16話 雨粒は波紋を呼ぶ
年末年始ですね。良いお年を。
折角なので休み明けまで毎日投稿します。
玄関を閉めて、鍵をかける。
宙に向けたリフィエルの手から緑がかった魔法灯が姿を見せる。それは浮遊し光を揺らめかせながら、壁に揺れる影を落とした。
靴を揃える余裕もなく、乱雑に投げ置く。
かつんとした音が、背中で跳ねていた。
部屋に伸びるリフィエルの影が、不安定にゆらめいている。
淡い緑色の光と共にリビングへ向かい、仕事鞄を床に置く。
それから部屋の隅に畳まれた布団に、力が抜けるように倒れ込んだ。
(……つ、つかれた………っ)
布団の隙間から、くぐもった息が吐き出された。
怒涛の一日だった。
カーテンの向こう側には既に光はなく、空は雲で覆われている。夜に沈む街は、いつも通りの静けさを携えていた。
うつ伏せで転んでいた体を、仰向けにする。
魔法灯が、天井の近くで浮かんでは、沈んでいた。
その度に影が揺れ、目の前の景色が色を変える。
あの魔石のように。
(……魔法のこと、なにも聞かれなかった)
リフィエルの指先が、天を向いた。
淡い光が強まり、部屋全体を明るく染めていく。
天井から降り注ぐような暖かさに包まれながら、彼女は目を瞬かせた。
何かを思い出すように。
魔石の欠片を見た彼は、珍しく声を上げて笑った。
怒ることも、眉を顰めることもなく。
ふっと見えた犬歯がくすぐったくて、思わず視線を逸らした。
よくやった、と褒める言葉がまだ、耳の奥に張り付いている。
『どうせあいつらは分からん。現場は崩落しているからな』
有効活用してやろう。彼はそう言って魔石の欠片を受け取った。
「自分が持っている」と言っても、聞きもしないで。
『これで共犯者だ。……そうだろう?』
楽しそうに言うものだから、それ以上何も言えなくて。
結局、手元には残っていない。
魔石の光が、彼の指の中で瞬く。
その光はいつの間にか、魔法灯の光に変わっていた。
「………ほんと、変な人」
魔術を使っていなかったことなど、とうに分かっているはずだ。
幾らでも、問いただす時間はあった。
けれど彼の口から出た言葉はどれも、魔法なんて単語を吐き出さなかった。
ラジオを聴きながら、時折「この曲は嫌いじゃない」だなんて、感想を呟く。
それだけ。
手が震える。
思考が、一気に彼が死にかけたあの光景に塗りつぶされる。大岩の下、目を見開きながらもリフィエルを押した、彼の姿に。
(管理官を失うのは、耐えられない)
だから、魔法を使ったことは後悔していない。それでも、心はざわついていた。
それに、この力がバレて、世に混乱を招くようならば。
ーー最終手段を使えばいい。
(ボクに関する記憶をまた、消せばいい)
そうすれば、“リフィエル・ローベイン”という“異物”は消え去り、また世に平和が戻る。
それを考えるたびに、自分という輪郭が、あやふやになっていく。今自分はなんのために、生きているのか分からなくなる。
(……この方法は、ほんとうに最後の、最後だけ)
胸が苦しくて寝ていられない。仕方なく布団から疲れた体を起こす。
木の床を軋ませながら、キッチンへ向かった。
彼女がたどり着くその前に蛇口が捻られて、水の音が鳴る。
コップが浮き、そこへ注ぎ口を差し出した。
水の音が消える。
コップの中の水がゆっくり回り、小さな光の粒を混ぜた。
それを手に取り、飲み込む。
喉を潤すはずだった水が気管に入り込み、咳を招いた。
あの魔石事件から、二日の休日を挟んだ。
雨の匂いは絶え間なく続き、窓の向こうで街は、曇天の下雨粒を受け続けている。
「さあ、今日から実験だ」
その窓の近くに立つ彼の手の中にはあの時の魔石がある。
いつもの実験室。
いつもの部屋で、彼は楽しげにそれを指先で弄っている。
リフィエルは魔力波形装置の準備を止めて彼の方に向き直った。
石の光が、壁に彩りを与えていた。
彼の指の動きと共に、色は形も温度も変えていく。
光が、無骨な指の輪郭をなぞった。
「あの、封印してあるとはいえ、あんまり乱暴にしないで、」
暴発未遂事件の際ーー、いや、結界で抑え込んだだけで、本来ならば暴発していたあの魔石のその破片。それは現場からコッソリ魔法で回収した際に封印を施してある。
しかしでは乱暴に扱っていいのかと問われたら否と答えるのがリフィエルだ。
乱暴に石を弄ぶ手が不安で、思わず立ち上がりかけた彼女を、ルーディスは手で制す。
「何も問題はない。自室で散々弄り倒した後だ」
「なっ、なんて危ないことを……っ」
ルーディスの背後、窓を鳴らす雨粒は硬質で、不規則なリズムを叩いている。
梅雨入り宣言は、昨日からだった。
「貴重な物だからな。実験は出来うる限り慎重に進めねばならない」
(そう言いながら扱い雑なのは、どういうこと)
彼の指は相変わらず魔石を弄んでいる。
まるで、おもちゃのように。
「だがもし。最悪失敗して壊しても問題ない」
(なんで)
言葉を吐く前に彼は懐から一つ、真っ黒の袋を取り出した。口を紐で縛られたそれをゆらりぶら下げて、リフィエルに寄って来る。
妙な魔力反応にリフィエルの目はそれに釘付けになっていた。
(……嘘、気のせいだよね?)
