リベラルな国際関係と軍事(三) by Scott A. Silverstone
4.Liberal International Relations Theory in Practice
第一次世界大戦後、ウッドロウ・ウィルソン大統領が最も情熱的に声を上げ、近代国家体制成立以来の国際秩序の基礎であった勢力均衡政治を拒否し、新たな自由主義的的秩序を提唱したとき、世界政治におけるリベラルの衝動は急速に高まった。彼が構想した新しい秩序は、いくつかの主要な特徴を持っていた。
1.各国の国民の平和への自然な利害を反映させる民主的統治、
2.国際紛争が必然的に暴力化するのを防ぐための仲裁制度、
3.国際紛争を平和的に解決しない国家からの侵略に直面した際、加盟国全員が被害国を支援するという集団安全保障の誓約を体現する国際連盟の創設(DiNunzio, 2006)。
しかし、ウィルソンの構想は実現しなかった。
世界大戦間期、リベラリズムは大きな挫折を経験した。1930年代の大恐慌と第二次世界大戦の勃発は、国際政治において達成可能とされたリベラルな構想に疑問を投げかけた。ウィルソンの指導にもかかわらず、米国上院は国際連盟への加盟を拒否し、大恐慌は世界貿易体制を崩壊させ、ドイツ、イタリア、日本における権威主義的軍国主義の台頭は、集団安全保障の理念では抑えられなかった。
大恐慌は、1930年代初頭に日本の対中戦争拡大の引き金となった。それまでの10年間、日本は必要な資源の確保と工業製品の市場開拓のために広範な貿易を行う「幣原外交」を展開していた。最終的な目的は、経済成長を持続させ、それを軍事力と安全保障・自立の基盤とすることにあった。そしてこれは平和的に行われていた。しかし、1930年に米国が国内製造業保護のために輸入品への関税障壁を引き上げるスムート・ホーリー法を制定すると状況は変わった。米国は大陸規模の領土、豊富な資源、大人口を有していたため、自国領域に依存してこの経済危機を乗り切れると判断した。英国も1932年のオタワ会議で「帝国特恵制度」を採用し、英帝国内および自治領との貿易には低関税を適用する一方、それ以外の地域からの輸入品には障壁を設けた。米英とも、広大な領土的支配とアクセスを活用して世界貿易危機に対処したのである。
大国の中で、この世界貿易の衝撃に最も脆弱だったのは日本であった。地理的基盤が乏しく、自国資源に頼れなかったためである。その結果、日本の指導者は、工業国として生き残る唯一の選択肢は、暴力的な帝国拡張であると結論づけた。1931年の満州侵略から始まった対中戦争は、1930年代を通じて拡大し、1940年にはフランスの東南アジア植民地を占領するに至った。米国は、帝国主義的征服からの撤退を迫るため、鋼鉄や石油の禁輸を含む厳しい経済制裁を段階的に実施した。これは危機を激化させ、日本国内で東アジアの地域覇権と軍事・経済力の維持に向けた最終的な行動を主張する強硬派の台頭を促した(Barnhart, 1987; Copeland, 2011; Iriye, 1990)。
20年の間に二度の大国間戦争が勃発し、その後米ソ間の冷戦が続いたことは、多くの国際関係論学者に、20世紀初頭のリベラル思想を「ユートピア的」「理想主義的」と批判させることになった。しかし、この世紀の大量暴力と高まる安全保障上の危険は、リベラルの理論家と政策立案者に、世界政治の最も危険な特徴を安定化させる取り組みを続けさせた。恒常的で激しい競争や戦争を避けられないものとして受け入れるのではなく、多くの実務家は、競争、戦争、人間の苦しみを抑える解決策としてリベラリズムの論理と手段に目を向けた。そしてその後の数十年間、リベラリズムはこれらの問題を根絶できなかったものの、危険を和らげることには一定の成果を上げた。
戦後の最も野心的な構想の一つは、もちろん国際連合(UN)システムの創設であった。第一次世界大戦後の国際連盟の失敗にもかかわらず、第二次世界大戦の壊滅的被害は、戦争を防ぎ、自由主義的な社会・経済目標を追求するために国際協力を促進する組織への強い需要を生み出した。国際政治における軍事力の役割との関係では、UNの創設文書は現実主義とリベラルの両方の論理を反映している。例えば、暴力を抑制しようとする自由主義的衝動と制度主義の論理に従い、憲章第1章は、加盟国に対し「いかなる国の領土保全または政治的独立に対する威嚇または武力行使を国際関係において慎む」ことを求めている。また、第6章は国際紛争の平和的解決を義務づけており、数十年にわたり数多くの平和維持活動の根拠とされてきた。
