにも関わらず、店内は少し暑い。
床掃除を終えたキアナが、リフィエルを見る。その小麦色の瞳には、疑問が浮かんでいた。
「リフィー、アンタどうしたの? 今日ずっとぼんやりしてるじゃない」
(最近ずっと忙しくて、それどころじゃなかったけど……)
リフィエルの目が、ゆっくり細まる。
眉が下がり、毛先をいじっていた指を、下げた。
「………実は、少し前に……、その、髪を触られて」
「は!? 誰に!?」
店内に響く大声。
はっ、とキアナは口元を押さえて周囲を見渡した。幾人かからの視線を受けて、ごめんなさーいと、謝罪の言葉で空気を軽くさせる。
それから、キアナはリフィエルに詰め寄った。
たじろぐリフィエルに、キアナは無遠慮に顔を近付けて眉を釣り上げる。
「話を聞かせなさい」
それは有無言わせぬ雰囲気があって、リフィエルは頷いた。
キアナの仕事が終わってから、二人は会うことになった。
喫茶店で二人、向かい合って腰を下ろしている。
穏やかな曲が店内を流れ、ほんのすこしの話し声が、耳を優しく刺激する。窓の外では鳥が木々を移動して、葉を揺らしているところだった。陽はもう下がり始め、徐々にその色を変えていく。
この喫茶店はキアナのお気に入りの場所だ。
リフィエルもよく来る場所で、彼女は落ち着いた顔色でグラスを傾けていた。
すでに二人の前には注文したグラスがある。
氷の表面が、紅茶の色に染まっている。
「あれ? アンタ、コーヒー派じゃなかったっけ?」
キアナの不思議そうな声に、グラスを持つ手が少し震えた。アイスティーを見た瞳は揺れ、指先が縁をなぞる。
(そういえばボク、コーヒーの方が好きだったな)
思い返せば確かに、以前はコーヒーばかり飲んでいた。
あの苦味に、落ち着く気持ちがあった。紅茶なんか好きじゃないなんて、思い込んでいたような日もあった気がする。
紅茶を口に含む。
いつも飲むよりもうんと、渋みが強い。
なんだかルーディスの淹れた紅茶が飲みたくなった。
(いつから、だっけ。コーヒーを飲まなくなったの)
もう思い出せもしない。
「……最近は紅茶」
「へえ、そう。それで?」
聞いておいて興味がなさそうな、そんな言葉の後だ。ずい、と体をテーブルに乗せるように、キアナがリフィエルを見る。
テーブルに、彼女の濃い影が写り込んだ。
「何があったのか、一から十まで説明なさい」
「ええと、どこから話したものか」
思い出すのは、ルーディスが彼女の上司になったあの日。桜の花も咲かない頃。
そういえば、全ての始まりはあの日だったな、とふと思い出した。
リフィエルはぽつりぽつり、話した。
新しく管理官になった男のこと。
配属先の変更。今の彼女の仕事。
(魔石のことは言えないけど)
これは、ルーディスとリフィエルの二人の秘密だ。たくさんの魔空石が届いた後、その二つをこっそり箱の中に紛れ込ませたから、もう誰にもこの罪も秘密も、バレることはないだろう。
リフィエルは言えないことはぼかし、けれど一つずつ、噛み砕きながら呟いていく。
キアナはただ黙って聞いていた。
リフィエルの目の前でテーブルに肘をつき、時折アイスカフェラテを飲んで。それでも視線はずっと、リフィエルにあった。
からり。
氷の音が鳴る。
「髪に触れられたのは……、新しく人員を入れる、と管理官に言われた後。なんでそうなったのかはよく、分かってない」
「そこ一番大事でしょうが。思い出しなさいよ秀才」
「秀才とかやめてくれるかな」
(なんだっけ。あのときは、触られたのに嫌悪感がまるでなかったことに、動揺しすぎて………)
思い出す。
あの日のことを。
「たしか、魔道船が飛んでて、管理官に人員追加を言われて……、」
それからーー。
「人嫌いなボクでも、合うような人を選んだって。何かあれば、報告しろって」
(それから、どうなったんだっけ)
沈黙。
曲が一瞬、終わりを迎えて店内が人々の会話を浮き彫りにする。
ルーディスの顔と、指先の感覚と、窓の向こうの曇天ばかり頭に浮かぶ。浮かんでしまう。
「それで。アンタはなんて答えたの?」
曲がまた流れ始めた。
彼女の問いに、リフィエルがキアナを見た。
(ええと、ボクは、たしか……、そうだ)
「君が選んだ人なら信じるって言った。たぶん」
そんなことを言った気がする。
「口説き文句だって、揶揄われた……?」
(思い出した)
その時だ。髪を触れられたのは。
それを伝えれば、キアナが、大きな大きな、それはもう大袈裟なため息を吐いた。
額を支えるように両手でおさえ、静かにテーブルに伏せている。完全に日が落ちた窓の外では人工灯が光を放っていた。
キアナの金色の髪がテーブルの上に落ちた。
(なにか、変なこと言った?)
ほんの少しの不安が募り始めた頃、キアナががばり、顔を上げた。
「そう。春なのね」
「梅雨時期の話だけど」
「そういう意味じゃないわよ朴念仁」
キアナはグラスを持ち、勢いよく飲み干す。
それからその金色の瞳を輝かせた。
まるで獲物を見つけた猫のように、爛々と。
「その管理官って人のこと、もっと教えなさい」
「なんで?」
「アタシがちゃんと“アンタに合うか”見定めてあげるわ! いいからちゃっちゃと吐く!」
そんなことを言われても、リフィエルは彼のことなどほとんど知らない。
好きなものは、糖分で。
嫌いなものは、たぶん、騒がしいもので。
でも、彼の住んでいる場所も、お気に入りのものも、趣味も。何も知らない。
「……何から話せばいいのか、」
「なんでもいいわよ。好みでも性格でも、なんだって」
「そんなこと言われても」
「じゃあはい。その人の好みは?」
「えと、砂糖が好き?」
「甘党なの!? アンタと食の好みは合わなそうね。性格は?」
「性格……、ぶ、不器用?」
「なによ、アンタと一緒ね。どう不器用なの?」
「ど、どうって、言われても」
(……ボク、管理官のこと、何にも知らないのに)
自分の思考に、胸が締め付けられる。
視線がそっと下がった。
手元のグラスはもう、氷が溶け込んでいた。




