15話 光の欠片
「貴様らのした事はここにいる全ての人間の命を奪う行為だ。理解はしているのか」
静かな怒り。
ーーいや、それは怒りではなく、叱咤だった。
風の音さえ止み、水たまりが静寂な水面に彼を映している。風に取り残された鉄と油、それと汗の匂いが鼻にまとわりつく。
その中でルーディスの声だけが、音だった。
採掘場から脱出できた二人を出迎えたのは、外の光だった。
卒倒寸前の管理人と、魔術士。それから採掘現場の作業者たちが、こちらを見て陽の光の下で安堵の息を吐き出していた。その直後にルーディスの叱咤だ。彼らの心はきっと忙しないだろう。
皆避難することもなく、表で騒ぎ立てていたようで、誰一人逃げ出した者はいない。
(呆れた。さっさと逃げて、管理局に通報すればいいのに)
毒が溢れる。疲れか、それとも焦りか。
いつもなら制御できる表情に、苛立ちが漏れ出た。
「しかし暴発などもう数十年起きて、」
一人が言い訳がましく口走った言葉に、ルーディスの目が鋭く向けられる。それ以上の言葉を許さないその威圧感に彼らの背筋が伸びる。
「も、申し訳ありませんっ!」
「謝罪で済むような事態ではない! 七十八年前の事件を忘れたのか!!」
(七十八年前……、そういえば、魔石の暴走事件があって、その一帯が陥没したんだっけ……)
授業で習った歴史を思い出す。ぞわりと、鳥肌がたった。
あそこで魔法を使わなければきっと、ここら辺はーー。
リフィエルの視線の先で、彼の僅かに乱れた黒い髪が揺れる。
瞳が、自分の目を捉えた。
ぎくり、肩を強張らせる。
雲の影が、ゆっくり自分を包み通っていく。
瞳が、揺れ動いた。
「ローベイン。今回の件は俺が責任を持つ。それで構わないな?」
「……え?」
「落とし所は考えてある。問題ないな?」
彼は、リフィエルを責めるような言動を一つもしない。
一瞬、言葉を失う。
(それって、どういう意味?)
彼の瞳が、風に揺れた銀髪に隠れた。
「……はい。わたしは、問題ありません」
彼の言う責任が何に対するものかは分からない。だから否とは応えられない。
リフィエルは、こんな時にどうすればいいのかを知らなかった。
彼は背中を向ける。
雲が流れて、陽の光を地上に落とし込んだ。
「管理人、貴様もだ! 魔石の性質についての教育はしていたのかっ!!」
決して怒鳴り声はリフィエルには向かない。そのせいか、意識が段々とクリアになっていく。
(……やって、しまった……)
彼の声を聞きながら、リフィエルの思考は奥へ奥へと潜っていく。
じわり、後悔が広がりはじめていた。
ーーーー魔術ではなく魔法を使ってしまった。
“管理官”の、目の前で。
魔術に詳しい、無魔の上官の。
気が付いているだろう。
それが魔法であると断定は出来ずとも、魔術ではないことくらい。魔術語を使わない魔術など、この世にもう存在しないのだから。
空を仰げば青く、鉄と油の匂いが吹き始めた風に流れて、霞んでいく。自分の心とは裏腹に、優しい風が髪を撫でていく。
ーーこの後悔ごと、攫ってくれればいいのに。
そんなことをふと、思った。
ルーディスはしばらく、二人の魔術士と管理人を叱咤した。
正論と言葉で殴る彼の叱咤は随分と効いたようで、彼らは沈黙をずっと守っている。
彼らの魔術士である証の白いコートは、泥で汚れていた。
「……しかしだ。貴様らの職務の領分を犯した俺にも罪はある」
ルーディスの声は、湖面に映る月のような静けさがあった。
魔術士の瞳に映る彼の表情を、誰も読み解けはしない。
ただ彼の黒髪が、乱れたまま背中に落ちていた。
「よって対外的には不問とする。
だが、魔石の側で一瞬でも魔術を使用した罪は重い」
彼の口角がわずかに上がる。
笑っているようで、まるで笑っていなかった。
