11話 ミルクティー
しとしと。
雨が降る。
葉を鳴らす雨粒。
鳴る着信音と、足音。
曇天に沈む管理局は、いつもよりも暗い雰囲気があった。
窓から見える空模様を、リフィエルの深い青の瞳が覗いている。まるで、太陽の光を待つ葉のように。
右足が未だ、彼女の思考を奪っていた。
『ローベイン。今日から管理官の元に戻っていい』
朝会のあと、バーナードはそう言っていた。
本来ならばすぐに実験室に向かわねばならないのに、未だ足はエレベーターにすら向かわず、窓のそばにある。
雨粒が窓に張り付く。
下へ伝い、落ちていく。
薄らと映る自分の顔には笑みも、苦痛もない。
常に巡らせている思考はしんと静まり、景色も音も全てが遠い。
ーーそうしないと、痛みで頭がどうにかなりそうだった。
どこかで、また、電子音が鳴っていた。
まるでリフィエルの思考を叩き起こすような音も、彼女の頭には届かない。
指先が、窓を滑る。
ピンとした冷たさ。
雫が指をつたって、床へ落ちる。
着信音が、止まった。
「リフィエル・ローベイン」
硬い靴音が、耳に届いた。
反射的に、視線がそちらを向く。
「………あ」
思考がハッキリとしてくる。
朝会の後、「管理官の元へ行くように」と言われていたのに、暫く立ち止まっていたことを、今更気が付いた。
思考が戻った分、右足の痛みも強く感じて、ぐ、と歯を噛む。
それから、体を彼に向けた。
靴が止まる。
リフィエルは、慣れたように笑みを貼り付けた。
「申し訳ありません、管理官。すこし、ぼんやりしておりました」
(……叱りを、受けるだろうな)
苦しい。
けれど、笑わなくては。
“異端”になど、なりたくないから。
「何度も電話をかけた」
「……申し訳ありません」
「体調は」
「問題ありません」
口が、平然と嘘を吐く。
本当のことは言いたくもない。
(だってボクは、“平気”でなくては、いけないんだ)
遠くで聞こえていた談笑が、更に遠のく。
手が勝手に震えて、背に隠した。
「…………、」
何かを言いかけたルーディスが、口を小さく開きーー、閉じる。
考え込むように、数秒、その口は閉ざされた。
ぱつん。
窓に雨粒が当たる。
それが、ガラスに映る彼女の頬を撫でるように滑り落ちた。
「……もぎ取って来たぞ」
低く、淡々と。
しかしどこか、躊躇いがあった。
リフィエルは、気付かない。
雨音で消された、彼の僅かな声の揺らぎを。
「なにを、ですか?」
「魔石。見たかったんだろう。本物が」
目を見開く。
背中に隠した手が、震えを止めた。
暫く使用を止めていた実験室は、少し埃っぽさがある。換気もできず、埃の匂いをただ押さえ込んでいる。
時計の音だけが、時間の流れを刻んでいた。
(……いつもより、ゆっくり歩いてた)
実験室まで来る道中、彼の背を追いかけるように歩いていた。そこでやっと、気が付いた。
普段から彼は、リフィエルの人よりも遅い歩みに合わせている。
ずっと気のせいだと思っていた。
(ボクの足の方が、追い越せそうだった)
そんなこと、どんな人と歩いていても、今まで一度だってなかったのに。
彼が先導するように扉を開ける。
それから、リフィエルを見た。
開け放たれた扉を暫く見つめても、彼は扉を閉めない。思わず彼の靴を見た。光を吸い込み放つ、手入れのされた革靴。
(足を痛めてる事に、気が付いてる? いや、でも)
隠している。
ずっとずっと、誰にも言わず。
誰かに咎められたこともなく、気にされた事もない。そうでなければ困るのだと、虚勢を張って。
(知られたくない)
この罪の証だけは、誰にも。
「……魔石を此処に持ち出す事は出来なかった」
先に口を開いたのは、ルーディスだ。
手が、入室を諭す。
開けられた部屋にゆっくり入る。
隣を通る際に体が無意識に縮こまった。
背後で扉が閉まった。
小さな音でゆっくりと。
彼が沸いたお湯をティーポットに注ぎ、蓋を閉じる。
その動作はいつも通り丁寧だ。
「座れ」
けど、その指先とは裏腹に言葉は端的だ。
上司よりも真っ先に座ることを躊躇っていれば、ルーディスの口が開いた。
「この問答を何回繰り返せば気が済む。さっさと座れ」
「……」
返事をする気力もなく、椅子に腰を下ろす。
椅子が、甲高い音を立てた。
座ってすぐだ。ティーポットの隙間から漏れる湯気が、香りを運んでくる。
(……あれ、少し。香りが違う……?)
甘ったるく柔らかな香り。いつもの華やかさとは、どこか違う。
「ーー持ち出しは不可能だったが、見に行く事は出来る。採掘場の見学許可を貰った。日程は明日以降、雨のない日に」
タイマーをセットした彼が、リフィエルを見る。
彼女の顔はどこか不思議そうにしていた。いつもの貼り付けた笑みは薄く、ルーディスの眉頭に僅かな皺が寄る。
「……なんだ?」
「いえ」
首を振る。
その動作に、ルーディスの目が細まった。
口角が、僅かに上がる。
「咎めない。言え」
言葉のわりに、空気が重く感じる。
(怒られる前の、雰囲気だ)
喉がきゅっと狭くなる。
リフィエルの視線が下がった。
「……お話とはあまり、関係ありませんが」
唾を飲む。
窓を塞ぐシャッターの向こうで、雨粒の音が微かに聞こえる気がした。
「その、……いつもと、香りが違う気がして」
「ああ、なんだ。それか」
口角を下げた彼が、手元のティーポットを見た。
(魔石とまったく関係ないこと考えてたのに)
彼は叱るつもりもなければ、話を聞いていたかを問い詰める気もないらしい。そっと前髪から覗くように見ても、ルーディスの表情に怒りはないように思えた。
「今日はアッサムだ」
紅茶には詳しくなく、リフィエルは気まずそうに指先を擦り合わせた。
「いつもはダージリンだ。今日はミルクティーにしようと思ってな。砂糖を入れなければいいんだろう?」
「蜂蜜も嫌です」
「分かってる」
彼がいつも真っ先に入れる黄金色を思い出す。つい出た言葉を、彼はやはり咎めない。
タイマーが鳴る。
彼の指先が、それを止めた。
ミルクティーが、手の中で揺れている。
すん、と鼻を動かせば香る、甘みのある湯気で、痛みが沈んでいく。
いつもとは違う香り。
けれど、いつも通りの温かさ。
(変なの。前は、あんなに怖かったのに)
今はこの人といても、落ち着く気がする。
「採掘場は足場が悪い。魔術士が待機しているが何があるか分からない。間違っても魔術は使うな」
「はい」
魔石の危険性は、よく知っている。
魔石は魔力と共鳴する。
共鳴は振動を呼び、振動が魔石を傷付ける。
傷付いた魔石はーー、暴発する可能性があった。
(ボクの、魔力みたいに)
「いいか、もう一度言う」
彼の目がリフィエルを射抜く。
威圧感があるのに、恐ろしくは感じない。
「足場が悪い。怪我をしないよう、気を付けろ」
「……はい」
カップの温もりはまだ、冷えていない。
口をつければ、砂糖も蜂蜜も入っていないはずなのに、ほんのりと甘く感じる。
(……この甘さは、平気かも)
甘いものは、苦手だったのに。




