英国学派の研究の重要性(上) By Robert W. Murray
伝統的に、英国学派(ES)の国際関係アプローチは、典型的なアメリカ社会科学における方法論や実証的検証への関心に過度にとらわれてきたわけではなかった。本書においてコーネリア・ナヴァリが指摘するように、初期のES研究者たちは、構造・システム・因果変数よりも、むしろ当事者による観察に注目することを好んだのである。この方法論的厳密さの欠如こそが、ESが十分に実証的な国際関係理論として発展するのを妨げ、現代国際関係理論における同学派の説明力を大幅に高めるためには解決されるべき課題となっている。
社会科学の伝統において理論として検証可能であるために同学派が直面する大きな問題は、方法論への無関心と、学者が明確に英国学派的アプローチを用いているのかどうかを判別するための明快な枠組みの欠如である。デイル・コープランドは、ES思想に存在する明確な欠落を的確に要約している。「何が説明されているのかが明確に分からなければ、特定の英国学派著者の立場を支持または否定する証拠を収集する方法は全くない」。これは、ES研究がアメリカ社会科学が課す厳格な実証主義的基準に従うべきだということでは全くないが、ES著者の間には共通点があまりに少なく、一貫した理論的レンズとして定義できないという主張には妥当性がある。リチャード・リトルは、ブザンが最初に提示した議論に基づき、ESを見る少なくとも三つの異なる方法があると主張する。
①国家指導者の心中に見出される一連の思想として
②政治理論家の心中に見出される一連の思想として
③国際システムの物質的・社会的構造を定義する外部から課された概念として
さらに、一部のES研究者は、その方法論的開放性と批判的可能性ゆえに同学派がより価値あるものだと描こうとしてきた。たとえば、ロジャー・エップは次のように論じている。
言い換えれば、英国学派は伝統――開かれた、交錯する、競合する物語の歴史性――を想起するのであり、その中にはすでに批判的資源が存在している。その博識で寛大な地平には、一種の「可能にする偏見」が含まれている。すなわち、不確定な未来への開放性という偏りである。
それでもなお、明確に識別可能な中核的前提や基礎原理の欠如は、同学派の理論的評価や実証的妥当性を事実上不可能にしている。
主流の国際関係理論においてESが十分注目されない主な理由の一つは、学者たちがESの原理を検証できず、学者が同学派を用いているのか(単に「国家社会」に言及しているだけではないのか)を特定できないこと、そしてさらに重要なのは、ESの枠組みで発表され続けている文献が新規の貢献を提供しているのか、それとも再編以降のES理解が初期のバターフィールド、ワイト、ブル、ヴィンセントらの考えを実際には否定しているのかを評価できない点にある。このような理論的曖昧さに対処するためには、同学派に方法論的厳格さを課す試みが有益かもしれない。
おそらくESをより厳密に定式化するための理想的なアプローチは、イムレ・ラカトシュの研究に見出せるだろう。多くの点で、ラカトシュの「科学研究プログラム」に関する研究は、初期のES思想家たちが当初から達成しようとしたこと――すなわち、両方とも重要性を持ちながら真理の観点では不十分であった二つの競合理論(ラカトシュの場合はポパーとクーンの理論)の中間点を見出すこと――を目指している。ラカトシュにとっての課題は、一方のカール・ポパーの主張と、他方のトーマス・クーンの主張をどうバランスさせるかだった。ラカトシュのメタ理論的貢献は、理論の新規性を判定し、その貢献が実際に価値を付加するのか、あるいは最終的に仮説の中核的前提を劣化させるのかを見極める方法論であった。ラカトシュの関心の中心は、ある科学理論がいつ別の理論に取って代わられるべきかを決定することにあった。ラカトシュの見解では、ポパーは反証に依存しすぎ、科学を異議に過度に開かれたものと捉えていた。
[ポパーは]依然として反証を理論と観察の決闘の結果として構想しており、そこに別のより良い理論が必ずしも関与しているわけではない。ポパーは、受け入れられた基本命題の一部を排除する手続きについて、詳細に説明したことが決してなかった。