流れる風が、メッシュの赤い髪を撫で、彼の耳に彩を添える。
自分の指先が無意識に動き、擦り合う。
冷えきった肌が、ささやかな音を立てた。
「故に俺個人から罰則を与える事にする。以上」
(それは却って怖いものがある……)
何をさせられるのか、明言しない点が特に恐ろしい。
彼の楽しげな声に、背筋にぞわりと鳥肌が立った。
沈んでいく太陽が、木々の影を色濃くしていく。
過ぎゆく景色の中、沈む夕日をただ見送っていた。
オレンジの光が明滅するように、顔に影を落とす。
「ーーそれで。何か分かったか?」
柔らかな音楽に包まれている車内に、彼の声が混ざる。
窓を流れる街灯の光が、彼の横顔を淡く照らす。
朝と同じ車内のはずなのに、空気が違っている。
彼の顔を横目に、流れゆく景色を眺めていた。
少し、居心地が悪い。
いや。
正直、少しなんて、言えないほどに。
心が、落ち着けない。
ラジオの音楽も彼の吐息も何もかもが、心臓にかき消されている。
隣にいる彼は、その唇を閉ざしていた。
曲が終わり、アナウンサーが曲名を告げる。話し声を言葉と、頭が認識できない。
(……近くて。どうしたらいいのか)
帰りは助手席を“指定”された。
硬く握った右手は、いつでも彼に触れられる距離にあって、一つも動けない。
けれど、恐怖すらない。
おかしな話だ。普段なら触れられることに警戒して恐怖するのに、今のリフィエルには緊張だけがあった。
彼はいつも自分と距離を取っていた。
リフィエルが反応しない位置で。
どうやっても触れられない距離に。
今やっと、それを理解してしまった。
流れていく景色が遅くなる。
ゆっくり車が止まると、目の前を人が横切った。
暖色の街灯が車の天井を照らして、手元に影を落とした。
(……吐息が、聞こえる……)
それが、なんだか。
胸の奥の何かを、刺激するようだった。
(何か、分かったか……、えっと、そう、多分魔石のこと)
乱れた思考でどうにかその結論に辿り着く。視線を外に向けたまま、唾を飲み込んだ。
(怒られる、かな)
ポケットの中の物が、震えている気がする。
けど言わない選択肢はなかった。
「………分かったというか、その……、怒られるかもしれませんが」
ようやく言葉が出た。
けれど、反応が怖くて、運転席の方を見れない。
ほんの一瞬の間。
歩行者が前から姿を消した、その直後。
「敬語」
その言葉を理解するのに、少しの時間を有した。
「はい?」
思わず、彼を見る。
赤い瞳はリフィエルを見ず、前だけを見据えていた。
「素でいいと言っただろう」
「ーー上司、ですから」
「では、管理官として命令するか?」
悪戯混じりの声。
リフィエルはまた視線を外へ向けた。
走り出す。車体の小さな振動が、足元から伝わってきた。
少しずつ早くなる景色を、目が追う。
遠くに光る街並みが、少しずつ人工の灯りに満たされていく。
(……命令されたら、仕方ない……、よね)
「ーーほんと、意味わかんない人」
「お前にだけは言われたくないがな」
即答。
薄暗い外の風景が見える窓に映り込む自分が、珍しく“作ってない”笑みを浮かべていて、慌てて取り繕う。
「じゃあ、ボクが不遜なこと言っても、咎めないでよ」
「お互い様だろう。俺は、自分の口が悪い事を理解した上で話している」
「なら、いいけど」
うるさかった心臓は、いつの間にか落ち着いていた。ラジオから流れる人々の話し声が、耳に残る。
固まっていた右手は、いつの間にか動けるようになっていた。
「それで? 怒られるような事をしたんだろう?」
「……うん。した」
布の擦れる音を立てて、右手でポケットを探る。
そこから出てきたのはーー、淡く光を放つ石。
生き物のように脈動し、全てを破壊し尽くしそうな魔力を秘めたーー、
魔石の欠片だった。




