1話 からっぽの器
雨粒は途切れることなく外を濡らしている。
時折跳ねる水音が微かに混じり、緑の葉を揺らした。
実験室は陽の光が薄く、暗い。リフィエルの前にある機械だけが青白い光を放っていた。
鼻を掠めるのはアルコールと湿気の匂い。
あまりいい匂いでないそれも、もう慣れてきた。
ーー魔石を不合法に入手してから幾日が過ぎた。
魔力検査機に繋がれた魔石が、静かに脈動した。
しかし波形は一定の数値を保ったまま微動だにしない。
ガガガ、と機械が音を掻き鳴らし、紙を吐き出す。
それを彼女の手が流れるように引き寄せていた。グレーの床には既に数字の羅列が記された紙が無造作に散らばっている。椅子のキャスターが、その紙の角を少し踏んでいた。
(やっぱりだ。表層と深層で魔力の質が違う)
排出され続けていた紙が止まる。
機械音が静止すると、部屋には静けさだけが残っていた。
巻いた紙を置いてペンを手に持った。
ペンが走る。
彼女の瞳はペン先に向けられていた。
扉が開く音、それから靴音が響く。
強くなった雨足が、部屋を満たしていく。
(少しずつ魔力が貯まった結果、魔石になる、ということ?)
しかし、彼女の耳にはどれも届かない。
(なら、“一番最初”の状態は、なに?)
「ローベイン」
ルーディスの声に思考が止まる。
振り向けばそこに、いつの間にか彼が立っていた。リフィエルの銀の髪が揺れ、青い瞳が丸くなる。
それからやわく目尻が下がった。
「管理官、丁度よかった」
「進捗を聞こうと思ったんだが、何かあったようだな」
ルーディスの視線が彼女の奥へ向けられた。
デスクの上は書類が散乱している。
魔力波形の履歴をずらずらと並べた紙と、彼女の考察をメモした紙。
素材名が書き連なった紙と図鑑が乱雑に置かれている。
視線が手に移れば、指先に黒いインクが染み付いていた。
「随分と夢中だったようだな」
ふ、と笑う気配。
表情はほとんど変わらないのに、不思議と空気が柔らかくなる。
リフィエルは最近、それが分かるようになってしまった。
(……あんまり、よくない気がする)
理由は自分でもよく、分からないけれど。
ルーディスは背を曲げて足元に落ちていた紙を拾い上げた。それをデスクの上に置くと、目が話の続きを催促する。リフィエルはサッと視線を手元の紙に落とした。
「実は、変なことに気が付いて」
気を逸らすように広げたのは、先ほどまで機械が吐き出していた資料。機械は既に沈黙し、雨音だけが耳に届く。
ばつばつと激しく鳴る水音の中でも、彼の服が擦れる音が耳元に聞こえる。
紙をめくる指先が、思わず動きを止めていた。
「……こっちが表層の魔力データ、今持っている方が、深層のデータ」
見比べやすいよう、並べる。
視線はできるだけ資料のみを、見つめていた。
その資料の傍に大きな手が置かれた。手の陰影がモニターの青白い光に照らされて、くっきりと浮かぶ。
何故かその手に見入る。
(集中、しなきゃ)
意識して、視線をずらした。
「ここと、ここ。数値が違うんだ」
爪先が指す先を、彼が覗き込む。視界の隅に入り込むルーディスの黒い髪に、意識が持っていかれそうになる。
ほんの少し動けば肩が触れそうで。
喉が、鳴りそうだ。
靴の中で足の指がきゅ、と強張った。
(おねがい。鎮まって)
心臓が忙しない。
雨音がかき消すことを願って、唇を噛む。
「……偶々かと思って、別の魔石も試してみたけど、結果は同じ。
たった二件だから確実とは言えないけど、表層と深層で魔力の質が異なる、のだと思う」
視線はまた、いつの間にか彼の手にある。
吐息が耳を掠めるようで、指先すらうまく動かせない。
(あれ以来、距離感がすこし、おかしい……)
前みたいに、絶対触れない場所には立っていてくれない。
リフィエルが緊張していることなど、彼はとうに見抜いているはずなのに。
「……なるほど。言いたい事は理解した」
手が、デスクから離れる。
ゆったり離れるその指先が、何故か名残惜しそうに見えて、目が離せない。
耳元にあった気配が離れて、ようやく胸を撫で下ろす。