一方で、クーンの理論はラカトシュにとってあまりに主観的であった。クーンは、科学とは大勢の権威者がそれを科学だと考えるものだと信じていたからである。
クーンは確かに、科学の心理学が重要で、実際に悲しい真実を明らかにし得ることを示した。しかし科学の心理学は自律的ではない。理性的に再構成された科学の成長は、本質的に理念の世界、すなわちプラトンやポパーの言う「第三世界」、知る主体から独立した知識の世界で進行する。
その結果、ラカトシュは「科学史の実際の細部に対応できるほど微妙でありながら、クーンが提示した政治的危険に抗するのに十分合理主義的な科学的方法論」を発展させようとした。 こうしたラカトシュの試みは、科学研究プログラム方法の発展につながった。この方法は、①ハードコア、②ネガティブ・ヒューリスティック、③ポジティブ・ヒューリスティック、④補助仮説の防護帯、という四つの主要構成要素から成る。ラカトシュ的論理によれば、理論は単に反証によって棄却されるのではなく、新しい事実を研究プログラムに提供する一連の貢献として評価されるか、あるいは新しいプログラムの創出へと導かれるかのいずれかである。
ラカトシュ的な意味での理論評価には、実証的事実の裏付けが必要である。しかしこれは、特に「世界社会」論を検討する際に、ES研究において継続的な欠陥である。ラカトシュは次のように述べている。
満足すべき理論に対する古来の経験的基準は、観察された事実との一致であった。われわれの経験的基準は、一連の理論が新しい事実を生み出すことである。成長の理念と経験的性格の概念は一体となっている。
ESの内部では、理論的貢献を実証的に検証する必要性は無視されがちである。代わりに、ESアプローチは、人類史を通じた国際社会の進化を強調する合理主義的方法を好む傾向にある。だが残念ながら、ES著者によるこの歴史的説明の主張すら弱いと解釈されている。「歴史的アプローチを国際関係に提供することを誇りとする学派にしては、アーカイブ資料や文書集を広範に活用した外交史的分析が驚くほど少ない」のである。ES理論に実証的内容が欠けているだけでなく、歴史的説明の使用ですら、その学派が自らの研究を通じて何を目指しているのかという観点から疑問視されている。 ウィリアム・ベインはこう問う。
もし英国学派の理論家たちが歴史を重視しているのが明らかだとしても、その目的ははるかに不明瞭である。歴史の内部に入り込み、想像力を自由に巡らせた後でも、我々は依然として問いを残される――歴史的知識は何のためにあるのか。
ES研究プログラムを創設することが困難であると言うのは大幅な控えめ表現だが、それは必要である。そのようなプログラムを定式化する上で最大の障害は、同学派の原理に同時に関わる三つの分析水準――システム、国際社会、世界社会――である。各水準にはそれぞれ独自の関心と理解があるが、共通する一つの核心要素が存在する――国家の役割であり、これはハードコア前提を構築する出発点として容易に利用できる。
ある研究プログラムのハードコア前提を特定することは、理論に方法論的かつメタ理論的な一貫性を適用しようとする上で不可欠である。ラカトシュ理論によると以下の通りである:
すべての科学研究プログラムはそのハードコアによって特徴付けられる。プログラムのネガティブ・ヒューリスティックは、このハードコアに対してモードゥス・トレンスを向けることを禁じる。代わりに我々は、ハードコアを防護する補助仮説の防護帯を明確化、あるいは発明するために創意工夫を用い、モードゥス・トレンスをこれらに向けなければならない。補助仮説の防護帯こそが試験の矢面に立ち、調整され、再調整され、あるいは完全に置き換えられて、硬化したハードコアを防御するのである。研究プログラムは、これが進歩的な問題移行につながる場合には成功であり、退行的な問題移行につながる場合には失敗である。
英国学派に突きつけられる挑戦は、国家――しかも一枚岩的に捉えた国家――こそが理想的なハードコアであること、そしてさらに、同学派の多層的分析において特定の前提をどこに適用するかを、学派の信奉者から受け入れさせることである。そのようなプログラムがどのようなものになるかを示すためには、国際システム、国際社会、世界社会を検討する必要があるだろう。




