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恋はきっと、魔法だ  作者: そそで。
一章 沈黙を破る光
11/18

10話 ーー痛い。



 桜の花びらは、散っていった。

 ほとんどを緑に埋められた木々の中に、ほんの少しだけピンクが残っている。陽の光を隠すようにかざした手にはもう傷跡は残っていない。


(この間の雨で、ほとんど流れちゃったんだ)


 まだ寒い朝の道を、上を見ながら進む。

 アスファルトは昨夜の雨を吸いきれず、ところどころ鈍い光を放つ水たまりが残っていた。水の中に沈む薄汚れた花弁達が、静かに身を寄せ合っている。


 足が、その水を跳ねた。




 駅のホームで電車を待つ。

 上ばかりを見て濡らしてしまった足元が、冷たい。

 人の足音、駅員の笛の音、見ず知らずの人の放つ匂い。


 視線が周囲を警戒する。

 それからサッと、魔法で乾かした。

 口を閉ざしたまま、静かに。


(……疲れる)

 電車は苦手だ。

 人が多く、密室で。

 閉じ込められている気分になる。


 出来れば乗りたくはない。

 けれど管理局まで歩いて行くことも、出来はしない。


「ローベインさん、おはよう」


 ノエの声が少し遠くから聞こえて、そっと安堵に胸を撫で下ろした。

 彼はいつも通りの仕事着で、手を上げてこちらに向かっている。人混みの中、青い髪がゆらり揺れていた。


 リフィエルはぺこりと、少し頭を下げる。


「おはよう、ございます」

「桜ほとんど散ってたね」


 ノエは寂しそうに笑い、彼女の横に立つ。

(そういえば、)

 彼と出会ったのも、桜が散る季節だったことを、ふと思い出した。


 同じ電車、同じ時間に二人は乗り込む。あの時も、ノエが先に気が付いて声をかけてきた。

『いつも顔色悪いけど、大丈夫?』と。


 それから毎日、仕事のある日はこうして顔を合わせる。彼がいると不思議と吐き気も心も落ち着く。

(この人がいなかったら、通勤はもっと辛いものだったな)


 雑踏も、人の声も、電気の白い光も。

 彼がいると背景のように溶け込んでいく。


「僕上を見ながらここまできたから、見て。足元」

「……濡れてますね」

「そう。足元ちゃんと見なくちゃね」


 彼の足元は濡れている。

 先程までの彼女と同じように。


『太陽の下通る風よ、水の渇きを示したまえ』


 彼の魔術語の終わりとともに、足元が渇いていく。あったかーい、とその目元を細めた。

 その優しい魔術に、リフィエルはそっと視線を逸らす。


(ボクは、魔術をあんな風には使えない)

 それがいつも、心に重たい何かを背負わせた。






「ーーそれから、今日は管理官が一日不在になる。何かあればいつも通り俺に指示を仰ぐように。以上」


 朝会は、管理官の不在を告げる言葉で終わりを迎えた。

 外はもう春を過ぎているというのに、まだ此処はひやりと寒い。時折小さな機械音が鳴り、暖かい風が天井から下へ這う。


 雑談に花を咲かせながら去り始める職員たちの声を聞き、吐息をこぼす。

 


(最近、管理官忙しそうだな)


 彼の姿を暫く見ていない。


 忙しくしていることは朝会でのバーナードの言葉で分かるが、彼の行動は不明瞭だ。


(何を、してるんだろ)

 まさか本当に、天然魔石の調査許可の為に奔走してるのではーー……。

(そんなわけ、ないか)


「ローベイン。すまん」


 思考の奥深くまで潜っていた頭が、声で戻って来る。視線を向けた。

 声の主は、罰が悪そうに茶色の髪を乱雑にかいている。


「センズ課長。わたしに仕事ですか」


 バーナード・センズ。

 魔術研究課の課長を勤める彼は、申し訳なさそうに頷く。それから、剃り残しのある髭を指先が気にしていた。


「管理官から今日も頼まれてな。昨日のように解析の仕事してくれれば助かるんだが」

「構いません。いつもの場所ですか?」

「いや、今日は資料室の方だ。少し持ち運びに難がある物で、あまり動かしたくない」

「分かりました」


 ふと、ルーディスの顔が浮かぶ。

(……ボクに一言くらい、声かけてくれたらいいのに)

 同じ仕事を共にするのだから。

 

(ってボク、何考えてるんだ。馬鹿だ)

 思考を振り切るように、一歩足を進める。

 既に進み始めていたセンズの後を追うように、少し駆け足で。


(……そういえば、管理官と歩く時は、早足になったことないな)

 不思議といつも近くにあった、彼の揺れる黒髪を思い出した。






 資料室には、数名の職員がいた。

 机の間を飛び交っていた談笑が、二人の姿を見てふっと途切れる。

 ペンの音だけが一瞬、妙に大きく響いた。


「課長も今日は資料室でお仕事ですか?」


 女性職員が声をかけた。バーナードは「いや」とこぼしながら手を振る。


「俺はこれから会議だ。残念ながら。仕事なのはこっち」


 職員たちの目が、体格の大きいバーナードに隠れていた彼女を見る。


 リフィエルは、いつも通り笑顔を浮かべた。


「あー、えっと……ローベインさん、ですね。分かりました」


 職員の視線は、どこかぎこちない。

 資料室特有の紙や油の匂いが、彼らの匂いと混ざる。

 少し、胸の奥がざわつく。


「ローベインは隣の特別資料室で仕事がある。間違えて鍵を閉めたりしないでくれよ」

「分かってます」


 特別資料室の扉は、資料室の奥にあった。

廊下から直接出入りはできず、資料室を通るしかない。

(逃げ道が、一つもない)


 バーナードが特別資料室の鍵を開けて、小さな鍵を一つ、指先にぶら下げた。

 それを手のひらで受け止める。


 鍵のナンバーを確認して、彼女は特別資料室へと入った。

「よろしく頼むよ」とバーナードの声に、返事を一つする。

 

 扉が、背後で大きな音を立てて、閉じる。




 一人きりの部屋は、静まり返っている。

 窓もないこの部屋は、空気まで閉じ込められているようだ。

 機械音が僅かに響き、歩くだけで、布の擦れる音がする。


(………ここは、嫌だ)


 逃げ場のなさが、酷く心を痛め付ける。

 

 鍵のナンバー通りの棚に向かい、差し込む。

 それからロックを外して戸を開いた。

 古い紙の匂いが部屋に広がっていく。


 湿気の制限をした特別資料室は、肌寒い。

 喉がカラカラに渇くような感覚がずっとある。


 中にある資料の中、未解析札が下げられているガラスケースを一枚取り出す。

 中にしまわれた古い紙が記す文字に、目が釘付けになった。


(これはーー、千七百年前の魔法資料。魔法戦争で失われかけた魔法をかき集めた……)


 右足が痛む。

 波打つように、脈打つように。

 だらりと、右足から何かが溢れていくような感覚に、歯を噛み締めた。


 座り込み、右足をさする。

 濡れてもいない、傷跡もない足は、ずっと痛みを訴えている。

 失ったものを悲しむように、自分の罪を忘れるなと責めるように。



 部屋の向こう側から、談笑する声がかすかに耳に届く。

 その中に「ローベイン」の単語があった気がして、目を閉じた。


 ーーー無性に、紅茶が飲みたい。

 

(違う。ボクが好むのは、コーヒーだ)


 紅茶なんかじゃ、ない。




(………痛い)



 痛い。


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