10話 心配性?
「ローベイン」
実験室のシャッターは既に閉じられている。魔力灯が照らす室内には音は何もなく、リフィエルの仕事鞄がカチンと蓋を閉じた音だけがやけに響いた。
リフィエルは鞄の取っ手を持って扉の方を見る。
名を呼んだルーディスが黒光の仕事鞄を脇に抱えて、リフィエルの方を見ていた。
部屋にはルーディスとリフィエルしかいない。
マリアベルとシヴァンはつい先ほど、退勤したばかりで、二人きりになるのは久しぶりのことだった。
「なに?」
「送って行く」
「……え、ボクを?」
驚いたリフィエルの表情を見て、ルーディスの顔が僅かに曇る。
リフィエルが仕事鞄をデスクから離し、持ち上げる。それから体をルーディスの方へと向けた。
「俺に住所を知られたくないならば断ってもいいが、せめて最寄駅まででも送らせろ。あんな人の少ない場所で夜道を歩くものじゃない」
「い、いや、住所を知られるのは別に、構わないんだけど……、大変じゃない? 管理官、車だよね」
思い出すのは、採掘場を見に行った時のこと。彼は車を持っていたはずだ。通勤も車を使っているものだと思っていたリフィエルが、困ったように表情を緩めた。
(それにボクの家、結構遠いんだけど……)
「ああ。だが、置いていけば済む話だ」
「置いてって……、明日わざわざ電車で通勤するの?」
「普段だって車も電車もどちらも使う。何も問題ない」
「遠いよ」
「そこは気にするな」
(気にするよ)
ゆっくりと足を進めれば、彼は扉を開いた。通路に出てわざわざ扉を持って待つルーディスを見ながら、リフィエルも潜り抜ける。
背後で小さな音を立てて扉が閉じる。ロック音がすぐに廊下に響いた。
蛍光灯が白い床に反射している。けれど窓の外は暗く、街の光が夜を照らしていた。それを見てから、そっとルーディスに視線を移す。
(そういえば前に、夜道で変な人に追われたことが、あったな)
本当に怖くて。
悩んで悩んで結局、家にたどり着く前に魔法を使って逃げてしまったけれど。
あの時は仕方なかった。今でもそう思う。
だけどあまり、外で魔法を使うべきじゃない。
自分の“異端”は、本当ならば誰にも知られてはならないことだから。
(管理官はもう、魔法のこと知ってるけど)
でも知ってて、きっと、心配をしてくれている。
――たぶん。
「……えっと、」
いいのだろうか。
言葉が出てこない。
通路に止まったままのリフィエルの隣をゆっくり、ルーディスが追い越した。止まっていたリフィエルの足も自然に彼に付き添うように一歩、足が進む。
二人の足音が少しまばらに廊下の壁を反射していた。
「とりあえず、最寄駅まで送る。それまでに決めてくれ」
「……うん。ありがと」
リフィエルは結局、家まで彼に送ってもらうことにした。
たった一度しかなく、自分の気のせいかもしれないけれど、あの時確かにあった、背後にずっと人がいる気配を思い出してしまったから。
暗い夜道。
街から外れた人の気配すら薄い、暗がりに沈むようなアパート。外装は古く、アパート名が書かれている木造りのネームプレートは暗がりの中でも黒ずみが目立つ。
ここが、リフィエルの借りているアパートだ。
ルーディスの口角が上がった。それは彼の不機嫌の合図。リフィエルが思わず肩をすくめる。
「本当にここか?」
「う、うん」
「こんな、防犯灯すらない、ボロアパートに」
「ぼ、ぼろ……えと、はい……」
(ひ、否定出来ない……)
ボロいことぐらい、リフィエルだって分かっていた。キアナに何度引っ越しを勧められたかも数知れない。
ルーディスの視線はずっとアパートにあった。
月明かりに照らされるアパートには蔓が蔓延り、窓から溢れる光は二部屋程度。買い物一つ大変そうな場所だ。
赤い瞳がリフィエルを捉える。視線に気が付いたリフィエルが唇を結んだ。
「何故ここに。実家か?」
「ううん。一人暮らし、です」
「借金でもあるのか」
リフィエルは首を振った。
それからそっと、アパートを見て、周囲を見渡す。つられるようにルーディスもまた、視線を動かした。
「人が、」
一度、口を閉ざす。
(言って、大丈夫だよね?)
だって彼はもう、リフィエルの人嫌いを知っている。
そっと、息を吐き出した。
少し震えた息を隠すように、喉を鳴らす。
「人が、いないから」
自転車の音がどこか遠くから聞こえてくる。
少しの間の後、ルーディスはため息を吐き出した。
「お前の人嫌いの性質を忘れた訳じゃないが、」
彼は何か言葉を続けようとして、口を閉ざした。
「……いや、今はいい」
(今はって何?)
帰れ、と小さく呟かれてリフィエルはアパートの外階段を登って行く。
一度足を止めて階段下を見た。彼はまだアパートの前に立って、リフィエルを見ている。
「あとで連絡する。返事はいらないから、きちんと読め。
鍵を忘れるなよ」
リフィエルは頷いて、それから階段を上り切った。
外廊下を歩いて玄関前に立ち、鍵を開けて中に入る。その直前彼の方を見たが、ルーディスは既に背を向けて歩き出していた。
(あ、感謝の言葉も言ってない)
玄関を通りながら思ったのはそんなことだった。
《対策として》
そんな文章から始まった長々とした彼からのメッセージを眺める。一人暮らしであることをバレないようにするための方法が幾つも載っている。直前に送ったリフィエルの感謝の言葉に反応すら示さずに。
長々とした文章を読み終えると、まだ下にはメッセージがあった。それをローテーブルの前で座り、目で追って行く。
《お前には力があるかもしれないが、万が一がある。対策はしておくべきだ》
《仕事が遅くなった日は送って行く。無論毎回とは言えないが》
「そこまでしなくたって」
ぽつり、呟くと部屋の結界が魔力の揺らぎを見せた。砂壁に強い影が落ちては揺れる。キッチンの五徳の上にあったヤカンが、お湯の沸いた音を掻き鳴らし始めた。立ち上がって火を消し、マグカップに紅茶のパックを入れる。
片手はずっと、スマホを握っていた。
《嫌だと言うなら話は別だが、遠慮だけならば否定するな。お前に何かあれば俺は》
そこで一度文章が途切れ、次の文が始まっている。指先でゆっくり、画面をスライドさせた。
《間違えた。上の最後の文は気にしないように。
戸締まりを確認してから寝ろ。おやすみ》
とぽとぽと、ヤカンが浮きマグカップにお湯が注がれる。マグカップの中が半分ほどになった後、ヤカンは五徳の上で沈黙を保った。
(ボクになにかあれば、なんて。この後、なんて言おうとしたの?)
返事しなくてはならないのに、そればかりが頭をぐるぐると回ってしまう。
ゆっくりと、透明なお湯が色を変えていく。
その様子すら見ることなく、リフィエルはまた、指を動かして画面を上へスライドさせた。
対策として、から始まる長文を目が追っていく。
心が、妙にソワソワする。
落ち着かなくて、どうしていいか分からなかった。
(とりあえず、この対策、一個ずつ実践、していこうかな)
それで彼が安心するのなら。
(管理官ってもしかして、心配性?)
そんなことを考えて、似合わないな、なんて呟いて苦笑を浮かべる。指先が思わず、自分の毛先を弄っていた。




