5話 変化は水面下で
昼下がりの研究棟。
廊下には大きな窓があり、陽光が薄く差し込んでいる。
その光の影に隠れるように、リフィエルは右足を静かに、後ろへ下げた。
「ねえ、ローベインさん。管理官って、どんな方?」
背後にある資料室の扉のドアノブが、背中に触れる。
(……えっと、)
「怒られたりは?」
「人工魔石の研究って、今からでも参加できたりしないですか?」
(……邪魔、なんだけど)
毒が、どこか弱々しかった。
リフィエルの周りには、珍しく人の姿があった。
彼女達の視線の先に、以前までは気にもしていなかったリフィエルがいる。
みな、リフィエルに興味津々に“人工魔石プロジェクト”のことについて、矢継ぎ早に質問してくる。
(人工魔石については誰も期待していなかったはずなのに、一体、どうして)
馬鹿にするような雰囲気すらあったというのに。
資料棚が立ち並ぶ細い廊下の圧迫感が、さらに彼女を逃げにくくしていた。
古い紙の匂いと乾いた空調の風が混ざり、胸の奥がじわりと重くなる。
視界に映る彼女たちの瞳には、隠し切れない好奇心が滲んでいた。
「……じ、人工魔石プロジェクトについては、管理官が管理してますから、“ボク”からは、なんとも……」
確かにリフィエルは研究員として配属されているが、自分から言えることは何もない。研究内容を社内でも勝手に洩らさないことは、暗黙のルールだった。
(先輩方は理解しているだろうに、何故?)
「一緒に二人で研究してるんですよね? どんな感じなんですか? やっぱり怖い人?」
「……管理官は理不尽にはお怒りにはなりません。時折、きつい言い方をするときもありますが、筋の通った方です」
(頭が、混乱しそう)
なんとか、受け答えをしている。
けれど、この状況と視線の多さに、眩暈がしそうだ。
右足が小さな痛みを与えてくる。
それがなんだか、叱咤のように感じられた。
(わかってる。ちゃんと、やるって)
それでも、彼女たちの質問は止まらない。
人工魔石のこと、研究の進捗、そして何よりーー管理官のこと。
いつの間にか話題のほとんどは、ルーディスのことばかりになっていた。
それに気が付くと、なんだか胸に小さな針を刺したような、微かな痛みがあった。
(管理官について聞かれたって、ボクは何も答えられないのに)
なんだか少し、息がしにくい。
資料を取りにきただけなのに、もう数十分もこうして拘束されている。
窓の外では太陽が雲に隠れて、足を照らしていた光が消えていた。遠くで談笑していたはずの人の声はもう聞こえない。
(はやく、資料を探さないと、怒られる)
失礼のないように受け答えするので精一杯で、立ち去る隙が見つからない。
資料室の扉はすぐ後ろなのに、まるで透明な壁に塞がれたようだった。
冷たいドアノブは、未だ背中に張り付いたまま。
ルーディスに許可をとって資料室に来ているのに、これほど時間をかけてしまうと、彼が怒るかもしれない。
あの赤い瞳が自分を見て、口角を上げる。
それを想像しただけで胸が苦しくなる。
それはとても怖いことだ。
だって彼は理不尽に怒ったりしないから、余計に。
リフィエルはそれでも、目の前の彼女たちを無碍にはできなかった。
異端ではいたくない。
(早く、どっか行ってくれ)
心では毒を吐くのに、行動は伴わない。
「あの、」
その時。
着信音が鳴る。
仕事用のスマホから流れる音に、彼女たちの口が止まった。
どうぞ、と彼女たちが手で合図をする。
リフィエルは、スマホを手に取った。
表示されている名前は、想像していた通りの人だった。
緊張を滲ませて、耳にそれを当てる。
冷たさが、耳から頬に伝わっていった。
「……はい」
『なにをしてる』
早口なルーディスの声。その声に怒りはなくけれどどこか苛立ちを含んでいる。通話の向こうで早い足音が鳴っていた。
ぞわりと、粟立つ。
耳元で響く低い声が、心臓を撫でていくみたいだ。
(なんだ、これ。なんか、へん)
「……すみません。資料を探すのに、手間取ってまして」
少しだけ声が震えた。
耳にあてたスマホから聞こえる微かな吐息すら、胸の奥をくすぐる。
(ボク、なんで、)
下がった視線の先で、靴先が光を受けていた。
(なんで、怖くないの……?)
『………まだ資料室だな? すぐ着く』
「え、あの。すぐ戻り、」
切れた。
思わず、スマホを耳から離して画面を見る。
通話終了の文字が、切られたことを告げている。
(まって。すぐ着くって、言った?)
今更言葉を認識した、その直後だ。
硬質な足音が向こうから聞こえてきた。
最近覚えてしまった彼の足音。
何を考える間もなく視線が向かう。
資料室前廊下の空気が、ぴんと張りつめた。
靴音が近づくたび、周囲のざわめきが静まっていく。
彼の足音に合わせ、周囲の私語がひとつ、またひとつと消えていく。
静寂がじわりと資料棟の廊下を満たしていく。
「あの、管理官はなんて?」
女性の一人が、声を出した彼女の肩を叩いた。
指先を口元にあてて、下がるようにと引っ張る。
「ローベイン、戻って来ないと思ったら」
黒いコートを靡かせてやって来る。
彼が、彼女たちを見た。
すう、と赤い瞳が細まる。
冷たい空気の中で、その視線だけが鋭く突き刺さる。
廊下全体が一瞬で静まり返る。
彼女たちの肩が、静かに震えた。




