1話 死刑宣告は声とともに
春風が窓を打つ。
雪に埋もれていた枯葉が、風に乗ってクルクルと回る。
リフィエルは、枯葉から視線を逸らして窓際を通り、暖房の効いた部屋を通り過ぎる。
ふと遠くで、小鳥の鳴き声が少し遅い朝を告げていた。
『魔術士管理局 魔術研究課』
滅んだ古代魔法と同じ道を辿り始めている現代魔術の最終墓場。
そこが、リフィエルの勤務先だった。
リフィエルの元には雑務がよく舞い込んでくる。
深い青の瞳に嫌悪も否定も浮かべず、「分かりました」とやってしまう事もまた、影響しているのだろう。
今朝もまた、書類整理を頼まれてさっき終えたところだ。紙束ばかりを扱っていた指先はカサカサに乾いている。リフィエルの「友」ーー手入れにうるさい彼女がこの手を見てどう騒ぐか、想像しただけで気が重くなった。
彼女の口から、吐息が溢れ出す。
(面倒な事ばかり押し付けてくる……)
その割に彼らは、廊下の隅で談笑しているのだから、タチが悪い。
ふと。
職員の持つ赤いコーヒーカップが、目に留まった。
あの赤い瞳を思い出して、背筋が冷たくなる。
頭の中にあの低い声が聞こえた気がして、思わず、避けてしまった。
先日入社したルーディス・ヴェイルとは、接点がない。
当然の事ではあるが、彼は全ての課を取りまとめる管理官だ。
彼と直接やり取りするのは、彼女の部署でいえば魔術研究課の課長、バーナードぐらいだろう。
彼女はホッと息を吐き出していた。
赤いカップを避け室内に入る。彼らはみな己の仕事に夢中で、誰も彼女を気に留めない。
(……もう、会いたくない)
苦手だった。
特に、彼の赤い目が。
血のような色を滲ませて、人を見下ろすようなあの雰囲気が。
右足が、過去の傷を訴えた。今は何もないその足が、しくしくと泣いている。
それがなんだか嫌な予感のようで、リフィエルの瞳は足を見なかった。
彼女の目の前には資料が並んでいる。
どれも、古い文献ばかりだ。
古びた紙の香り。
黄ばんだ、優しい色合い。
これらは模造品だが、それでも十分、リフィエルの知識欲を掻き立てるのに相応しい品だ。彼女の瞳がまるで光を受けたかのように輝く。
(これは千二百年前、魔法が衰退し魔術になる頃の魔法の研究資料か。魔法と魔術の違いについて、よく考察されている)
分析した事を書きまとめていく。
ペンの音だけが、耳に残った。
深い青に映るのは、目の前の紙束だけだった。
蛍光灯の光も、春を思わせる麗らかな太陽も、同僚も。
ーーー彼も。
「リフィエル・ローベインだな」
リフィエルの口が、小さな息を吸って、止まった。
ペンの音も時計の音も。
全てが男の声に塗りつぶされる。
ゆっくり顔を上げる。
資料の並んだデスクの向こう側、その目に赤色を携えて、リフィエルを真っ直ぐ見つめる男がいる。
力の抜けそうな足が無意識に距離を離そうと下がり、落ちていた書類に足を滑らせた。
支えを失った身体が倒れ込むように落ちる。
鈍い振動。
不思議と痛みはない。
ただ、目が向こうを見ていた。
デスクの反対側だ。
彼の手がこちらへ伸びている。まるで何かを掴もうとしたみたいに。けれどその指先はリフィエルに届くことはない。
赤い瞳はずっとリフィエルを見ていた。
なんでいるんだ、という言葉が喉元まで出かかって、閉ざす。
「………あ、ヴェイル、管理官……」
男の手が下がっていく。
いるはずのない人物の姿に、穏やかな日常の壊れる音が聞こえた気がした。
ルーディスの目は、まるで観察するようだ。
倒れた彼女を心配するような色はない。
見下ろす彼の目線の先で、リフィエルは彼から視線を逸らした。
震える右足を押さえてなんとか立ち上がる。
顔に羞恥心はない。彼女の瞳にはただ恐怖が滲んでいる。