「……そう。つまり、」
「元々魔石は、」
『空の器』
二人の声が、合わさる。
魔石を覆う魔法が、淡い光を揺らめかせた。
「盲点だった。魔石は魔力がなくなれば砕ける物だとばかり考えていたからな」
彼の言葉に頷く。
魔石の交換は専門の技術職だ。魔力が空になった後の魔石の状態など、普通は知る由もない。
知っているのは砂状になった、淡い光を放つ魔石の最終状態。瓶に詰められ、一般的に売られている高価な装飾品。
しかしながら、目の前の魔石はこうして無事に此処にある。
魔力を失った魔石が。
揺らめく光はなく薄青色の透明な石。
これが魔石の大元。
探し求めていた、『空の器』。
「でも、そうであったとしても入手は難しいよ」
例え国から許可が降りたとしても、実験には危険が伴う。
リフィエルは指先で僅かな魔力を注いでみた。しかし魔石にはほとんど魔力が入らず、魔力波形の波は最低値で落ち着いている。
「安全性を追求した魔術式の構築と、補充率の効率化。かなり手間もかかる」
「だが折角見つけた手掛かりだ。有効活用せねば」
リフィエルが、椅子から立ち上がった。
一歩離れた場所にいる男と目が合う。彼女は、ただ真剣な眼差しを向けていた。
「それは、確かにそうだけど」
「まずは実験だ。使い終えた魔石の処分方法を確認しておく。もし溜め込んでいれば、譲ってくれるかもしれん」
「そう簡単に?」
「魔石はまだ実用価値のある資源だ。国だって“ゴミ”くらいは出してくれるだろう」
口角が上がる。
それは彼が、不機嫌な合図だ。
(……って、分析してどうするんだよ、ボク)
思考を追い払うように、視線を彷徨わせる。視界の端に映った悲惨なデスクに、目を取られた。
散乱した様子に、「あー……」と、情けない声が落ちる。
「一旦片付けしようかな」
「その前に昼食の時間だ。手を洗って来い」
「そうする」
昼食の時間が迫っていることすら、気が付かなかった。
窓の外を見れば、しとしと、とめどなく雨が降っている。
雨は時間の経過をゆっくりにしていた。
「ああ、そうだ」
忘れていたと、彼は呟く。
ルーディスは彼女に手を差し出した。
「なに?」
「スマホを出せ」
(急に何?)
少し眉を寄せながら、ポケットを探る。
それから、会社支給の仕事用スマホを彼の手に乗せた。
「………ローベイン?」
「なに」
「わざとか?」
「いや、何が?」
リフィエルの顔は、もう前のように笑みを張っていない。不思議そうに小さく首を傾げた彼女に、ルーディスがため息を吐き出す。
それから手の上にあったスマホを、彼女の手に渡した。
「違う。個人の方を出せ」
スマホの画面に映る自分が、不思議そうに目を瞬かせている。
それから、あ、と小さく声を上げた。
彼女はスマホをほとんど使わない。連絡するのはキアナと父だけ。
故に彼女のスマホはいつも、仕事鞄に入ったままだった。
軽い足音が立つ。リフィエル専用となった休憩スペース横の小さなデスクのそばに歩き、上にあった鞄を漁る。奥の方で眠っていた冷たいスマホを手に取った。電源ボタンを押すが、反応は何もない。
(……やっぱり付かないか)
充電すら忘れていた。
目の前の板は、無音のまま手に冷たさを与えている。
「……貸せ」
ため息混じりの声が、すぐ背後から聞こえた。
上から彼の手がスマホを取り上げる。かすかに、指先が触れた気がした。
振り向けば彼は、彼女のスマホを回して何かを確認している。
近さに一歩足が下がる。
デスクに腰を打ち、カタンと音が鳴る。
「これならケーブルがある。充電しておく」
「……ボクがケーブルを持ってるとは、考えない?」
「電源すら付かない状態で放置してる奴が?」
何も言えなくなった。
彼の手の中にある空っぽな自分のスマホが、光を反射した。それがいつもと異なる色を見せている気がして、見ていられなくなった。
視線を逸らした彼女に、また彼が笑う気配がする。
(……なんか、居心地が、わるい)
けどそれでも。
その違和感が不愉快でないのは、なぜ?