第6章第51条は武力行使に関する規則を明確に定めており、個別国家が他国の侵略に対して固有の自衛権を行使し、国際社会からの承認や支援を求める時間がない場合を除き、武力行使はもはや自明の主権的権利ではない。それ以外の場合、国連安全保障理事会が「国際の平和および安全に対する脅威」と宣言した事案に対してのみ、第7章の下で合法的な武力行使を承認できる。
安保理の構造は、第二次世界大戦時の五大国(米国、英国、ソ連、フランス、中国)に常任理事国席と拒否権を与えることで、当時認識されていた国際システムにおけるハードパワーの現実を反映している。しかし、地域枠の非常任理事国10カ国とともに、安保理は国際的に武力行使の正当性を付与する唯一無二の機関である。理念は崇高だったが、冷戦期のパワーポリティクスは安保理の本来の役割を阻んだ。第7章が初めて「必要なあらゆる手段」による侵略阻止を承認したのは、1990年11月のイラクによるクウェート侵攻への対応であった(Quigley, 1992)。その40年前、1950年6月の朝鮮戦争開戦時にも安保理は武力行使を承認したが、これはソ連代表が会議に出席していなかったため可能になったものである。
それ以来、安全保障の領域における国連の役割をめぐって最も重要な論争は、国家主権の問題と、国際的介入への強い圧力を生みかねない人道危機に関するものとなってきた。世界政治秩序の構造そのものを組織化している基礎概念である「主権」は、実のところ、凄まじい暴力の歴史的瞬間――17世紀初頭にヨーロッパ全土を荒廃させた三十年戦争――と、講和に際して戦争の蔓延を抑える規則を確立しようとした指導者たちの努力の産物である。制度としての主権規則は、領土によって定義された国家を保護することを意図しており、国家は自国の国境内において外部からの干渉――それはしばしば暴力的な介入や強制という形をとった――から自由である権利をもち、同時に他者のこの権利を尊重する義務を負う、と定められた。
興味深いことに、国内問題に対する外国国家の干渉と、それがもたらしうる国家間の暴力を抑制するために設けられたまさにその制度が、近年では、個人の人権や抑圧からの自由を優先する、より広いリベラルな価値観と衝突するようになった。その結果、リベラリズムは、重大な人権侵害、なかでもジェノサイドで告発される政治・軍事指導者に対する主権の保護を制限し、たとえ人びとが政治的抑圧の直接の被害者ではなくとも、国家の失敗の帰結に苦しむ住民を救出することを目的とした人道的軍事介入を正当化する動きを促してきた(Power, 2003)。冷戦終結以降、リベラルな介入主義、少なくとも軍事介入を求める声の顕著な事例は世界各地に及び、ソマリア、ハイチ、ボスニア、ルワンダ、コソボ、東ティモール、コンゴ民主共和国、リベリア、シエラレオネ、ベネズエラ、シリア、イエメン、リビアなどが含まれる。
こうした期待にもかかわらず、国連は国際連盟と同様、その創設者たちの構想には明らかに及ばなかった。実際、現実主義者は国連を、国際協力を妨げる権力政治の支配がなお続いていることの一例として引き合いに出す。しかし、リベラリズムが実際に機能した、より優れた例は、戦後の国際経済システムと欧州統合運動の中に見いだせる。
第二次世界大戦に勝利する以前から、連合国の政府は戦後秩序を見据えていた。1944年、経済政策の立案者たちはアメリカ・ニューハンプシャー州のブレトンウッズに集い、自由貿易、経済開発、各国通貨の安定を促進する一連の通貨体制の規則と組織を創設した。そこには戦間期から得られた最重要の教訓が反映されていた。すなわち、1930年代の大恐慌――大量失業、銀行破綻、株価暴落、国際貿易の崩壊をもたらした危機――が世界的な経済的惨事であっただけでなく、その衝撃は危険な仕方で国際安全保障の政治にまで波及した、という教訓である。戦後の立案者は、経済的混乱がヨーロッパでのナショナリズムや軍国主義イデオロギーを助長し、ドイツではナチ党が国内の恐怖や不満を梃子にしてその暴力的野望への大衆的支持を獲得する機会を与えたことを理解していた。したがって、第二次大戦後に協調的な自由貿易・金融システムを構築する目標は、単に経済的繁栄を高めることにとどまらず、1930年代から40年代初頭にかけての破局の再来を防ぐうえでも不可欠だと考えられたのである。
ブレトンウッズ体制は、経済開発を支援する世界的機関である国際復興開発銀行(のちの世界銀行)と、各国通貨の価値の不安定な変動を抑えるための国際通貨基金(IMF)を生み出した。戦後2年を経て、追補会議が関税及び貿易に関する一般協定(GATT)を設け、これは現在の世界貿易機関(WTO)の前身となった。WTOは開放的な貿易体制の規則を定めただけでなく、より複雑化する世界経済に合わせて各国が定期的にこれらの規則を更新し、経済紛争を平和的に裁定するための仕組みも整えた(Cohen, 1977; Dormael, 1978; Ikenberry, 2011; Maier, 1987)。