それでも彼女は、笑みを作った。
「申し訳ありません。お見苦しいところを。確かにボ、……わたしが、リフィエル・ローベインです」
蛍光灯が一瞬点滅した。
男の睫毛の影が揺れる。
口は閉ざされたままだった。
喉の鳴る音。
秒針が数回、時を告げた。
「ーーローベイン。貴様に話がある。執務室へ来い」
その声は、処刑前の響きがあった。
彼の執務室は重たく冷たい空気がある。
時計の音もない静寂は、耳鳴りを呼んだ。
主人を失った執務室は、まだ新たな主人を受け入れる準備が出来ていない。
空白の多い棚。
人の気配がないデスク。
わずかに紙の匂いが漂っている。
震えた息が誰の耳にも入らず消えていった。
暖房の電源は入っていない。部屋の中は凍えそうだ。
冷たく無音の室内で、男だけが生きているみたいだ。
黒い髪がまるで生き物かのように揺れる。
吊り上がった目と眉、不機嫌そうに下げられた口。人の顔の造形に興味のないリフィエルですら、綺麗なのだろうとなと理解出来る。
まじまじとは見れず、目が合う前に視線を下げた。
(何故、何も言わない)
リフィエルの毒が僅かに表情に漏れ出した。
ルーディスは、椅子に座らない。
長身の体をわざわざ傾けてデスクに手を添えている。
デスクの上は書類が丁寧に乗せられていた。
彼の目が文字を追う。
テーブルに爪先が幾度かの音を鳴らす。
彼の背中を照らすように窓から光が伸びている。
今の雰囲気に似つかわしくない、美しい青空が広がっていた。
「………まず」
沈黙を破る。
たったそれだけで、リフィエルの息が止まる。
窓から差し込んでいた光が、影に隠れた。
「貴様の成績は優秀。その一言に尽きる」
言葉だけを聞けば、褒められている。
(褒められても、嬉しくない)
何を考えているのか分からない。
褒めているくせに、男の声には熱も揺らぎもない。表情すら変わっていない。
だから、その言葉の裏の意味ばかり想像してしまう。
なのに。
視線が彼から逸らせない。
「しかしその功績に見合う仕事を得られていない」
彼の手が、書類を放り出した。
その音が意識を連れ戻す。
(もしかして、見入ってた? 違う、そんなわけない)
無意識に拳に力が入った。
ルーディスが窓辺に向かう。
足音を立てて、瞳は空を見た。
彼の背中で、結ばれた黒い髪が揺れている。
「古代魔法の研究、文献の翻訳技術、魔術に対する高い知性。ーーそれが、ローベインの長所だ」
心が音を立てた。
しかし、喜びではない。
彼の声は、まだ雪の冷たさを孕んでる。
その冷たさに触れて、震えたのだ。
ーー外はもう、春だというのに。
「……ありがとう、ございます」
感謝には、心は乗っていない。
当然だ。
(だって、この人、ボクを見てない)
己の向こう側の何かを見ている。
いや、『能力だけを見ている』。
それが、少しだけ悔しかった。
「……ローベイン。配属先を変更する」
(配属先を……、嫌、嫌だ)
やめてくれ。
そう思った。
顔を上げた。
言葉にしてしまいそうだった口は、空気しかこぼせない。
いつの間にか、男の目が自分を見ていた。
見透かされるような目だ。
靴が鳴る。
彼の体が、リフィエルに向いた。
「配属先は、俺の下だ」
管理官の下。
昇進と言っても差し支えのない辞令。
しかし、リフィエルの心にあるのは、否定だけだった。
(この男の下で働くのは嫌だ。)
(ボクは、魔術研究課でいい。研究だけ、させてくれ)
「本日付けだ。ーーよろしく、リフィエル・ローベイン」
男の口角が、僅かに上がる。
喉がカラカラに乾いて、もう言葉は出ない。
この男に何か、自分の大切なものを奪われる。
ーーーその予感は、きっと正しい。




