毒か油か
中国戦国時代の末期。
戦国の七雄と呼ばれた国々がしのぎを削る中、もっとも強大であったのが秦であった。そしてその王に若干十三歳の政が即位するや、法を整備し、兵を強化すると、次々に他国を侵略していった。
政は、鼻が高く目は切れ長で、胸は鷲のように張り出し、声は山犬のようだったという。また虎狼のように冷酷で残虐だ、と評された。
ある時、そんな政の元に、みすぼらしいなりの一人の老人が引き出されてきた。
宰相である李斯はおずおずと政に言った。
「この男は咸陽の町中で、陛下の悪口を言っていた儒者でございます」
政は儒者を見て露骨に嫌な顔をした。小汚い上に、そもそも政は儒者嫌いである。
なお、咸陽とは秦の首都である。
「なぜこのような者をわしの前に連れてくる」
朝見の間に、政の冷たい声が響いた。だが、李斯は一層深く頭を下げると、
「恐れながら、先日、この者を陛下の前に引っ立てよ、とのご命令でしたので」
と、恭しく言った。
それでようやく合点がいった様子の政は、それがこれか、と、虫でも見るような目を儒者に向けた。
儒者はぼろ布をまとい、縄で四肢を縛り上げられて、這い蹲るような格好をしている。が、それでもその目は皺だらけの顔の中で、小さな光を放っていた。
――秦王には屈せぬ。
儒者の目はそう言っているかのようだった。政は儒者をじっと見つめると、ふっと笑った。横で見ていた李斯がぞっとしたように首を引っ込める。
「わしの悪口を言いふらすのは、当然死に値する。だが、ただ殺すだけでは面白くない」
政はなぶるような表情を儒者に向けた。儒者は相変わらず、政を睨み返している。
「儒者であれば、口は達者であろう」
言いながら政は、報告で聞いた自らを悪し様に言う言葉の数々を思い浮かべているらしく、そのこめかみに青い筋を浮き上がらせている。
「最期に何か好きな事を言わせてやろう。だが、それはある二つの事だ」
儒者は静かに聞いている。政は急に愉快そうになって話を続けた。
「それは正しい事か、正しくない事かのどちらかとする。そして、正しい事を言えば毒を飲ませ苦しまずに殺してやろう」
そして、と政は恐ろしい笑みを浮かべた。
「もし正しくない事を言えば、油釜の中でじわじわと煮殺してくれる」
政はそう言うと、さも可笑しそうに含み笑いをした。静寂のなか、その声だけが不気味に反響する。周りの臣下たちは互いの顔を見合わせ、すぐに下を向いた。
「酷いことを」
とは、思っていても誰も言わない。人の命をあたかも玩具のように弄ぶ政の所業。それを咎めれば、真っ先に死ぬのは儒者でなく自分になってしまう。政に諫言するには命がけでなくてはならない。いま一人の老儒者のために、その命を危険にさらす者はなかった。それでも目の前で人の命が潰えようとしているのを見るのは気持ちの良いものではないため、ある種憐憫の視線が儒者に注がれている。
その儒者は、しばらく黙っていたが、やがてその乾いた唇をひとなめすると、突然口を開いた。その声は震えることなく、人々の鼓膜を揺らした。
――私はじわじわと煮殺されるでしょう。
政はしばらく間を置いてから、落胆したような顔つきになった。儒者の言葉が面白くなかったのであろう。もっと気の利いたことを期待していたが時間の無駄であった、と書いてある様な顔だった。
同時に儒者が政を痛烈に批判するものと思っていた周囲からも、安堵のような、やり切れないような、そうしたため息が音もなく漏れた。
政はすっかり興味を失ったように、では望みどおり煮殺せ、と傍らの李斯にあごで指図すると、その玉座から下がろうとした。
だがその時、
「お待ち下さい」
と政を止めたのは李斯であった。何事か、と不機嫌に言う政に、李斯はまた深く頭を垂れた。
「先に陛下は、正しい事を言った場合、毒を賜うとおっしゃいました。いま儒者を煮殺せ、とは儒者の言った事が正しい事になります」
李斯の言葉に群臣がざわめく。
煮殺したら儒者が言った事が正しい事になり、毒で殺さねばならない。だが、毒で殺せば儒者の言った事は正しくなく、煮殺さねばならない。ここに、大きな矛盾が生じるのである。
――そういう事か。
群臣はみな儒者の言った言葉の意味が分かり、一様に驚きの色を見せた。そこには、どこか痛快な快さが含まれている事も否定できない。虫けらのように殺されるはずの年老いた儒者が、いま天下を平らげんとする秦王に一矢を報いたのだ。
儒者はその目を爛々とさせ、頭上の玉座にある政を睨みつけている。対して政は、その視線を真っ直ぐにとらえ、切れ長の目から発せられる冷徹な光で儒者を射すくめているようであった。
――さて、陛下はどうなさるのか。
群臣は固唾を飲んで見守った。毒か油か。この矛盾を解かぬ限り、政は儒者を殺すことはできない。かと言って赦す事はすなわち政が敗北したことになる。それを政が是としない事は、皆良くわかっていた。それだけに、政の判断に群臣が注目した。
政はしばらく黙っていたが、傍らの宰相李斯の方を向くと、
「そなたはどうしたら良い、というのだ」
と、平坦に言った。最初に矛盾を指摘したのは李斯である。が、その李斯はさすがにうろたえた。儒者の矛盾を決着させられないのだ。だが、解放せよなどと言えば、政にどんな目に合わされるか分からない。
そんな狼狽した李斯の様子を見た政は、意外にも声をたてて笑った。
「ならば、新たな条件を加えれば良い」
と政は事も無げに言うと、儒者の方へ視線を戻した。
「儒者よ。さらに何か言うことを許す。だが今度は、矛盾したことを言えばその場で首をはねる、という条件を加えよう。念のため、何も言わなければ車裂きの刑とする。さあ、なんと言う」
政は腹から哄笑した。そうして李斯を見やる。
「李斯よ、わしがやろうとしている事は、新たな世を作る事なのだ。新たな世を作るとは、古き道を捨て、新たな道を切り開くに等しい。そういう事なのだ」
言われた李斯はただかしこまり、声無く礼をとった。
儒者は何を言っても死ぬことが分かったのか、自ら舌を噛み切り、その場で絶命した。
秦王政――言うまでもないが、のちの始皇帝である。