ブレトンウッズ体制が世界の金融・貿易秩序にリベラルな原則を適用していた一方で、とりわけヨーロッパと大西洋共同体の内部では、大国間紛争という災厄を抑えるために、さらに大胆な構想が打ち出された。第二次世界大戦後の欧州統合運動は、しばしばソ連の新たな脅威に対抗する効果的な同盟を築くための取り組みにすぎないかのように語られる。しかし西側の政治指導者たちが戦後を見据えたとき、多くが最大の脅威と見なしたのは、ヨーロッパの大国間で戦争が循環的に繰り返されることであった。第一次世界大戦の後に第二次世界大戦が続いたのと同様、ドイツが敗戦から回復すれば、第三次世界大戦がたった一世代後に起きるのではないかという恐れがあったのである。
この恐れに応える形で、欧州統合運動は「平和プロジェクト」として発足した。とりわけフランスのヴィジョナリーであるジャン・モネ、そしてアメリカの指導者たちによって、国際アナーキーと過激な政治が生み出す恐怖・不確実性・脅威認識――それが何百年にもわたる競争、軍拡、同盟の離合集散、戦争を生んできた――の根源を和らげ、あるいは取り除く意識的取り組みであった。第二次大戦後の数十年、統合は紆余曲折を経ながら発展したが、この運動は欧州諸国間の「安全保障のジレンマ」を解くための乗り物となった。何世紀にもわたり繰り返される大国間戦争の「主戦場(cockpit)」と呼ばれてきたヨーロッパの歴史を踏まえるなら、欧州統合運動は世界政治において革命的と言っていい。
欧州復興計画は、経済的苦難が再び過激な政治運動を生みかねないというリスクを軽減することを狙っていた。マーシャルは「欧州の回復に弾みがつくまで、政治的安定も確かな平和もありえない」と述べている。だが、これは単に米国の同盟国に援助をばらまくための単純な仕組みではなかった。支援を受け入れる国には一つの重要な条件が課された――友邦であれ旧敵国であれ、欧州全体で一銭たりとも無駄にしないよう、その使い道を各国が共同で決定しなければならない、という条件である。この任務を担う組織的器として欧州経済協力機構(OEEC)が創設され、マーシャル援助によって可能になった、相互利益をめぐる共通の利害と誘因がそこに体現された(Mastanduno, 1998)。
同じリベラルな「拘束」の論理に基づく重要な欧州の取り組みが、1950年にフランスのロベール・シューマン外相が推進した欧州石炭鉄鋼共同体(ECSC)である。ECSCは西欧6か国の石炭・鉄鋼部門を統合した。シューマンによれば、「石炭と鉄鋼の生産を共同化すること――とりわけフランスと西ドイツの産業――は、長らく軍需品の製造に捧げられ、そのために最も継続的な犠牲を強いられてきた地域の運命を変えるだろう」(European Union)。その後の数十年で、ECSCとOEECは欧州経済共同体(EEC)、欧州共同体(EC)へと継承・発展し、今日の欧州連合(EU)に至っている。
安全保障上の「拘束」の異色の例として北大西洋条約機構(NATO)がある。NATOは中央ヨーロッパに展開したソ連軍の脅威と、ソ連の攻撃的膨張主義に対する懸念に応じて1949年に創設された軍事同盟であり、その中核任務は明らかに現実主義理論の均衡論理に属する。しかし創設者たちはNATOに別の目的も見出していた。すなわち、将来ドイツが最大の脅威となるのかどうかが大いに不確実だった時期に、かつての敵対国どうしのあいだに統合的な防衛関係を築く組織としての役割である。端的に言えば、NATOは西ドイツを大西洋共同体に結びつけることで、西ドイツ自身の安全保障上の問題を解いた。これにより、国際システムの無政府性がもたらす圧力や、ヨーロッパ大陸の中心に位置する大国としての地理的脆弱性――東西双方からの潜在的脅威に直面するという厳しい現実――に対処するために、ドイツが再び軍国主義に向かう可能性は低下した。アイケンベリーが指摘するように、「条約交渉のどこにも、巨大な大西洋横断のNATO官僚制や、米国人将軍が率いる統合軍事機構を創出する意図はなかった」。むしろ米国の指導者たちは、マーシャル・プランの援助と同様に、NATOの目的は「ヨーロッパ内部により強固な経済的・政治的・安全保障上の結びつきを築こうとするヨーロッパの歩みを側面支援すること」にあると考えていた(Ikenberry, 2000, p.197; Schwabe, 1995)。