第7話 世界を繋ぐ、命の配達人
朝礼後、千尋は霧島に促され、先ほどまで賑やかだったカフェの奥にある会議室へと足を踏み入れた。重厚な扉が音もなく閉まると、途端に外の喧騒が遠のき、部屋にはひっそりとした、どこか厳かな空気が漂う。ずらりと並んだモニターと、無数の配線に囲まれた空間は、まるで秘密基地、いや、世界の裏側を操る司令室のようだった。千尋の胸には、期待と、そして微かな緊張が入り混じっていた。
霧島は流れるような、一切の淀みない動作でタブレット端末を操作し、正面の大きなモニターに次々と資料を映し出していく。その指先一つで、千尋の目の前に広がる世界が、いよいよ現実味を帯びていくのを感じた。まるでこれまで見てきた日常が、薄い膜一枚隔てただけの、もう一つの世界の片鱗を見せ始めたかのようだ。
「では、千尋さん。改めて、『Another World』について説明します。」
霧島の声は、いつもの穏やかさの中に、どこか凛とした響きを帯びていた。その声は、千尋が抱く無数の疑問を解き明かす鍵なのだと、彼女は本能的に察した。
「我々が『門』と呼ぶものは、正確には『次元安定化装置』の機能によって開かれる、地球とアストリアを繋ぐ唯一の通路です。そして、この門は、常にアストリア王国の王都の近くにある特定の場所へと繋がっています。」
モニターには、千尋が想像していた近未来的なゲートとはかけ離れた、古代遺跡のような石造りの巨大な門が映し出された。その向こうに広がるのは、息をのむほど広大なファンタジーの世界。青々とした草原、遠くにそびえ立つ見慣れない形の山々、そして夢物語にしか存在しないと信じていた白亜の城が、絵画のように浮かび上がっていた。
ゲームや映画でしか見たことのない景色が、今、目の前のモニターに鮮やかに映し出されている。それが現実にあるという事実に、千尋は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。まだ実感が湧かない、しかし確かに存在する異世界の姿に、千尋の心はざわめいた。まるで、物語の世界が、自分の手の届く距離まで迫ってきたかのようだ。
「この装置が地球とアストリアの次元の均衡を保ち、魔力的な波動の乱れを調整しています。そして、千尋さん方に運んでもらう『魔石』が、その調整を円滑にするための重要なエネルギー源となるんです。」
霧島は、モニターに黒曜石のような禍々しい輝きを放つ、拳大の石の画像を映し出した。それが「魔石」。一見するとただの岩の塊だが、画面越しにもその石から放たれる異質な「気配」のようなものが感じられ、千尋の背筋をゾクリとさせた。まるで、画面から冷たい鉛の塊がのしかかってくるような、言いようのない不快感が募る。そこに濃密な闇が凝縮されているかのような、不吉な予感が千尋の心を締め付ける。
「魔石は、アストリアに生息する魔獣から取れるものです。しかし、魔獣から取れた魔石には、瘴気が蓄積されているんです。アストリアでは、その瘴気を浄化する術がありません。」
千尋は思わず息を呑んだ。瘴気。それは、漠然とした不穏さ、負のエネルギーの塊なのだろうか。モニターに映る魔石が、今度は不気味に蠢いているように見えた。その言葉が持つ響きだけで、ファンタジー世界に潜む闇が、千尋のすぐ傍にまで迫ってきたような錯覚に陥った。
「しかし、地球では、魔法という概念が存在しません。そのおかげで、アストリアでは浄化できないその瘴気を帯びた魔石を、私たちは浄化することができるんです。」
霧島は淡々と、しかし確信に満ちた声で続けた。彼の声は、どこか科学者特有の冷静さを帯びていて、それでいて、長年この「異世界配達」という奇妙な仕事に従事してきた者だけが持つ、達観した響きがあった。彼の瞳の奥には、千尋にはまだ測り知れない、深い知識と経験の光が宿っているように見えた。それはまるで、彼自身がこの世界の真理の一部であるかのような、不思議な感覚だった。
「瘴気を帯びた魔石は、言わばエネルギーの塊です。一般の人々には知られていませんが、この地球全体には、巨大なエネルギーバリアのようなものが張られています。それは、地球を外部の脅威から守る役割をしています。そのバリアを維持するためには、膨大なエネルギーが必要で、そのエネルギー源こそが、アストリアから持ち込まれる魔石のエネルギーなんです。」
千尋は、壮大すぎる世界の仕組みに目を見開いた。地球を守るバリアのエネルギー源が、自分たちがこれから運ぶ魔石だというのか。まさに、想像を絶する話だった。
自身の仕事が、地球の存亡に関わっているという事実が、重く、しかし同時に強烈な現実味を持って千尋に迫った。背筋に微かな戦慄が走り、腕には鳥肌が立った。これはもう、単なるバイク便の仕事ではない。自分の平凡な日常が、一瞬にして世界の命運を握る壮大な物語の一部になったような感覚に陥った。まさか、自分がそんな大役を担うなんて、誰が想像しただろう。
「それでは……」千尋は、喉に張り付いた言葉をようやく絞り出した。彼女の頭の中では、無数の疑問符が飛び交っている。
「地球側が得して、アストリア側にはなんの意味があるんですか?」
