2話 嫌いじゃない人
退勤後の電車はいつも落ち着かない。ノエはおらず、たった一人でこの箱に詰め込まれる苦痛をずっと「あともうちょっと」と押し殺してきた。
けれど今日はもっと、別の意味で落ち着かなかった。
ゴトン。
時折大きく音を立てて、体が跳ねる。
蛍光灯がちらつくけど、疲れ切った人々は誰もそれを気にしない。
窓の向こうに白い光に照らされた自分の姿が、流れる暗闇に映っていた。
視線を下げる。
座る彼女の前にあるのは、ディスプレイ。昔からずっと使っている使い古されたスマホ。
青白い画面の向こうにあるのは。
(……管理官の、名前)
なぞると、画面が動く。
『ルーディス』の文字が、上へスライドした。
『後で連絡する』
充電の終えたスマホを渡しながら、彼は確かにそう言った。やり方さえ朧げな連絡先の交換を、彼の指先はあっけなく終わらせて。
彼女の知っている連絡先がスマホにリスト化されている。その数はあまりにも少ない。
けれどその一つ一つは、毎回彼女の心を暖かくしてくれた。
今回も、また。
心が確かな暖かさを覚えている。
指先が彼の名前に触れる。
表示された画面には、もう既に僅かなトークがのっていた。
《明日暇なら紫陽花を見に行かないか》
《勿論断っていい。これは管理官ではなく個人としての提案だ》
《もし良いと思ったら、お前の最寄駅だけ送ってくれ。時間は合わせる》
返事は、していない。
どう返していいかが分からなくて。
(仕事の話がしたいだけだって、思っていたのに)
スマホの画面を伏せ、背もたれに体を預けた。
視界に映る吊り革が、皆同じ方向に揺れ動いている。
その吊り革を白い光が照らして、床に、人に、揺れる影を落としていた。
思わず視線を逸らした。右足を下げ静かに息を吐き出す。
最近、自分の感情が分からない。
(ボクは“冷静でいなくちゃ”いけないのに)
万が一を、起こさないために。
二度と、“あんなこと”を引き起こさないように。
(なのに最近は、心がずっと忙しない)
ーーこれは、良くないことだ。
次の日の目覚めは、あまり良くなかった。
休日だというのに朝早く目覚めてしまって、布団の傍に置きっぱなしの卓上時計の時間から視線を逸らす。
部屋は薄暗く、カーテンの隙間から僅かに薄い光が溢れている。部屋に張り巡らせている結界が魔力の揺らぎを見せて、古びた砂壁に細かやかな影を落としながら色を与えていく。
寝転がったまま枕元にあったスマホを手に取り、結局返事すらしていないトーク画面を見る。そんな自分の行動に呆れつつ、でも新たに来ていたメッセージが一番下にあって、目を見開いた。
『悪かった』
たったそれだけ。
それだけの文が一番下にぽつんとある。
リフィエルはゆっくり体を起こした。
少し乱れた髪を手櫛で整える。
考えても結局何も浮かばなくて、リフィエルはスマホ画面を閉じて、布団の上にそっと置いた。
立ち上がり閉じたままだったカーテンを開き、白くかすんだガラスから外を見る。
ベランダの柵から覗く青色は、遠く透き通っている。徐々にのぼる太陽が街を照らしていく様を、ぼんやり眺めていた。
手すりから一つ、雫が垂れ落ちる。
雨が降った後の青空は嫌いじゃない。
けれど、外に出ようとも思わない。
直接あの光を浴びるのは、自分に似合わないと思ったから。
(……なんで、ボクを誘ったんだろ)
最後には謝罪までして。
レースのカーテンを閉める。僅かに光を遮断した室内は、静寂だけがあった。
いつも身の回りを支えていた魔法もなりを潜める無音の空間。
時折家鳴りか、物の弾く音が空気を揺らす。
この部屋を狭いと感じるようになったのは、つい最近のこと。少し前までは、この閉鎖的な空間が心を落ち着かせていたのに。
理由は、分からない。
理解してもいけない。
そんな気がする。
(管理官じゃなく、ルーディス・ヴェイルとして……)
リフィエルは布団に置かれたままのスマホを見た。
