エピローグ 踏み込めない
思い出すと、今でも手が震える。
魔石の起こした揺れで頭上の岩が崩れて。
下に、彼女がいる。
気がついたらもう、突き飛ばしていた。
暖色の光が照らす室内で、ルーディスは窓辺に立っていた。外は暗闇に包まれ、ガラスに浮かぶ彼の姿がくっきり映っている。
街は夜景を映し、ひっそりとした夜を迎えていた。
情けなく震えている自分の手をしばらく見つめてから、視線を部屋に向ける。
時計の音すらしない室内は、耳鳴りがする。
カーテンを閉じ切ってから、足音を立ててダイニングのテーブルに向かう。置かれたままだった複数枚の書類は、どれも、たった一人についてのものばかり。
ーーリフィエル・ローベイン。
彼女の生み出した、美しい魔術式たち。
そして、それに対する自分の考察。
ルーディスはその中から一枚を取り出した。
部下にするにあたって作成した、リフィエルについての考察、対処法。それらをまとめた自分だけの紙。
それをゆっくり、目が追っていく。
(ローベインは人を嫌っている。それは間違いない)
自分自身、人に好かれるような人間じゃないことは分かっている。つらつらと書いてある紙には、仕事面だけではない彼女の“不可解さ”も、記されていた。
僅かに右足を庇う癖。
張り詰めた笑み。
仕事に対する勤勉さーー、いや、過剰すぎるほどの自分への戒め。
いつ倒れてもおかしくない、青白い顔。
そして、ぼんやりとしているように見える時ほど、何かを耐えている、あの雰囲気。
それらの情報の全てが彼女を“一筋縄でいかない部下”であると結論付けた。
故に、仕事を円滑に進めるために、善良な上司であろうとした。
不当に彼女を扱わないこと。
丁寧な対処を心がけること。
それを徹底してきた。
功を奏したのかはわからないが、少なくとも初めの頃よりも目は合うようになった。
己の見定めた通り、優秀な人材だ。魔術界において、彼女の存在は欠いてはならぬものになるだろう。その才を遺憾なく発揮する場所を、自分が作ってやればいい。
ずっと、そう考えて行動してきた。
ただ、それだけのはずだった。
もう一枚の紙を取り出す。それもまた、彼女に関すること。
新たに追加された文は、今回の事件の概要。
(……魔術語を、使用しなかった)
そんな魔術は存在しない。あり得ない。
まだ鮮明に思い浮かぶ。
大岩も魔石も全て止めたあの魔力の美しさを。
倒れ込みかけた己の体も、彼女の体も掬い上げた、柔らかな力を。
そんな力を、あんな一瞬で。
故に、至る答えは一つ。
(ーー魔法)
何を馬鹿な。
そう思う。
それでも、その可能性を捨てきれない自分がいる。
なぜなら彼は一度だけ、魔法現象を見た記憶がある。
誰も信じてはくれなかった、あの日の記憶が。
脳裏に焼きつく“あの光”が未だ、己の心を奪っている。
震えていた指先がようやく治る。
ルーディスは安堵の息をひとつこぼした。
魔法なのか、魔術なのか。そこは一旦心に仕舞い込む。踏み込めばきっと、“彼女は逃げ出すから”。
彼女を失いかけた光景をまた思い出しかけて、ふるり、頭を振る。
垂れた髪が背中をやわく叩いた。
(……俺がローベインを庇おうとした理由が、未だ説明つかない)
自分の身を犠牲にしてまで誰かを救えるほど、己は出来た人間じゃないはずだ。
ーー予測はある。
恐らく、その予測は正しいだろうとも、理解している。
けれど信じられない。
(何かあったわけでもない。心に残るような何かがーーー、)
紙にある自分の字。
『甘味は苦手』と書かれたその文字を、指が伝う。
甘い紅茶を勧めてすぐ、否定した彼女の声を思い出した。
動きに釣られて揺れる柔らかな銀髪。
弱さの中に隠した強い意志を持つ、あの瞳。
最近見るようになった、紅茶を飲んだ時に僅かに柔らかくなる、あの表情。
グシャ。
紙が音を立てて形を崩す。
どこかに飛んでいた意識が、音に戻された。
(確かめるか)
紙を置く。
それから、テーブルに置きっぱなしだったスマホを見た。
連絡先など知る由もない、ルーディスのスマホは沈黙を守っている。
ただ黙って、しばらく見続けていた。
暖色の光を受けるスマホが、自ら光を放つことはなかった。