ことり。
硬質な音を立てて魔力波形装置の手前、デスクの間スペースに黒い袋が置かれる。
彼はそれ以上言わずに、顎を動かした。
開けろ、と暗に言われている。
彼女はため息をこぼして、紐を緩めた。
指先が少し、震えている。
(そんなわけない)
ころり、と音を立てて転がる音。
光が目に飛び込み、反射的に目を細めた。
それは、光を放つ欠片。
ーー魔石。
「………嘘」
「はは。その顔が見たかった」
悪戯が成功したこどもみたいに、彼が笑う。
思わず睨むように見てーーー。
(……その顔は、ずるい)
楽しそうな顔に、何も言えなくなる。
魔石の光が自分の胸元を照らす。その光がなんだか、妙に暖かくて、くすぐったい。
目を、デスクの上の魔石に向けた。
(危ないことをしていたと、叱らなくちゃいけないのに)
目の前の魔石は大人しくそこにいる。封印すら施していない状態で。
「似た事を考えていたと知った時は、笑いを堪えられなかった」
「だからあんなに笑って………」
図らずも、同じことをしていたから。
彼からすれば、面白いものだったろう。
『悪いことをした』と罰が悪そうに、同じ罪を吐き出す彼女の姿は。
「案外気が合うな?」
「冗談はやめてくれ……」
笑う顔を見たくて、見たくない。
リフィエルは、ただじっと石を見た。
魔力の揺らぎが光を瞬き、魔力灯をちらつかせる。
「ああ、そうだ。魔石暴発未遂の件、緘口令を敷いてある。口外するなよ」
「分かってるよ」
リフィエルの目はただずっと、魔石にあった。
(封印、しないと)
また彼の前で、魔法を使う。
僅かに震えた息を、飲み込む。
それから手を魔石に添えた。
光の幕が緩やかに魔石を覆っていく。全てを埋めると、光は硬質な壁となり、石の形に合わせて張り付いた。
光り輝く魔石が魔法の光を携えて色を変える。
魔力を通した指先が、冷たかった。
「ーーこれで、いい。というか、裸で持ってたの本当に危ない。その日に言ってよ」
「……言いそびれた」
「嘘つき」
(……やっぱり。目の前で魔法を使っても、何も言わない)
魔術語を使用しない魔術など、この世には存在しない。
ーーそれは、リフィエルの罪であり、この世の真実だ。
なのに彼は、言及しない。
「………ボクに言うことはない?」
魔石を袋に入れ、紐を閉じる手が、一瞬だけ止まった。
「ない」
即答に、リフィエルの瞳が、大きく、大きく見開かれる。
瞳がリフィエルを映す。
その表情に、真剣さを浮かばせて。
「お前は不測の事態に対して“上手く”対応した。ただ、それだけの事だ」
(それだけ、だなんて……。
見て見ぬ振りを、してくれるってこと?)
彼の表情は、一度だって異端に対する恐怖も強張りも映さない。ただ真剣に、リフィエルを見据えていた。
ぽつん。
雨の音が耳元で聞こえた気がした。




