10話 ーー痛い。
桜の花びらは、散っていった。
ほとんどを緑に埋められた木々の中に、ほんの少しだけピンクが残っている。陽の光を隠すようにかざした手にはもう傷跡は残っていない。
(この間の雨で、ほとんど流れちゃったんだ)
まだ寒い朝の道を、上を見ながら進む。
アスファルトは昨夜の雨を吸いきれず、ところどころ鈍い光を放つ水たまりが残っていた。水の中に沈む薄汚れた花弁達が、静かに身を寄せ合っている。
足が、その水を跳ねた。
駅のホームで電車を待つ。
上ばかりを見て濡らしてしまった足元が、冷たい。
人の足音、駅員の笛の音、見ず知らずの人の放つ匂い。
視線が周囲を警戒する。
それからサッと、魔法で乾かした。
口を閉ざしたまま、静かに。
(……疲れる)
電車は苦手だ。
人が多く、密室で。
閉じ込められている気分になる。
出来れば乗りたくはない。
けれど管理局まで歩いて行くことも、出来はしない。
「ローベインさん、おはよう」
ノエの声が少し遠くから聞こえて、そっと安堵に胸を撫で下ろした。
彼はいつも通りの仕事着で、手を上げてこちらに向かっている。人混みの中、青い髪がゆらり揺れていた。
リフィエルはぺこりと、少し頭を下げる。
「おはよう、ございます」
「桜ほとんど散ってたね」
ノエは寂しそうに笑い、彼女の横に立つ。
(そういえば、)
彼と出会ったのも、桜が散る季節だったことを、ふと思い出した。
同じ電車、同じ時間に二人は乗り込む。あの時も、ノエが先に気が付いて声をかけてきた。
『いつも顔色悪いけど、大丈夫?』と。
それから毎日、仕事のある日はこうして顔を合わせる。彼がいると不思議と吐き気も心も落ち着く。
(この人がいなかったら、通勤はもっと辛いものだったな)
雑踏も、人の声も、電気の白い光も。
彼がいると背景のように溶け込んでいく。
「僕上を見ながらここまできたから、見て。足元」
「……濡れてますね」
「そう。足元ちゃんと見なくちゃね」
彼の足元は濡れている。
先程までの彼女と同じように。
『太陽の下通る風よ、水の渇きを示したまえ』
彼の魔術語の終わりとともに、足元が渇いていく。あったかーい、とその目元を細めた。
その優しい魔術に、リフィエルはそっと視線を逸らす。
(ボクは、魔術をあんな風には使えない)
それがいつも、心に重たい何かを背負わせた。
「ーーそれから、今日は管理官が一日不在になる。何かあればいつも通り俺に指示を仰ぐように。以上」
朝会は、管理官の不在を告げる言葉で終わりを迎えた。
外はもう春を過ぎているというのに、まだ此処はひやりと寒い。時折小さな機械音が鳴り、暖かい風が天井から下へ這う。
雑談に花を咲かせながら去り始める職員たちの声を聞き、吐息をこぼす。
(最近、管理官忙しそうだな)
彼の姿を暫く見ていない。
忙しくしていることは朝会でのバーナードの言葉で分かるが、彼の行動は不明瞭だ。
(何を、してるんだろ)
まさか本当に、天然魔石の調査許可の為に奔走してるのではーー……。
(そんなわけ、ないか)
「ローベイン。すまん」
思考の奥深くまで潜っていた頭が、声で戻って来る。視線を向けた。
声の主は、罰が悪そうに茶色の髪を乱雑にかいている。
「センズ課長。わたしに仕事ですか」
バーナード・センズ。
魔術研究課の課長を勤める彼は、申し訳なさそうに頷く。それから、剃り残しのある髭を指先が気にしていた。
「管理官から今日も頼まれてな。昨日のように解析の仕事してくれれば助かるんだが」
「構いません。いつもの場所ですか?」
「いや、今日は資料室の方だ。少し持ち運びに難がある物で、あまり動かしたくない」
「分かりました」
ふと、ルーディスの顔が浮かぶ。
(……ボクに一言くらい、声かけてくれたらいいのに)
同じ仕事を共にするのだから。
(ってボク、何考えてるんだ。馬鹿だ)
思考を振り切るように、一歩足を進める。
既に進み始めていたセンズの後を追うように、少し駆け足で。
(……そういえば、管理官と歩く時は、早足になったことないな)
不思議といつも近くにあった、彼の揺れる黒髪を思い出した。
資料室には、数名の職員がいた。
机の間を飛び交っていた談笑が、二人の姿を見てふっと途切れる。
ペンの音だけが一瞬、妙に大きく響いた。
「課長も今日は資料室でお仕事ですか?」
女性職員が声をかけた。バーナードは「いや」とこぼしながら手を振る。
「俺はこれから会議だ。残念ながら。仕事なのはこっち」
職員たちの目が、体格の大きいバーナードに隠れていた彼女を見る。
リフィエルは、いつも通り笑顔を浮かべた。
「あー、えっと……ローベインさん、ですね。分かりました」
職員の視線は、どこかぎこちない。
資料室特有の紙や油の匂いが、彼らの匂いと混ざる。
少し、胸の奥がざわつく。
「ローベインは隣の特別資料室で仕事がある。間違えて鍵を閉めたりしないでくれよ」
「分かってます」
特別資料室の扉は、資料室の奥にあった。
廊下から直接出入りはできず、資料室を通るしかない。
(逃げ道が、一つもない)
バーナードが特別資料室の鍵を開けて、小さな鍵を一つ、指先にぶら下げた。
それを手のひらで受け止める。
鍵のナンバーを確認して、彼女は特別資料室へと入った。
「よろしく頼むよ」とバーナードの声に、返事を一つする。
扉が、背後で大きな音を立てて、閉じる。
一人きりの部屋は、静まり返っている。
窓もないこの部屋は、空気まで閉じ込められているようだ。
機械音が僅かに響き、歩くだけで、布の擦れる音がする。
(………ここは、嫌だ)
逃げ場のなさが、酷く心を痛め付ける。
鍵のナンバー通りの棚に向かい、差し込む。
それからロックを外して戸を開いた。
古い紙の匂いが部屋に広がっていく。
湿気の制限をした特別資料室は、肌寒い。
喉がカラカラに渇くような感覚がずっとある。
中にある資料の中、未解析札が下げられているガラスケースを一枚取り出す。
中にしまわれた古い紙が記す文字に、目が釘付けになった。
(これはーー、千七百年前の魔法資料。魔法戦争で失われかけた魔法をかき集めた……)
右足が痛む。
波打つように、脈打つように。
だらりと、右足から何かが溢れていくような感覚に、歯を噛み締めた。
座り込み、右足をさする。
濡れてもいない、傷跡もない足は、ずっと痛みを訴えている。
失ったものを悲しむように、自分の罪を忘れるなと責めるように。
部屋の向こう側から、談笑する声がかすかに耳に届く。
その中に「ローベイン」の単語があった気がして、目を閉じた。
ーーー無性に、紅茶が飲みたい。
(違う。ボクが好むのは、コーヒーだ)
紅茶なんかじゃ、ない。
(………痛い)
痛い。