銀色の髪が太陽の光に照らされて白く縁をなぞっていく。
(……ボク、あの人のこと、嫌いじゃない)
ぺたぺたと足音を立てて、布団の上に座ってスマホを取る。
黒い画面には緊張した面持ちのリフィエルが映っていた。
パッと画面が付く。
(いつの間に。あんなに、苦手だったのに)
開きっぱなしだったトーク画面に、指先が文字を打つ。その指は少しだけ震えていた。
《まだ間に合いますか》
《ボクで本当に良ければ》
その二つを送るだけで、時間がかかった。悩んで打って消して。そうしてやっと送った二つの文。
(やっぱり、いや、でも)
わたわたと次の文章を打つ間に、既読が付く。
「あ、わっ、既読がっ」
焦っている間に、スマホから小さな音が鳴った。
《上司だからと遠慮してるならやめておけ》
(打つの早いっ)
いや、自分が遅いだけだ。分かっている。
リフィエルは一度打っていた文を消して、また、打ち直した。
遠慮したわけではないと、ちゃんと伝えるために。
(だって本当に、遠慮なんかじゃ、ないから)
ただ不思議と、彼となら会っても良いとそう思ってしまったから。
集合はリフィエルの最寄駅の近く。
休日の朝。いつもよりも人は少なく、目の前を通り抜けていく人々の足もどこかゆったりとしている。
ルーディスがわざわざ迎えに来てくれるらしいとのことで、リフィエルは地下鉄の中でソワソワとスマホを見たまま、ベンチに腰を下ろしていた。
(せっかく管理官が充電してくれたのに、もう半分切ってる)
長いこと使っているこのスマホは、バッテリーが劣化しているようだった。そんなことこれまで一度だって気にしたことがなかったのに、今は不思議と気になってしまう。
けれど、買い換える気にも、バッテリーを交換する気にもならない。
(……どうしよ。休日に、管理官と会うの? ボクが)
しかも、自分から許可を出してしまった。
だって仕方ないじゃないかと、言い訳のような言葉が一人でに浮かぶ。
(悪かった、なんて送られちゃったら)
なんだかとても悪いことした気分になって。
画面の向こう側であの管理官が、しょんぼりしているのかなって。そんな顔想像すら出来ないのに。
《もうすぐ着く》
そんなメッセージの後、すぐだ。
アナウンスが鳴る。思わず肩が震えた。
スマホを鞄に仕舞い込み、立ち上がる。緊張したまま、彼女は目の前をゆっくり通過する電車を見ていた。
完全に停車する。
開閉の音と共に、扉が開く。
都心部から離れたここで降りる人は少なく、だから彼の姿をすぐ見つけてしまった。リフィエルの目の前の車両から二個分ほど離れた場所に立つ、黒い姿の彼を。
彼は少し視線を彷徨わせて、リフィエルの方を見た。
リフィエルの足が動き出す前に、彼の足がこちらに向かう。その足は共に歩く時よりもうんと早くて、なんだか少し心臓がうるさくなった。
扉が閉まります、とアナウンスが鳴った。空気音と共に電車の扉が閉まり、車輪の音を立てながら、少しずつ進んで行く。
「待たせた」
「い……いいえ」
風で揺れる彼の黒髪は、いつも通り背中で一つにくくられている。
リフィエルの数歩先で止まった彼の首からは、カメラがかけられていた。そこから微かに魔術の気配がある。
リフィエルの視線が自然と、そのカメラに向いた。
「魔道カメラだ。魔力補充は済ませてある」
ルーディスが、彼女の視線の先を少し覗いてカメラを手で触れる。彼の大きな手よりもずっと大きなそのカメラは、リフィエルでもわかるくらいに高級そうだった。
「……管理官は、無魔だったと記憶してますが」
「便利な友人がいてな。魔力の補充はそいつにしてもらっている」
彼は自分の腰にかけられた小さな鞄を外した。
それから、そっとそれを差し出してくる。
(ここからも、魔術の気配がする)
「持て。折角なら写真を撮った方がいい」
彼はそう言って、少しだけ目を細めた。