霧島は、千尋の最もな疑問に、少しだけ口元を緩めた。その笑みには、この世界の真理を知る者の、静かな自信と、微かな諦念が宿っているようにも見えた。彼の瞳の奥に広がる複雑な光は、千尋にはまだ測り知れない、深い意味を含んでいるようだった。
「もちろん、アストリア側にも得はあります。これは、光と闇が互いに引かれ合うように、双方にとって必要な、互いに依存し合う関係なんです。」
霧島は、オフィスを見回しながら言葉を選んだ。まるで、見えない二つの世界が、この空間で繋がっているかのように。彼の視線は、遠い次元の彼方を見据えているかのようだ。
「アストリアでは、人々が魔法を使えば使うほど、その代償として瘴気が増えていきます。瘴気を帯びた魔石が放置されれば、それは環境を汚染し、より強力な瘴気や魔物を生み出す温床となります。」
千尋は、その言葉に背筋が寒くなるのを感じた。魔法。それは憧れの力だと思っていたが、同時に世界の癌にもなりうるというのか。それは、輝かしい表と暗い裏を持つ諸刃の剣だと、千尋はようやく理解した。まるで、便利な文明と引き換えに環境を破壊し続ける地球の姿と、奇妙に重なるようだった。どこか遠い異世界の出来事と片付けられない、根深い問題がそこにはあった。自分の住む世界と異世界が、こんな形で繋がっているなんて。
「そこで、我々地球側の役割です。地球は、魔石の瘴気を浄化し、空になった魔石をアストリアに戻します。」
霧島の言葉に、千尋は「空になった魔石?」と問い返した。まるで、乾いたスポンジを絞るように、疑問が次々と湧き出てくる。彼女の好奇心は、この未知の真実によって無限に刺激されていた。
「ええ。瘴気が取り除かれ、空になった魔石は、逆に新たな瘴気を吸収することができるんです。アストリアの環境浄化に役立つわけですね。さらに、その空の魔石には、新たに魔力を込めて、魔道具などに転用することもできます。」
千尋は、その壮大な循環の仕組みに、ただただ圧倒されていた。自分たちの「バイク便」が、二つの世界の均衡を保つ、まさしく「命を運ぶ仕事」だということを、この時初めて深く理解したのだった。それは、単なる荷物運びなどでは決してなかった。自分の原付バイク「マメ太」が世界の命運を左右する重要な役割を担っている、その奇妙な事実に、千尋は思わず吹き出しそうになったが、すぐに真剣な表情に戻った。
霧島は、そこで一度言葉を切ると、千尋の驚きに満ちた顔をゆっくりと見つめた。その眼差しは、どこか遠い過去を懐かしむようでもあり、同時に深い諦めを宿しているようでもあった。それは、彼がこのシステムを築き、維持してきた中で、幾度となく直面してきた「避けられない代償」を物語っているかのようだった。彼の瞳の奥には、千尋にはまだ測り知れない、複雑な感情が渦巻いているように見えた。
「そして、これはアストリアだけの問題ではありません。地球側も、同じことが言えるんです。」
千尋は、霧島の言葉に思わず息をのんだ。地球も? 自分たちの住むこの世界が、何らかの代償を払っているというのか。その問いは、彼女の足元を揺るがすように、現実の地盤を削り取っていくかのようだった。
「私たちの地球は、科学技術が進歩し、魔法の概念がなくても豊かな文明を築き上げました。しかし、その一方で、地球の環境は破壊され続けています。大気汚染、海洋汚染、森林伐採、資源の枯渇……。これらは、アストリアの『瘴気』とは異なる形ですが、やはり負のエネルギーが蓄積されていると言えるでしょう。」
霧島の声は、淡々としていながらも、その言葉の一つ一つには重みがあった。千尋は、自分が暮らす世界の、目を背けてきた現実を突きつけられた気がした。日々のニュースで耳にする環境問題が、今、この異世界との繋がりの中で、全く異なる意味を持って迫ってくる。それは、まるで自分自身の問題として、千尋の心を強く揺さぶった。彼女の胸に、新たな責任感が芽生えるのを感じた。
「アストリアの魔石の瘴気は、地球のバリアによって浄化され、そのエネルギーは地球の防御に役立つ。そして、浄化された空の魔石は、アストリアの瘴気を吸収し、新たな魔道具に転用されることで、彼らの魔法文明を維持する助けとなる。」
霧島は、まるで壮大なパズルを解き明かすように、二つの世界の共存関係を語った。彼の言葉は、宇宙の法則のように確固たるものに聞こえた。
「地球とアストリア。異なる発展を遂げた二つの世界が、互いの負の部分を補い合い、世界の均衡を保っている。それが、この異世界配達の真髄なんです。」
千尋は、ただただ圧倒されていた。自分が軽い気持ちで始めた仕事が、これほど壮大で、そして重い役割を担っているとは、夢にも思わなかった。それは、単なる荷物運びなどでは決してなかった。自分は、二つの世界の命運を乗せた、バイク便の配達員なのだ。その責任の重さに、千尋は思わずゴクリと喉を鳴らした。
この重圧が、これから彼女の人生をどう変えていくのか、千尋自身もまだ知る由もなかった。しかし、彼女の心の中には、新たな使命感のようなものが、静かに、しかし確かに芽生え始めていた。それは、まるで、この仕事が自分にとっての「天職」であると、無意識のうちに告げられているかのように。